十六
修学旅行の当日になった。
勉強のために学校に行く訳じゃないっていうのは不思議な気分だ。それでも僕は通常通りの時間に起きて通常通り朝食を食べ、歯を磨いて……まあ説明するまでもないや。今は昨日までに用意しておいた荷物を持って玄関で靴を履いていた。母が台所で忙しそうに動いている。
「じゃあ行ってくるねー」
「あ、ちょっと待って翔!」
母が手を拭いてから玄関まで来て僕の全体を確認した。
「うん、大丈夫かな。多分」
「大丈夫だよ。多分」
「ま、下着さえあれば何とかなるでしょ。行ってらっしゃい」
「ん。行って来ます」
僕は家を出ると、とてつもなく眠そうな美守が目に入った。
「ど、どうしたの美守。寝てないの?」
「おはよ。いや遅くまで早紀と電話してて。ようやく寝たと思ったら朝お母さんに起こされてパン作り手伝わされちゃってさ。あ……もう溶けてしまいそう」
「バスに乗れば寝れるから頑張って。ほら荷物貸して」
「あ、ああ~……。あうあ~。ありがとう」
ゾンビみたいにふらふらしながら歩く美守の手を引きながら学校まで歩いた。マンガだと小さい丸が数個出てる状態みたいだ。僕は信号待ちで空を見上げた。暑過ぎず、なかなかいい天気だ。
「旅行日和だなぁ」
「あ……そうなんですね……」
「駄目だこりゃ」
学校に着くと校庭にバスが何台も停まっていて、テンションが高めの生徒が何人も既にはしゃいでいた。あれは……大悟か。野球が終わったのに坊主頭のままだ。髪の毛伸ばさないのかな? 僕は大悟に手を振ると大悟は笑顔で近付いて来た。
「よお翔! 美守も……元気そう……でもないな」
「パン作って眠いんだって」
「そうなんだ。うん、美守さんは偉いですね。ささ、寝床へどうぞ」
「じゃあね~……」
「じゃあな翔。後でUNOでもやろうぜ」
「そうだね」
修学とは言うものの、皆遊ぶ事で頭がいっぱいだ。
僕はバスの番号を見て、美守の手を引いたまま四番のバスに乗り込んだ。
「はいここだよ」
「ありがとうねぇ」
僕と美守の荷物を上の棚に載せて、美守を窓際に座らせて僕は通路側に座った。美守は座席を少し後ろに倒して僕の肩にもたれるとすぐに寝入ってしまった。パンのいい匂いがする。動けないのでやる事も無い僕は少し目を瞑ってみた。なんだかバスのエンジンの振動が心地よくて僕も眠くなってきて……。
「翔」
美守の声が聞こえて僕は目を開けた。
「翔、着いたよ」
「え……どこに?」
いつの間にかバスは出発していたらしい。目の前に美守の顔がある。
「あ、起きた?」
「こっちのセリフです」
「えー? ここどこ?」
「インターチェンジ。トイレ休憩だってさ」
窓から外を見ると周囲には大量の車と大量の僕らの学校のバスと大量の生徒と……広いアスファルトの空間が広がっていた。
「え? もう高速まで行ってたの?」
「そうだ……よく寝てたな翔」
反対側の座席の男子が僕に話しかけてきた。
「角田君か」
「目覚めたな翔よ」
「えっと、何キャラなのそれ?」
「分からぬか。まあそれも仕方がない事よ」
角田君は難しい顔をして腕を組み、そのキャラを続けようとしている。初めて僕に話しかけたので印象付けようとしたみたいだけど、不意に普通の顔に戻った。
「この前の朝ドラの人なんだけど、まあいいや面倒くせやめやめ。一緒の班だからよろしくなっと、俺ちょっとトイレ」
角田君は素早く立ち上がってバスを降りて行った。
「素早いな……あ、そうだ。僕も行かないと」
「わ、私も……」
美守と別れてトイレに入ると、既に角田君は用を足して手を洗っている所だった。手の水を切って鏡でスポーツ刈りの前髪をいじっている。
「なんだ、ずいぶん遅かったな」
「角田君が早いんだよ」
「フッ」
角田君の後ろを通り過ぎて僕が用を足そうとすると、不意に角田君が僕の真後ろに立った。
「フッフッフ」
「う……」
後ろに立たれると緊張してなかなか出ない。
「どうした? 気兼ねなんてしなくていいんだぜ?」
「いやそう言われても。集中できないから」
「はっはっは! 悪い悪い! じゃあ先行ってるぜ~」
角田君は笑いながら出て行った。どうやらいたずら好きらしい。
バスに戻ると、僕がさっき座っていた席には細身のロングヘアーの女の子が座っていた。美守の席にはセミロングに黒縁のメガネの女の子が座っていて二人で喋っている。
「あれ? えーと」
僕に気付いたロングヘアーの女の子が上目遣いで僕を見た。
「翔君は後ろに行って。私達と席交換したから」
「え?」
そう言われて後ろを見ると、いつの間にか美守や角田君が後ろの座席に集まって座っている。美守が僕に気付くと手を上げた。
「翔! こっちこっち!」
「あ、うん今行く!」
遠くからの美守の声に僕は答えた。目の前のロングヘアーの子はまだ僕を見上げていた。
「私、戸田里香」
「え? なに?」
僕はエンジン音でよく聞こえなくて顔を近付けた。
「私、戸田里香」
「あ、うん。一緒の班だよね」
「そう。よろしく」
「よろしく」
そう言うと戸田さんは隣の子とお喋りを再開した。パンの香りは座席から消えている。まあそれはそうか。
「じゃあ」
僕が一応声をかけて立ち去ろうとすると、戸田さんはもう一度僕を見上げた。戸田さんは急に僕ににっこりと笑顔を見せた。眉毛の上に切り揃えた前髪がサラサラしてる。僕はそのとびきりの笑顔にどう反応したらいいか分からなくて、よく分からない頷きを返して座席を離れた。
僕が後ろに行くと最後尾には大悟もいて、大悟の友達も二人座っていた。
「後ろでUNOやろうってさ。私達の席は替わってもらったから。他の男なんてイヤ。翔は私の隣に来なさい」
「うん」
「おーおー。見せつけちゃってー」
美守は一番端に寄って僕にしがみつきながら叫んだ。
「カッカッカ! さあカードを配りなさい大悟!」
「はいはい」
美守以外の女子に笑いかけてもらった事なんてほとんど無いな。僕は戸田さんの笑顔がしばらく気になっていたけど、やがてUNOをやって盛り上がっている内に忘れてしまった。