188
夜明け前の港町。
潮風がゆっくりと吹き抜ける。
漁師たちがまだ眠るこの時間帯、港には静寂だけが満ちていた。波の音だけが一定のリズムで打ち寄せ、石畳を濡らした。
空は、深い群青。
けれどその端が、わずかに白んでいく。朝が、確かに近づいている。
俺と明は、並んで腰掛けていた防波堤の縁から、静かに立ち上がった。
背伸びも、あくびもなかった。ただ、互いに無言で、腹の底に決意をためていた。
「……行くか」
俺が小さく呟くと、隣に立つ明が頷いた。
頬に触れた風が少し冷たい。だが、それが眠気を吹き飛ばす。
俺はゆっくりと右手を胸の前に掲げた。手のひらに意識を集中する。
深く、息を吸い――
「――〈ポータルシフト〉」
小さな光が、手のひらから舞い上がる。
その光が空中に浮かぶと、静かに、魔法陣が展開した。海の空気がざわめき、ほんの少しだけ、時間の流れがずれるような感覚。世界の縁をひとつめくるように、空間が開く。
そこから見えるのは――
丘の上の静寂。淡い朝焼けに包まれた、草の匂いのするあの場所。
純子の墓のある、丘の上。
音もなく、俺と明の姿がその中へと溶けていく。
風が吹いていた。
大河からの風は少し冷たく、岬の草花を優しく揺らしていた。
高台から見下ろす水面は、朝靄にかすみ、まだ太陽は水平線の向こう。空と海の境が曖昧で、世界が夢の中にあるようだった。
俺たちは、並んで立っていた。
墓標の前に、ただ黙って。
墓の周囲には、手向けられた花。白い小花に、野に咲くような色とりどりの花が混じっている。最近、誰かが来たのだろう。朝露が花弁を濡らして、光を散らしていた。
風がその花を揺らす音だけが、耳に届く。
俺はそっと前へ出て、墓石に手を添える。冷たい石の感触が、ゆっくりと掌に広がった。
「……やったよ、純子」
低く、小さな声だった。
けれど、その言葉は確かに、空気を震わせた。
「お前の両親をやった魔物。……ウニみたいなやつ。俺たちが倒したよ」
その瞬間、背後でふっと明が鼻を鳴らした。
「正直、あんなでけぇ奴とは思わなかったけどな。……途中、マジで死ぬかと思った」
明はぼりぼりと頭をかいて、少し苦笑いを浮かべる。
その言葉に、俺も思わず口元をほころばせた。
「それでも、勝てた」
「ああ。勝てた。お前の分まで、ちゃんと剣振った」
明は、まっすぐに墓を見つめたまま、ぐっと胸を張る。
どこか誇らしげで、でもそれは照れ隠しにも見えた。
「だから安心しろ。お前の家族の仇は、俺たちで討った。……ああ、そうそう。その後、ウニ丼にして食ったぞ。すげぇ美味かった」
「……墓前で言うことか、それ?」
「事実だからな!」
俺は小さく笑った。
明のそういうところ、昔から変わらない。何気ないひと言で、ふっと気を抜かせてくれる。
「……ありがとな、明」
「ん?」
「お前が一緒に戦ってくれて、よかった。たぶん、ひとりじゃ無理だった」
明は一度だけ目を伏せて、しばらく沈黙した。
それから、大河を遠くに見ながら静かに口を開く。
「なぁ、卓郎。やることやったし、お前……これから、どうすんだ?」
俺は空を見上げた。
朝の光が、まだ淡い。空が白むのに合わせて、何かが自分の中でも、少しずつ変わっていくのを感じていた。
「旅に出るかな。……今度は、俺自身のための旅だ」
「……そっか」
明は目を細めて、それを聞いた。
どこか安心したようにも、少し寂しそうにも見えた。
それでも、すぐにいつもの調子で笑う。
「俺は、じいちゃんのとこ行くわ。浪花の村の銀蔵じいちゃん。知ってんだろ?」
「ああ。自称、爆薬錬金術師で、天眼の名医で、元冒険者で、なんかめちゃくちゃなじいさんな」
「そう、それそれ。あの爺さんに弟子入りでもしようかなって。なんか楽しそうだからな」
この前も言っていたその言葉に、俺は目を見張った。
……マジか。冗談じゃなかったのか。けど、すぐに納得する。
明らかに、向いてそうだったから。
「俺、爆発系、向いてそうだしな?」
「あはは……うん。めっちゃ似合う気がする」
「だろ?」
二人して、くつくつと笑い合った。
朝風がまた、そよいだ。
花が揺れる。空が明るくなり、鳥の声が遠くで聞こえる。
墓前での別れの言葉は、俺たちには必要なかった。
言葉にしなくても、伝わるものが、そこにはあったから。
それぞれが、自分の道を決めていた。
それだけで、もう十分だった。
* * *
再び〈ポータルシフト〉。
空間がひずみ、足元が一瞬ふわりと浮く感覚――次の瞬間、俺たちは浪花の村に降り立っていた。
ひんやりとした朝の空気が、肌を撫でる。
土と木の香り。近くを流れる川の音。かすかに鼻をくすぐる薬草の匂い――この村にしかない、懐かしい気配が胸の奥をくすぐった。
朝の陽射しはまだ低く、木々の合間から斜めに差し込んで、淡い金色の光が村を染めていた。
「よろしく! 浪花の村!」
明が大げさに腕を広げる。背中には大きな荷物、腰には見慣れぬ道具袋が下がっていた。
「じゃ、ここで一旦お別れだな」
俺は小さくうなずき、明に手を差し出す。
明は笑って、それをがっしりと握り返してきた。手のひらから伝わる力強さが、なんだか妙に心に沁みる。
「次会うときは、お前がなんかすげぇことになってて、俺は爆薬で村ひとつ吹き飛ばしてる、みたいな展開にしようぜ!」
「……吹き飛ばすなよ! 村は」
「いや、たとえ話だって」
「信じらんねぇよ、お前だと」
笑いながら、俺は手を離した。
けれど、その笑顔の奥には、少しだけ名残惜しさが残っていた。
「達者でな、明」
「おう。行ってこい。気楽に世界を楽しんで来い」
その言葉に、心が軽くなるような気がした。
明は振り向き、迷いのない足取りで、村の奥――銀蔵じいちゃんの家へと向かっていく。
その背中は、いつになく頼もしく見えた。
少年の姿をしていても、もう子どもではない。
別々の道を行く仲間として、ちゃんと背中で語っていた。
……さて。
俺は深く息を吸って、あらためて背負い袋の紐を締め直す。
装備の点検。財布の中身。水筒。地図。最低限の準備は整っている。
だが、行き先はまだ決まっていなかった。
けれど、不安はなかった。
これから始まるのは、誰かに言われた旅じゃない。
誰かの願いを叶える旅でもない。
俺自身の足で歩く、俺だけの道だ。
足元に、淡く光る魔法陣が浮かぶ。
青白い光が石畳の上で広がり、風がひとひら、俺の肩をかすめていく。
俺は静かに、ひとこと呟いた。
「そうだ! あれが気になるな。〈ポータルシフト〉!」
視界が揺らぎ、光に包まれる。
意志を持って、俺は一歩を踏み出した。
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