プロローグ
「……ん…………さん…………兄さん、着きましたよ」
「…………んぇ」
「着きましたよ、桜木町」
「……あぁ!すみません」
タクシーについている時計を見た。3時。30分で着いたか。学生の時から使っている財布をブリーフケースから引っ張り出す。
「料金が16800円ですね」
「タクチケで」オフィスの出入口の手前、プラスチックのボックスに無造作に置かれていたタクチケを帰りと行きで2枚パクってきてよかった。それを渡したら運転手はサラサラと事項を記入する。
「お兄ちゃん、ちゃんと寝てる?顔が大変なことになってるよ」
「はは……寝られればいいんですけど」
「明日……というか今日は休みかい?土曜だけど」
「そうですね……『先生』方からのお呼び出しがなければ」
「そりゃ大変だ」。そう言って運転手は必要事項をチケットに書き終えたのか、ペン立てにプラスチックのボールペンを投げ捨てた。
「頑張るんだよ。あと俺たちの給料も上げるよう言っといてくれ」
「ハハ、そりゃ労組に言ってください」
そう言って私はタクシーのドアを閉めた。運転手は私に会釈して、深夜3時の横浜・桜木町を駆け抜けていった。
もう頭は働かないが、体だけは無意識に自分の家へと無理やり体を動かしていた。無理に動かせば動くものだ。ここから10分ほど歩いた先に、私の家はある。
なんとなく、駐車場に向かってみよう。私が学生時代から乗っていたバイクがあるからだ。
仕事中は乗らないのに、半ばお守りのように肌身離さず持ち歩いているバイクの鍵を左ポケットから出してみた。
まあ、もう乗ることもないか……家に帰ろう……
俺、なんのためにここまで頑張ってきたんだっけ……
家の前の信号を渡って、重たい足を引きずりながらマンションの駐車場へ向かおうとした、その時。
横からの唐突な目映い光に目を細めた……
「……え?」
地元の風景。夏。ゆるやかに流れる川、水に浸って青々と茂るイネ。川沿いの石畳に無造作に置かれたリュックと衣服。川向こうには誰かが2人いた。
「おい黒瀬!早よう!!」
耳に馴染みのある声だった。あいつは同じ中学の――
「やめーや。馨は泳げんけえ、そんなんしたら溺れてまう」
弟の声だった。かすれ声の地元言葉。ずっと聞いてきた声だ。私は川向こうに声を張り上げた。「言うとれ!今行くけえの!」
川に向かって走り出した。石畳を越えて、膝まで水に浸かって……
「うわっ!!!」
急に水深が深くなり、足を取られる。そのまま私は川の中へとぶくぶくと沈んでいく………
寒い……
ああ、そういえば引き続きしてないな……あの書類作ってないや…………あれ、そういえばさっきまで俺は地元に…………
「お気付きですか?」
「…………んぇ」
「お目覚めのようですね、黒瀬馨さん」
長いうたた寝から目覚めた気分だった。私はゆっくりと目を開ける。
実家だ。実家の居間の、和室だった。ちゃぶ台を挟んだ正面には、桃色の髪をこしらえた女性が座っていた。彼女の碧色の目がギョロリとこちらを向く。背中からは一畳はありそうな大きな純白の羽が生えていた。
「私は大天使ミカエル。あなたの暮らしていた世界の、日本国を含む東洋地域における人間の死後処理を担当するものです。以後お見知りおきを」
「???」
ふと壁の柱を見た。弟と私で身長を競い合った時の、お互いの身長を彫刻刀で掘ったものだ。まだ残っていた。これ、母さんにすごい怒られたな。
「いやァ、すみません。突然こんなところに来てびっくりですよね。黒瀬さんは死ぬの初めてですか?」
「????」
「あぁいや、そりゃ死ぬの初めてですもんね」。その「天使」と名乗る女性は頭をポリポリとかいた。「私あんまり仕事とかコミュニケーションとか苦手なもんで。不備とかあったらすみませんね」
その女性は、傷だらけになっている実家のちゃぶ台の上に書類の束をそっと置いた。
「突然ですが、あなたは2024年9月、神奈川県横浜市中区の路上にて泥酔状態の乗用車にはねられ、死亡しました」
「……え?」
死んだ?まさか俺が死んだ?また変な夢でも見てるのか。最近うなされることも多くなったし。
「夢ではありません。あなたは死亡しました」
「……いやいや、ちょっと」
「……まァ、そういう結果になってますけど……」といいながら、「大天使」と名乗る者はその瞳を見開き、首をかしげた。
「じゃあ証明しましょう。これが夢ではないと」
そう言ってその天使と名乗る女性は書類の束から1枚の紙を抜いて、渡してきた。
「……死亡届」
「はい。貴方の死亡届です」
1枚の紙には、私の名前と住所、死亡理由が書かれていた。その筆跡は、この丸文字の筆跡は、紛れもなく母親のものであった。
自分の実家の住所が書かれたその死亡届は、なにかの力でしわくちゃになっていた。
「……母さんが、これ書いたんですか?なんかのドッキリですか?」
「あなたは死亡したので」
私はしばらく呆然とした。じゃあ、ここが死後の世界だっていうのか。この実家の居間が?そんなバカげた話あるかよ。
「……この度はご愁傷さまです。本人に言ってもおかしいですけど」
女神と名乗るその女性は私にぺこりと頭を下げた。私もつられて頭を下げる。
「……落ち着きましたか。ここは死後の世界。いわゆる『天界』と呼ばれる場所です。あなたの目には、あなたの都合のいいような場所になっているはずです」
「……だから、実家が」
「そういうことです」
女神と名乗る女性は1度咳払いをした。「それで、私はこれからの話をしに来ました」
「これからの話」
