74
風の谷の中は、驚くほど静かだった。霧の中を歩くたび、足音が湿った地面に吸い込まれていくようで、誰もが自然と口数を減らしていた。
崩れた石垣や、半ば倒れかけた柱。壁に彫られた精霊らしき像は苔むしており、それでもどこか、こちらを見ているような気がした。
「まるで……時間が止まってるみたい」
有紗が呟いた声が、霧に溶けて消える。空気は重く、風の音さえ、耳元で囁くような細さだった。
「でも、誰かいたよな。足跡が、まだ残ってる」 明が小声で言った。
確かに、人のものとは思えぬ奇妙な足跡が、谷の奥へ続いていた。小さく、しかし地面に深く刻まれていて、ひとつひとつの形が不規則だった。
やがて、霧が少し晴れたところに出た。
そこは、かつて祭壇のようなものがあったらしい広場だった。石で囲まれた円形の空間の中央に、低い祭壇があり、その上には黒ずんだ石碑が静かに立っていた。
「……これは」
ロメオさんが真っ先に駆け寄る。彼は本を片手に、石碑に刻まれた古代文字を必死に目で追った。
「やはり……! 『第一の言葉』だ! これは、精霊語の祈祷文の断片……!」
俺たちは石碑を取り囲み、その文字を見下ろした。黒ずんだ石の表面には、淡く光るような刻印が浮かび上がっている。まるで、俺たちの接近を感知して目を覚ましたかのように。
「聞け……」
そのときだった。
――風が、声になった。
それは確かに耳ではなく、心の奥に直接響くような言葉だった。古く、優しく、けれど力強い響き。意味は分からないのに、涙がこぼれそうになる。
誰もが動けずにいた。
「これが、『第一の言葉』……精霊の、記憶……?」
純子が小さく震える声でつぶやいた。
すると、石碑の下に敷かれていたと思われる石板の一部が、ゆっくりと光を放ちはじめた。
「これは……記録石だ。祈りと記憶を保存する、古代の装置だよ!」
ロメオさんが叫ぶ。俺が手を伸ばして触れた瞬間――
視界が、白に染まった。
気づけば、俺たちは、別の場所に立っていた。
ここは……風の谷がまだ生きていた時代?
石の建物はきちんと立ち並び、人々が忙しなく動いている。風に乗って、祈りの歌が聞こえる。巫女と思われる女性が、中央の祭壇で舞いながら、精霊に祈りを捧げていた。
だが――その美しい景色は、突如として闇に呑まれる。
黒い霧だ。
あの映像と同じ、都市を呑み込んだ黒い霧が、この村にも迫ってくる。人々が逃げ惑い、巫女が最後まで祈りを捧げる様子が、まるで映画のように映し出されていた。
そして、巫女の最後の言葉。
「言葉を残しなさい。真実が、未来を守る鍵となるから」
その瞬間、白い光が弾け、俺たちは現実に引き戻された。
「……今の、見たよな」
誰からともなく、震えるような声が漏れた。
第一の言葉――それは、ただの情報ではなかった。過去の記憶、精霊の祈り、人々の願い……それらすべてが結晶化した、生きた記録だったのだ。
「すごい……これが、あの映像の続き……」 沙耶がぽつりと呟く。
「これで、ひとつ目のピースは揃ったってことね」 純子が、矢筒を握り直しながら、強く言った。
「でも、これで終わりじゃない。……あと五つ」
俺は静かにそう告げた。
第一の言葉は見つかった。
だが、谷の霧はまだ晴れず、黒い記憶は確かに残っていた――。
風の谷を後にしたのは、翌朝のことだった。
夜明けとともに霧は少しずつ晴れ、谷に差し込む光が、まるで人々の祈りに応えるかのように祭壇を照らしていた。誰も言葉を発せず、それぞれが昨日の光景を胸の奥に刻みつけながら、静かに荷をまとめた。
「……もう少し、ここにいたい気もするけどね」
沙耶が名残惜しげに祭壇を振り返る。だがロメオさんはその隣で、ノートを閉じながら静かに頷いた。
「過去は過去だ。大切なのは、次にどう進むか、だよ。第一の言葉が記された座標は、ここ風の谷だった。そしてこの石板の最後に……赤の流れる丘という地名が残されていた」
ロメオさんがそう言うと、俺たちは視線を交わし、無言でうなずいた。
「赤の流れる丘……聞いたことない地名だな」
明が眉をひそめる。純子が地図を広げ、指でなぞる。
「たぶんこれ。旧地図にしか記されてない、東方の高原地帯の名前よ。現在の緋の尾根って場所と重なるわ」
「そこも、精霊信仰があった地域なのかな」
有紗が呟くと、ロメオさんは片手を振って曖昧に笑った。
「可能性は高いね。ただ、風の谷とは違って、そこには今も人が住んでいるらしい。かつての信仰を継ぐ隠れ里だという噂もある」
「ってことは、ただの遺跡探索とはいかなそうだな」
明が馬車へと歩きながら、深く息を吐いた。霧と祈りの地から、今度は生きた信仰の地へ。過去と現在が交わる場所。危険の匂いが、もう立ちこめている。
皆が乗り込むと、馬車はギルドへの帰還ルートを外れ、東へと向かった。
窓の外、山脈の先に広がる大地は赤土に覆われ、どこか熱を帯びているように見えた。
ロメオさんが、懐から小さな木片を取り出した。風の谷の石碑から削り出した、精霊語の断片。
「これはまだ始まりに過ぎない。だが、次がつながれば……見えてくるかもしれない。世界を包んだ『黒い霧』の正体が」
馬車が揺れる中、俺たちはそれぞれの想いを胸に、目を閉じた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
この小説を読んで、「続きが気になる」「面白い」と少しでも感じましたら、ブクマと↓の☆☆☆☆☆から評価頂けましたら幸いです 。
お手数だと思いますが、ご協力頂けたら本当にありがたい限りです <(_ _)>ペコ




