【短編】松葉杖と母と私と
音楽室から漏れてくるピアノの音は、主旋律が頼りなく、伴奏も不安定だ。
相変わらずの音色が、夏の蝉の声と一緒に私の耳に届く。
部活が始まる前に、誰かが遊び半分で弾いているのだろう。
こんな風に中学校の放課後は、いつも変わらない空気をくれていた。
でも、あの時から私は一人、置いてけぼりになってしまった。
息を吸い込むと、陸上部が撒き散らす土埃の匂いが、微かに鼻をくすぐる。
部員たちの視線を背中に感じながら、私は歩く。
――ホント、嫌だ。
松葉杖をつきながら、校門に向かって急いだ。
片足を浮かせて、なんとか前に進む。
「おかえり、それ。うまく使いこなせてきたじゃん」
母がそう言いながら、運転席から松葉杖を指さす。私は無視して、後部座席のドアを閉めた。
松葉杖を使い始めて、もう一週間が経った。
確かに少しは慣れたかもしれないけれど、こんなの慣れたくない。
早く自分の足で歩きたい。
それなのに、母はわかってくれないのか、私の気持ちを。
そんなことを思いながら、心の中で憤慨するけれど、心を読まれたら余計に苛立つから、できるだけ冷たく「……早く車出して」と言った。
母は「はいはい」と少し呆れたように言ってアクセルを踏んだ。
その顔が、また私を苛立たせる。
窓の外の景色が流れ始める。
学校とは違う空間に移動することで、心のどこかで嬉しさと寂しさが交錯する。
車内の芳香剤の香りは、少し強すぎて嫌いだけれど、それでも馴染みがあるから、安堵感がじわじわと広がる。
母が買った一つ298円の芳香剤。
それが、家と学校を切り替えるスイッチのようで、少し悔しい。
「そういえば、何買うか決めた? スマホ? パソコンにする?」
母が国道を走りながら、何気なく聞いてきた。私はそれを聞いて、ふと思い出す。
——私を轢いた相手から貰ったお金で、何でも買っていい。
一週間前の夜。友達とカラオケに行った帰り、私は車に轢かれた。
幸い、足を骨折する程度で済んだ。
でも、賠償金は結構な額になった。
診断書さえもらえば、賠償金はおりるらしい。
診察してくれた中年の太った医者は、
「全治三ヶ月。若いからもう少し早く治ると思うけれど、とにかく安静にしてなきゃダメだ」と、少し偉そうに言った。
大事をとって数日入院したけれど、病院の薄味の食事にすぐ飽きた。
私が母に退院したいと告げると、すぐに
「もっと重病の人もいるだろうから、そっちにベッドを譲ってください。あとは自宅で安静にしていてもらうから」と、母が強めに医者に言って退院することになった。
貰った賠償金の金額を見せてもらった。
それが本当に私の「青春」と引き換えにする金額として相応しいのか、私にはわからなかった。
それでも、母は「結構貰えるんだね、ラッキーじゃん」と言って笑っていたから、それが相応の金額なのだろう。
ただ、娘が交通事故に遭ったのに「ラッキー」と言える母には、少し違和感を覚えた。
それでも、そのお金の使い道に関して、母は一切口を出さなかった。
そこだけは、母らしいと思う。
お金の使い道について
「まだ決めてない」母にそう答えると、母は「そう」と言って、もう興味なさそうに見えた。
いつもそうだ。興味ありげに質問してくるけれど、実際は上の空。
一体、母は何を考えているんだろう。
考えるのが面倒になって、私はバッグからスマホを取り出し、グループLINEの画面を開いた。
そこには、クラスメイトたちの意味のない絵文字が、未読のまま並んでいた。
あとがき
この物語を最後まで読んでくださり、ありがとうございます。
私の書いた物語が皆さんの心に何かを残すことができたなら、それ以上の喜びはありません。
ぜひ、皆さんの感想やレビューをお聞かせください。皆さんの声は、私にとって次の物語を描く大きな励みになります。良かった点、もっと読みたかった点、感じたこと……どんな小さなことでも構いません。
どうか、皆さんの思いをお聞かせください。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
サクラヒカリ