シャレーン王国の現状
そこまで読むとフローレンスは栞を挟んで本を閉じた。
「ふぅ―――」
フローレンスは冷たくなった紅茶を飲んで喉を潤した。
今日のスケジュールは執務が大半だ。しかも夜のお遊びも今日は相手も誰もいない。ニーノは『偶にはお身体を大切にして下さいな。遊んでばかりでは倒れますよ?』と窘められて、生理の日以外で最低月に二日はセックスは休む日を取り入れている。
だから今日はフローレンスに様がある者か部下か使用人以外人と会う予定がないのだ。
書類整理も全て午前中で終わらせて、午後はこうやってオフの日をのんびりとしていた。
公爵令嬢時代にも歴史として習っていたが、改めて調べると前の世界のギリシャ神話と似ている様で全く似ていない。
彼方の世界では存在しない『ゼウスの末子』である現在の最高神『ミシュラ』。
本の挿絵にその姿を描かれているが、茶色の襟首が隠れる程度の長さの茶色の瞳の十代前後の童顔の青年だ。両性なのは精霊である母親の影響だろうか?
コンコンコン
ミシュラ神についての考察に熱中していたフローレンスは扉のノックの音で我に返った。
「どうぞ」
「失礼します」
ノックした相手はフローレンスの唯一の秘書のリジューナ・アルカード。茶髪茶目とこの世界では多数派の髪と眼の色をした眼鏡をした知的な美人さんだ。長い髪をお団子結びで纏めた姿が良く似合う。
彼女の後ろには茶色と言うよりも鳶色の髪、右眼は黒の眼帯で隠されているが左目は金色の精悍な顔つきの男が現れた。
「あら! 今日はどうしたのロード?」
「ああ、今日はちょいっと報告があってな」
ヨシワラの女の子達がキャーキャーと黄色い声援を送りそうな良い男はこの国『ヨシワラ』の治安を守る自警団のリーダーでもあるロード・カリシアス・モルリアヴァ。
とある国の最大勢力を誇るギャングの孫息子でもあるロードは、フローレンスに(彼曰く)一目惚れしてわざわざフローレンスの国に自分に付いて来た部下達を引き連れて移住して来た男だ。
フローレンスは彼が移住して来た日に初めて会ったのだが、多分何処かですれ違ったのだろう。ロードの様に勝手に一目惚れする者が男女問わず多いからフローレンスは特に気にはしていない。
「報告? まーたシャレーン王国の間者が出たの? 今回で何回目? 何人?」
「前回から七ヶ月ぶりの二十六回目、過去最多の十七人だ。間者と言うよりかは亡命だな」
「はいっ!?」
二人を客用のソファに座らせフローレンスは二人の正面のソファに座った所で、タイミング良く世話係のニーノが新しい紅茶とクッキーを持ってきた。
手渡された資料を見ると今回の間者は大人が女性二人、男性三人。後の十二人は全員子供だった。年齢はバラバラだが最年長で七歳、最年少は乳飲み子だ。
「……孤児院、ですか」
同じ資料を見ていたリジューナは思わず眉を潜めて厳しい声が零れた。子供達の洋服が明らかにボロボロで、まだ平民の古着の方が綺麗な方だ。フローレンスがまだ公爵令嬢だった時は慰問で色んな場所の孤児院に訪問した事があったが、着る服は古着ではあっても破れた所を縫えず、元の色すら分からない程の薄汚れた服を着ている子供はいなかった。
しかも碌に食事していなかったのか誰もが痩せ細っていて乳飲み子ですら頬がこけていた。
「大人も……女性が一人痩せているわね。恐らくこの人が孤児院の院長、後の四人はこの人達の護衛、て所かしら?」
「正解だフローレンス。税を払う事が出来ず、院長が投獄されそうな所を、お役人様が手を回して間者として国外へと脱出したって訳だ。男二人はこの孤児院出身で元騎士。女の方は男の片割れの妻。昔は魔物を討伐していた冒険者だったらしい」
「孤児院に税を徴収していたの!!??」
シャレーン王国は前国王の方針で孤児院等の貧困階級の者には税を取り立てない様にしていた。それ所か貧困階級に税を投入して良き暮らしに出来る様にしていた。
それを現国王―――つまりフローレンスの元婚約者だった王太子が撤廃したらしい。しかも貧困階級にもかなりの重税課した。
「だから碌に新しい服も食べ物も手に入る事も出来なかったのね……」
「あまりにも酷い姿だったから街の皆も自分の子供のお古の服を渡すし、食堂をやってる女将が胃に優しいミルク粥を即席で作って喰わせてやってたわ」
即席だからパンを適当に手で千切って塩胡椒で味付けしたミルク粥と言うよりもミルクスープの方が近い物だったが、子供達は『美味しい美味しい』と皿を舐めまわして笑顔で食べていた。
院長も泣きながら何度も『ありがとうございます! ありがとうございます……!』と頭を下げていてそれが一層街の人達の同情を集めていた。
現在は院長も含めて孤児院の子供達はヨシワラの大きな病院に入院して栄養失調を治している。
「こんなお金のない所にまで徴収するなんて何考えているんだが……」
「カマガのおっさんによると、毎日王城で贅沢三昧はしていない。まぁ王妃にドレスやら宝石やら毎日プレゼントしていたらしいが、王妃本人が嫌がるから頻度は減ったそうだ。税金の大半を何やら怪しげな研究に投入している」
