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最奥の通路は、これまでのどんな階層とも違っていた。音も、光も、時間の流れさえ希薄で、まるで夢の中を歩いているようだった。
それでも、俺たちは進む。恐怖も、幻覚も、試練も――すべて乗り越えてきた。この先に待つものがどんなに異様であろうと、目を逸らすつもりはなかった。
「……何か聞こえる」
沙耶が小声で言った。たしかに、遠くから微かな旋律が響いてくる。旋律というより、祈りのような、詠唱のような……。
「これは……?」
純子が身をすくめるように言う。
通路の終わりには、大理石のように白く輝く扉が立ちはだかっていた。紋様は古代語。円を三重に重ねたその構造は、〈封印〉を意味していた。
扉がひとりでに開く。
中にあったのは、まるで神殿のような広間。だが天井は存在せず、空間そのものが、どこか別の次元へと通じているかのようだった。
中心には、ひとりの少女が立っていた。
年の頃は十四、いや、もっと幼いかもしれない。蒼白な肌、銀に近い淡い金髪、そして虚ろな瞳。衣は白のローブ。足元に魔法陣が広がっており、彼女の影だけがそこに結晶のように固定されていた。
「……あの子……?」
有紗が一歩踏み出しかけて、足を止める。少女の周囲に漂う空気が、明らかに異質だった。
『……たすけて……』
あの声だ。ずっと聞こえていた囁き。その発信源が、彼女なのか?
「違う」
俺は言った。
「助けを求めてるのは……あの子自身じゃない。あの子の中にいる何かだ」
その瞬間、少女の身体がひとりでに浮かび上がる。
「――アクセス権限、確認。記憶認証、解除――」
機械的な声が、彼女の口から発せられる。
魔法陣が螺旋状に展開し、光が走る。その中心から、黒と金に染まった影が浮かび上がった。
それは、人の形をしていた。だが、顔は仮面。目は空洞。口元はひたすら笑みの形に歪んでいた。
〈記録の主〉。
古代文明の最深に眠り、失われた知識を食らう存在。精神を喰らい、記憶を己の構造に書き換える禁忌の幻獣だった。
「来るぞ!」
俺たちが武器を構えた瞬間、空間が一気に歪む。
目の前の床が割れ、次々と記憶の断片――俺たち自身の記憶が実体化し、敵として立ちふさがる。
「これは……!」
「やっぱり、……自分の記憶を実体化して、敵にするタイプ……記録干渉型よ!」
純子が叫ぶ。
「自分の記憶から生まれた敵は、自分じゃないと倒せない!」
次々と立ちはだかる、過去の自分、過ちを犯した自分。沙耶が、泣きながら弓を引いた。
「こんなの、こんなの私じゃないっ……!」
「乗り越えろ!」
俺が叫ぶ。
明が自分の幻影に剣を突き立てる。
「俺は、今ここにいる! 過去の俺に、未来は決めさせねぇ!」
有紗が幻を見据えながら、震える手で薬を撒いた。
「私たちは……ちゃんと前に進んできた……だから、終わらせよう、ここで」
――そして、俺の前にも、ひとりの少年が立っていた。
無力で、迷って、泣いていた昔の俺だ。
「……帰りたいって、思ってたな」
ゆっくりと剣を構える。
「でももう、帰り道は前にある。過去じゃない」
〈斬光断〉。
過去を貫く一閃が、幻を断ち切った。
全員が自らの記憶を乗り越えた瞬間、空間が震え、〈記録の主〉が叫び声のような音を発する。
仮面が砕け、その奥から――少女の瞳が、光を取り戻した。
魔法陣が崩壊し、彼女が静かに落ちてくる。俺が駆けて、受け止める。
「……ありがとう……名前……思い出せた……わたし……ミリア……わたしは、記録の守人だった……でも、喰われて……記憶も、名前も……」
涙が頬を伝う。誰かを呼ぶような声。
それは、心の奥に直接触れるような、不思議な温もりだった。
広間の光が、ゆっくりと褪せていく。〈記録の主〉が消滅したことで、空間の異常も静まったらしい。天井のなかった神殿に、ぽつりと光が降ってきた。
「……夜空?」
沙耶がつぶやく。見上げたその先に広がるのは、どこか異なる空――青と赤の双月、歪な星座。現実と夢の境界が曖昧になっていく。
ミリアは、俺の腕の中でそっと目を開いた。その瞳には、もはや虚ろな影はない。
「……もう、あの声は……聞こえない」
彼女の声はかすれていたが、確かに自分の意志で発されたものだった。
「ミリア……君は、何者なんだ?」
俺の問いに、彼女はゆっくりと視線を巡らせた。純子、有紗、沙耶、明――皆が黙って耳を傾けていた。
「私は……この迷宮に“記録”として封じられていたの。世界が、かつて崩壊した時……未来の誰かに託すために、記憶を結晶化して、保存されたの」
言葉の重みが、空間を静かに染めていく。
「でも、記録は劣化する。侵される。私は、〈記録の主〉に取り込まれて、記憶の一部を……失ったの」
純子が目を細めた。
「じゃあ、あの敵は……あなたのなれの果てってこと?」
ミリアは首を横に振る。
「違う。〈記録の主〉は……私たち継承体を守る番人だった。でも、あまりにも長い時間が経ちすぎて、敵と記録の区別が曖昧になった。自分で何を守っているか、分からなくなっていたの……」
俺たちは黙った。それは、役目だけが残った存在という哀しさを孕んだ言葉だった。
「でも……君は、もう自由なんだよな?」
明が言う。ミリアは静かにうなずいた。
「ええ。でも、私の中の記録は……ここで終わってる。この先は、私にも分からない。だけど――」
彼女は目を伏せてから、ゆっくりと顔を上げた。
「この迷宮は、終わりじゃない。始まりへ続く道。……そう、誰かがそう言ってた。まだ門がある。そこに、次の鍵が眠ってる」
「門……」
有紗がつぶやいた。
そのときだった。空間の奥、神殿の祭壇の裏側。そこに、音もなく壁が消え、巨大な扉が姿を現す。
紋様は、螺旋。三重ではなく、五重の螺旋。見たこともない構造だった。
「今の私じゃ、開けられない。でも……あなたたちなら」
ミリアは、俺の手を握る。細く、でも確かな力だった。
「この記録を……受け取って」
その瞬間、彼女の身体が光に包まれ、小さな結晶が俺の手に残された。掌に収まる、青白い光のかけら。
「ありがとう……タクロウ、みんな……」
そう言って、ミリアは静かに目を閉じた。けれど今度は、消えることはなかった。光に包まれたまま、そっとその場に座り込む。
「眠らせてあげよう」
沙耶が、そっと毛布を広げた。俺たちは、誰も言葉を交わさず、ただその姿を見守った。
そして――俺たちは、次の扉の前に立った。
「行こう」
俺が言うと、明が笑って剣を肩に担ぐ。
「まだ始まりだったとはな……面白え」
純子も、有紗も、沙耶も、頷いた。
白い扉の前で、俺たちは剣を、弓を、そして心を整えた。




