世界のナイセストピープル①
ヒトの足によって踏みしめられたあぜ道を、南へ南へと進んでいく。着の身着のままこの世界に来ている。
おそらくここは異世界なのだろう。先程「大天使」と名乗る人が言っていたから。理屈ではわかっているけれど、感情が全く追いつかない。
もう私は家族に会えないのか。もう私は仕事をしなくていいし、もう地元には帰れない……。
色々と考えを巡らせているものの、そのすべてが水疱に帰してしまう。色々と考えているのに、すべてが「理解できない」で終わってしまう。そもそも、自分が死んだということすらイマイチ理解できていない。
南へすすんでしばらく、急な下り坂になった。ギアを3速に落として、ゆっくり下っていく。何度もくねくねと曲がるあぜ道を、タイヤがすべらないよう慎重に走っていく――
「あっ」
「あっ」
「……また会いましたね」
「……クビになっちゃいました」
桃色の髪をなびかせていた彼女は、やはり見覚えのある顔だった。先程「大天使」と名乗っていた女性、その人である。体育座りをして木陰に佇んでいた。
顔を上げて私を見るやいなや、小さいため息をついた。
「ここをずっと南に進んでいくと、クレティアって街があるんでそこに行くといいですよ。じゃ、私の仕事はこれで終わりなんで」
「いやいやいや、なんかあったんですよね」
「クビになりました、天使を」
「クビ?天使を???」
その大天使はすっくと立ち上がり、お尻を払った。
「人間をこうやって異世界に運んだり死後裁きを与えるのは、神の使いである我々天使に任されています。いわゆる業務委託ですね。神様は世界のおおまかな方針を決めて、我々天使族の家系を継ぐ者たちが『天界』という場所でその細やかな処置を決める感じになってるんです」
「なんか、官僚みたいですね」
「はい、あなたと同じような仕事をしてましたよ。会議資料作成とか周辺関係との調整とか。でも私、どうも仕事ができなくて。人と話すのが苦手というか、色々たどたどしくて数年前から怒られてたんですけど……ついにクビになっちゃいました。色々とヘマをやってたんですが、このバイクを異世界に持っていったのが決め手でした」
「えっ……申し訳ありません、私のせいで」
「いやいや、これは私が招いた結果ですから。責任は私にありますし、黒瀬さんが気をもむことはありません」。「天使」と呼ばれたその女性からは、そんな責任感のある発言とは裏腹に、目から生気が失われていた。背骨も曲がっているし、首は自重に耐えられていない。
「……さっきいた、あのドロドロしたのは?」「あれは天使界の人事部長です。福音記者ルカの末裔がやってます」
大天使は頭をまたポリポリとかいた。「大天使ミカエルっていうのは通名、代々襲名していくもので、私は125代目大天使ミカエルです。親から与えられた名前はミリア・イスカリオテといいます」
「イスカリオテ……キリスト教におけるユダの出身地ですね」。私がそう言うと、ミリアは碧色の瞳を少しだけ私に覗かせた。
「はい。我々の先祖はめちゃくちゃ遡ればユダヤ人で、そこから神様の元へと向かわれたヒトの末裔なので、私は。で、その先祖の出身地がそのまま名字になっちゃった感じです。でも私、もう天使族じゃないんですけどね。天使は天使をクビになると、羽をもがれて『人間』として地上に追放されてしまうので」。ミリアはそう言って笑顔を見せた。
「ミリアさん……ですか?とりあえず、その南の街に行きましょうよ。我々、アテもないんですし」
「いえ……私はいいです。ここで朽ち果てていくんで」。ミリアはまた木陰に座り込んでしまった。なんだか私はいたたまれなくなって、バイクのエンジンを止めた。センタースタンドを立てて、そのままバイクにまたがる。
「……何してるんですか。早く行ってくださいよ。私にかまうとロクなことないですよ」
「……そう言われましても、私この世界のことよくわかっていないので……しばらく一緒にいていただけるとありがたいかなァ、と」
ミリアは体育座りをして、顔を膝の中に埋めてしまった。雲が多かった空は、ついに太陽を隠してしまった。
「いやほんとに、黒瀬さん頭いいんですから、多分私いたら足手まといになりますし……」
「う~~ん……このまま私がミリアさんを置いていったら、多分このあとの私はこのことを思い出して気を揉んでしまうじゃないですか。ここは私に免じて……」
ミリアはまた顔を上げた。「……確かに、すみません」。ちょっと日本人的な価値観を持っていて驚いた。桃色の髪色と碧色の目があるのに。
「……迷惑を潔しとしない環境にいたんですね」
「……すみません」ミリアは立ち上がって俯いた。少し余計なことを言ってしまった。私はタンデムバーを出した。「ここに座って足をここに。……そうです、まァ座り心地は最悪ですが、我慢してください」
また電源をつけて、セルモーターを回す。
「ああああああ……これ振動すご」ミリアの髪の毛が単気筒エンジンの振動に合わせて小刻みに揺れているのがサイドミラー越しに見えた。
「ここからどのくらいあるんですか?その街まで」
「大体歩いて1時間くらいです!!これうるさいですね!バイクって!」
「これでもバイクの中ではかなり静かな方です!」私はそう返した。「行きますよ、前のバーに捕まっててください」ガチャン!と一速に入れ、ドコドコと音を立ててあぜ道をゆっくり下っていく―
しばらく走ると下り坂の区間は終わり、海に面した小さな小さな平野部が見えた。
白亜の住宅で敷き詰められたその平野部の向こうには、木造船と白いマストが軒を連ねる港が。その港に蓋をするかのように大きな島が港の向こうに鎮座していた。
いつの間にか雲は晴れ、明るい太陽と磯の香りがする風が、我々にほんの少しだけ、希望を与えようとしていた。
これは……と私は言いかけた時、ミリアの笑顔がミラー越しに見えた。
「キレイな街でしょう?私はこの世界でここが一番好きなんです」
「……ここが、クレティア」
「ええ!白亜と海色に囲まれた『帝国』最大の軍港、クレティアです!!」