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アルデバランが一歩を踏み出した。
風が止み、光が歪む。足元から浮かび上がったのは、黒紫の魔法陣。その紋様は、現世の理を否定するように脈動し、重い鼓動を森全体に響かせた。
「王など捨て駒に過ぎぬ」
彼の背後に、影のようなものが蠢き始める。否、それは影ではない。別の世界から無理やり引きずり出された、何かだ。
「――見せてやろう。真なる災厄の片鱗を」
アルデバランの身体が黒煙に包まれ、次の瞬間、それは形を失った。代わりに現れたのは、見る者の脳を直接圧迫するような、異形の存在。
人の輪郭を保ったまま、骨と血と影と怨嗟がねじれ合ったような禍々しき存在。顔は仮面のように白く無表情だが、その目の奥に、数えきれぬ死が瞬いている。
「第三の災厄――《虚無の歩哨》をこの身に降ろした」
その言葉と同時に、地面が凍てついた。温度ではない。世界そのものが停止したかのように、草木は一斉に色を失い、音が消えた。
「や、やばい……なにこれ、身体が……動か、な……!」
キルシュが膝をつき、肩で荒く呼吸する。まるで魂ごと、圧し潰されるような気配だ。
リディアが慌てて魔力を練ろうとするが、杖の先に火の揺らぎすら生まれない。
セリアの《浄化の祈り》で晴れた瘴気が、再び、いや、それ以上の濃さで押し寄せてくる。
ただ立っているだけで、空間が軋んでいた。
「この感覚……違う。今までの魔族とは格が……いや、次元が違う……!」
俺は歯を食いしばり、剣を構える。しかし手が震える。この魔族――アルデバランは、単なる個の強さではない。世界の“均衡”そのものに楔を打ち込んでくる存在だ。
そのとき。
〈虚無の歩哨〉の腕が、音もなく横に払われた。
一閃。何もなかった空間が裂け、バルドの目前を黒い閃光が横切った。
「……ぐッ、がぁ……!」
防御に回ったバルドの腕が、重たくのしかかる圧力でへし折られ、後方に吹き飛ぶ。地を転がり、樹に叩きつけられるまでの間、彼は一言も声を上げなかった。
「このままでは、全滅する……!」
リディアが叫び、セリアが再び祈りを捧げようとするが――
アルデバランは冷たく見下ろしながら告げた。
「祈りでは、災厄は止められぬ。せいぜい、絶望の中で震えているがいい」
その言葉は呪いだった。
全員の視界が一瞬、闇に閉ざされる。まるで瞼の裏に死そのものを押し込まれたような、黒く重たい暗闇――。
……だが。
「ディスペルマジック!」
俺は叫んだ。声は揺るがず、剣のように空間を裂く。ディスペルマジックは対象にかけられた魔法効果を無効化する対魔術師戦用の魔法だ。
「暗黒魔法は、うちけさせてもらう!」
瞬間、空間に張り詰めていた呪詛の膜が、バリンと砕けたように響いた。世界が戻る。音が、色が、命が、息を吹き返す。
「――卓郎……!?」
リディアが目を見開く。セリアの祈りの声も、再び空気に響いた。
「ホーリーレイン!」
俺はさらに天を指す。白光の柱が瞬き、そこから降り注ぐのは聖なる雨――光粒の嵐だ。
光の雫が戦場全体に降り注ぎ、仲間たちの傷を癒やしながら、アルデバランの異形の身体に突き刺さる。
「ぐわーーっ!」
アルデバランが悲鳴を上げた。黒煙が一瞬、後退する。虚無のようだったその身が、わずかに輪郭を取り戻した。
その隙を、バルドが見逃さない。
「はぁぁぁっ!!」
地を蹴り、一直線に踏み込む。折れた腕を庇いながらも、残った手で魔剣を振るう。
だが――。
「……雑だな」
アルデバランの指が動いた瞬間、バルドの剣が空を斬る。重力がねじれたような空間歪曲により、軌道が逸らされたのだ。
「そんな……!」
「俺がいく!」
仁が吠える。〈勇者〉と呼ばれる少年は、《神剣レイガルド》を振りかざし、浄化と魔力をまとった斬撃を放つ。
「聖光斬――ッ!!」
聖なる閃光が一直線にアルデバランを浄化する。
今度は、アルデバランが後退した。その姿には、確かに焦げ跡がある。無敵ではない――そう、こいつもまた、倒せる敵だ!
「よくも……この私に傷を……」
だが、怒りに満ちたその声と共に、アルデバランの右肩が砕け、そこから黒い触手のようなものが伸び上がった。
「ならば、応えてやろう。《第二形態》――災厄の仮面を解放する!」
ボンッという異音と共に、彼の肉体が一度弾け、別の何かが地面に着地した。
全身を仮面のような装甲で覆い、顔は六つに分裂している。声が三方向から重なり合って響く。
「この姿でも、なお光で抗うというのか?」
俺は前に出て、ミスリルソードを構えて叫ぶ。
「ああ、抗うさ。たとえどんな災厄だろうと、打ち破ってみせる!」
その瞬間、アルデバラン――いや、災厄の仮面が微動した。
「ならば、見せてやろう。お前たちの希望が、どれほど儚いものかを……」
黒の瘴気が地を這い、空を裂く。次の瞬間、地面が反転したような錯覚に襲われた。
「空間が……歪んでる!?」
リディアが叫ぶ。視界が乱れ、上下左右の概念が崩れる。すべてが敵に見えるほどの混乱の中、仮面の口が同時に開いた。
「《終焉の福音》」
その声と同時に、六つの仮面が一斉に黒炎を吐いた。直線、広範囲、追尾、空間爆裂――異なる軌道と性質を持つ災厄が、咆哮のように戦場を覆う。
「くっ――!」
仁が前に出て、盾のように《神剣レイガルド》を構える。剣から展開された光の障壁が、追撃を一部受け止めるが――それでも焼き焦がされるような圧力が全身を包む。
「同時に……六方向から!? こんなもん、人間の魔法じゃねぇ……!」
バルドが顔をしかめながら呟いた。
「まるで軍と戦っているようだな……!」
仮面の一つが、卓郎へと正面を向く。
「その剣に宿る光――我が災厄を超えられるか?」
卓郎は、「聖印のロッド」を取り出した。
「――やってみるさ。「聖印のロッド」なら、効果絶大!」
その瞬間、「聖印のロッド」が発光した。卓郎の身体に、光が走る。魔法発動。
「ホーリーレイン!」
空に走る聖なる光脈。それはもはや雨ではなかった。
雷鳴と共に、光の槍が無数に降り注ぐ。精密かつ加速する閃光の雨が、仮面を一つ、また一つと貫いていく。
「なっ……」
アルデバランが、初めて明確な驚愕を浮かべた。
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