「「『怪しげな研究』?」」
「詳細までは流石のカマガのオッサンすらも知らないそうだ。陰気臭い研究者共を一つの塔に集めて国王主導でやっている様だ。まぁ貧困階級まで摂取した税金の大半を投入してまで勧めている研究なんだ、詳細が知りたいだろ? だけど国王は黙秘したままだ。今じゃあ王城の全部署の経費を削ってまでその研究に投資している」
此れには流石に絶句するしかなかった。
お金を削られると言う事は何かを我慢しなくてはいけなくなる事。部署の経費を削る事はその部署が何かしらの問題を犯した際のペナルティとして、もしくは財政が厳しくなったから仕方がなく削る事はある。
が、恐らく何処の部署も不祥事を起こした訳ではなく、今のあの国の財政について知らないが、それでも王城の全部署の経費を削るなんてありえない話だ。
「良く反発が無かったわね?」
「反発があったにきまっているだろリジー。騎士団長が全部署を代表して毎日の様に抗議しているが、国王は耳を貸さない。お陰で両者の間には不信感と嫌悪でギスギスした空気が流れている」
騎士団長はエジル・クィレミーと言う男だ。
あの断罪劇に参加していた人物の一人で、当時から剣術に優れていて前騎士団長だったエジル・クィレミーの父親が息子を戦が起きている国に傭兵として武者修行させたお陰で、実戦にも強い騎士と評判となった。
クィレミーは侯爵を承っていたし、将来の王太子妃と将来の騎士団長として何度か会話をしていた事があるが、正義感の強い熱血漢だ。熱血漢でがあるが筋は通す男気のある人物で、部下や同僚達から厚い信頼を得ている。
あの断罪劇の時だって罪人としてではなく令嬢として丁重に扱われたから、地面に押し付けられた様な手荒な事は一度もなかった。
だからフローレンスはエジル・クィレミーに関しては嫌な感情は持っていない。娼婦になってからは『あの筋肉でオラオラとエッチしたかったわね……』とちょびっと後悔したが、彼の性格上、王太子の婚約者との不倫なんてないだろうと直ぐに諦めた。そもそもこの性格は娼婦になってからだ。
「それにしても何の研究をしているのかしらね? 騎士団長ですら内容を聴けないなんて……他に知っている者は?」
「神官長候補のリッジーフォースは神殿に籠って滅多に外に出ないから、知らないのは間違いない。……宰相のウィブリス・ジョラント・シフォンズは知っているかもしれないが、内政の方で忙しくて国王関連には感心がない。それも原因で騎士団長と宰相との仲が悪い」
リッジーフォースは確か現王妃が国王以外で一番仲の良かった男だった筈。あの国でミシュラ神を信仰する神殿の本殿だ。その神官長がリッジーフォースの父親だった筈。(神殿に入る者は苗字はなく名前のみだ)
それで宰相……フローレンスの実兄だったウィブリスは何かしらの情報を握っているのかもしれないが、全く動きがないと見るとこの件には一切関わろうとしていないのだろう。
そもそも昔からじっとりとフローレンスの事を嘗め回す様に無言で見ていた男だった。
一応血の繋がった家族だったから敬愛していたし、普通に接してはいたが前世の記憶を思い出す前の『私』は心の奥底では嫌悪の炎が燻っていた。
「フローレンス?」
黙っていたままフローレンスを不思議に思ったのかロードが声をかけてくる。考え事を払うようにフローレンスは頭を左右に振って「何でもない」と答え、思考の海から現実に戻ってきた。
「兎も角、孤児院にも多額の税をかけられる様になったと言う事なら、恐らく身売りの数が増えたり、最悪難民が増えるかもね」
「難民ですか……現状では極端に増える可能性は低いですね。それこそあの国がとち狂った法を決めたり戦争を始めたりしなければ、ですけど」
「身売りは間違いなく増えるな。地方では女衒屋と伝手がある所が多いが、王都に住んでいる奴等は繋がりすらないだろう。悪質な人攫いがそこを狙うだろうな」
「そこは先生が何とかすると言っていたわ。先生は一応王族の次に偉い大公だし、あの人は違う派閥と上手く連携する事が出来る才があるしね」
ルエ・カマガは見た目は醜いが、政治に対しての手腕は間違いなくある。それに彼の血筋に王族もいて、(王族を除いて)宰相の次に偉い立場の人物だ。故に中立派として対立する派閥の仲を取り持った事は暫しあった。
故に彼の言動一つで王国の未来が左右されると言っても大袈裟な話ではないのだ。
彼自身もその事を重々承知しているから貴族の子息子女が通う学園の理事長として大人しくしていた。現在は色々と問題が起きて休校状態ではあるが。
「カマガのオッサンが良いとしてもなぁ……実は女衒屋の蛇目から連絡があったんだが、今度此処に来る二人の片割れが―――」
ロードからの報告に、リジューナは眉間の皺を限界まで寄せ、お茶のお代わりを持って来たニーノは驚きのあまり眼を見開き、フローレンスは予想できた物だったが、それでも額に手を当てて重いため息を深く吐いた。