「はい。あなたには2つの選択肢があります。ここであなたの記憶を消して、全く違う誰かとして人生を歩むか、『異世界』と呼ばれる場所で第2の人生を送るか」
「……すみません、少し考えさせてください」
「もちろんです。逆に、ここで即決されたら我々もちょっとびっくりですけど」
どうやら私は本当に死んだらしい。まだ実感はないが、頬をひねってもつねってもしっかり痛い。多分これは本当だ。
で、私はこれから二者択一を迫られる。このまま人生を終了させるか、第2の人生を異世界で歩むか。
前者のメリットは考えてみたが、特にない。しかし後者を選ぶ度胸が私にはなかった。
この世界を捨てて、違う世界に行け。そんなの突然言われたって困るし、ついていけない。
後者のメリットは、私の場合『スキル』とやらを2つ選べるらしい。『スキル』というのは異世界における特殊技能のようなもので、魔法が使えるようになる、と考えてくれれば大丈夫だそうな。
「決める前に、聞きたいことがあるのですが」
「はい、答えられる限りではなんでも」
女神は碧色の目をこちらに向けた。彼女の白いワンピースが、窓越しに瀬戸内から吹く暖かい風になびいた。
「母と弟は、どういう将来を迎えるか……とか」
「えぇと、ちょっとまって下さいね……」彼女は数枚の書類の束から何度か髪を落としそうになりながらたどたどしく一枚の紙を引っ張り出した。「ええ……と……転生予定者の親族における処遇とその措置について……あ、これか」
「弟様は、裁判であなたの無念を晴らして数千万単位の賠償金を勝ち取り、そのお金で……これなんて読むんだろう……ナントカ島?でみかん農園を作って76歳に亡くなるまで穏やかな生涯を迎えます。お母様もそのみかん農園で働き、ゆっくりと余生を過ごしますよ」
「……みかん、か」
あいつらしいな、と思った。みかんか。そうか、みかんか…………
「……バイク、持って行っていいですか?」
「えっバイク?」
素っ頓狂な声を出した彼女を差し置いて、私は話す。
「はい、私の家にある、学生時代からずっと大切にしてきたバイクです。CT125って言うんですけど。持っていけないかなァ、と。その代わり、スキルは要りません」
「まァはい、大丈夫ですが……なんかこう、ここに来る皆さんは攻撃的なスキルを所望するので。例えば『最強の剣をくれ!』とか。それでいて「不遇だ」とか言うんですけどね」
「戦闘狂が多いんですね、ここに来る人」
「そうなんです。血の気がおおくて辟易とします」
女神さまはそう言って頭をポリポリとかいた。
「う〜ん、本当は現代的なモノを持っていくのは異世界の文明レベルを破壊しかねないのであまり好ましくないのですが……」
「その代わり、スキルは要らないです。定期的に消耗品を送ってくれるだけで結構です。交換した部品はそちらにお返ししますので、文明も壊れないかと」
「まァ、そりゃそうではあるのですが、万が一このバイクが他の転移者に盗まれてしまった場合のことを考えると……まァいいでしょう」
「ありがとうございます!」
「じゃあ、あなたのバイクはあなたと一緒に異世界へ送ります。消耗品関連は何かしらの手段であなた向けに送りますので、ご安心ください。ガソリンの問題ですが、ガソリン携行缶を20Lのものでご用意します。消耗品と一緒にお届けしますね」
「ありがとうございます、何から何まで」
「いえいえ、『前の世界』でしっかりとした実績を残したあなたへの、せめてもの措置です。それでは――」
と、言いかけたその時、後ろから『なにか』が来た。黒いドロドロとした何かが、私の後ろにいた。私はバッと振り向き、なにかの根源的恐怖を元にした本能的な逃走を見せた。
そのドロドロとした『なにか』は女神さまの方に近づき、呟いた。
「クビ」
「え?」
「クビ」
「……え?私?」
「クビ」
「……え、ちょっとちょっと」
「クビ」
気付けば私は、何もない山の中にいた。いや、山の谷間だろうか。
立ち上がって辺りを見渡す。あたりには草が生い茂っているが、人の往来が激しい場所なのか、ヒトが踏み鳴らしたあぜ道がある。そこに草木は生えていない。
あのドロドロとした何か、なんだったんだろう……と振り返ってみると、あった。
CT125、ハンターカブ。本田技研工業が創業時から作り続けている『カブ』シリーズの末弟だ。その堅牢な設計と単純な構造による頑丈性、大量の荷物が積める積載力にカブ独特の駆動方式は、昭和から令和を駆け抜け続けるバイクの1つの完成系だ。
学生時代に私好みにカスタムしたカブだ。色は赤、黄土色などあるが、私は緑だ。風防にくっつけてあるコンパスはしっかりと機能していた。ここでも方位磁針は使えるらしい。
サイドミラーにぶら下がっているフルフェイスのヘルメットを被って、あごひもをつける。
ああそうだ、この感覚だ。もう数年も乗っていなかった、この感覚。顔を押しつぶされるヘルメットの感触が、この小さなコックピットへの視界を鮮明にさせる。
差しっぱなしだった鍵を回して電源を入れ、セルスイッチを押す。
キュルキュルキュル…………
ドドドドド…………!!
この音に何人ものバイク乗りが魅了されてきただろうか。私はセンタースタンドを下ろし、足を後ろに回してバイクに跨り、ニュートラルから1速へとギアを落とした。
ガチャン! そんな機械音。スロットルを少し捻る。2速、3速、4速…………
まだ頭の整理はついていない。でもとりあえずは大丈夫だろう。根拠はない。根拠はないが、とりあえずカブがあれば大丈夫だ。
異世界も、カブで行こう。