十四
僕は今テニスコートのネット際に立っている。隣には陽介がいる。目の前にはネット……だな、うん。その向こうに対戦相手が立っている。担当の審判が何か話している。
視界が狭い。いや、なんだろう? 見えてはいるんだけどもやがかかったような……。
「翔」
陽介が声をかけてきた。
「ほれボール」
「え? ああ……」
そう言って放り投げられたボールを取れず、僕は転がったボールを歩いて追いかけ、ゆっくりと拾った。ボールを拾って顔を上げると対戦相手はすでにライン際まで下がってこっちを見ている。
ああそうか、これが緊張ってやつなのか。
練習した事が発揮できるのか心配になって、僕は緊張している。
ライン際まで下がって、試合前の練習のラリーを開始した。相手が打ったボールをフワフワした気持ちで打ち返した。隣のコートの選手を応援している声が聞こえる。どっちが勝ってるのかな? 足が上手く動かない。
ちゃんとできるんだろうか? 僕は……。
気が付いたら審判が手を上げている。え、もう試合が始まるの? ちょっと待って欲しい。相手がサーブを打って来た。
「あ……」
スピードは遅かったけど足が上手く動かなくて、相手のサーブを取れずにポイントが入ってしまった。ボールがフェンスに当たって転がる。
次のサーブで今度は陽介が受ける番だ。
「だあああ!」
陽介が気合を入れて打ち返したボールはあさっての方向に飛んで行った。
「あれ?」
陽介は僕を見てこわばった顔で笑った。
「わ、悪い!」
「ドンマイ」
そうか、陽介も緊張してるのか。
その後も何とか打ち返すものの、バタバタと悪あがきをしながら試合が進んで行く。
中学生のソフトテニスの試合は一ゲーム取られたら終わり。つまり四ポイントで一セット、合計三セット取られたら一ゲーム取られた事になり、それで試合は終わりだ。僕らは緊張で練習した事を発揮できず、気が付けば二セットを取られていて、あと一セットで負ける所まで来ていた。
まだ何にもしてないのに。
僕のサーブから始まるこのセットで陽介の試合は終わる。もちろん僕も。
「おーい翔」
声が聞こえて顔を上げたら、フェンスの向こうに美守がいた。
美守はその場で素早く動き、ロブを上げる動きからのボレー、そして猫のように両手首を丸めたかと思うと左を向き、左手を上、右手をその下に肘を曲げながら突き出し、襲い掛かるジャガーのようなポーズを決めてこちらをきゅっと見た。
美守の鼻息の荒さが急におかしくなった。
「ぷっ……あははは! 何やってんの美守!」
「何ってサインだよサイン!」
「敵にも丸分かりじゃんそのサイン!」
「あっそっか」
「そっかって……ああ面白かった」
「ま、頑張りたまえ少年」
ひとしきり笑った後、落ち着いた僕はリストバンドで汗を拭いた。
そうだよな。できる事はやろう。ありがとう美守。
サーブは下から打つ。返って来た球は無理せずに打つ。ロブを上げて陽介を上げる。そしてラリーを続けて機会を待つ。
「だあ!」
陽介がボレーを打つ機会を。
陽介がたたき落とした球はサイドから抜けて行き、ポイントが入った。
「よっしゃあ翔!」
陽介が僕を指差し、僕もラケットで返した。
そうだよ、これは僕のための試合じゃないんだ。陽介に悔いの無い試合をして欲しい。そのための今日の僕だ。
僕らはそこからポイントを稼いだ。僕が繋いで陽介が決める。諦めてたまるか。ラリーを続けてしびれを切らした相手の前衛が上がって来た所を狙って打ち込むと、相手は取り損ねてボールはネットにかかった。
落ち着いて相手を見ながら打つ、相手のバックハンド側を狙って。すると相手はバックハンドが苦手なのか度々ミスをして緩い球になり、そこを陽介がボレーで落とした。
「しゃあ!」
そうして一セットは取り返したけどさすがに遅かった。じわじわとポイントを取られ、相手のマッチポイントになってしまった。もう後が無い。
相手がサーブを打って来た。取らなきゃ! 速い! 空振りで終わるなんて嫌だ。僕は逃げて行くボールを必死で捉えた。
「あっ!」
安心したのも束の間、無情にもボールはネットに阻まれた。
ネットをしゅるっと転がってボールが僕の方に転がって来た。ボールを見る。今まで気が付かなかったけど、人工芝でできたテニスコートでもよく見るとあちこち表面上には砂がある。靴や風で飛んで来るのかな。その砂は僕の汗ばんだ足にまとわりついて……手で触ると少しじゃりじゃりした。
「翔」
陽介が笑顔でこっちを見ている。
「ありがとうな。俺のためにわざわざ練習してくれて」
そう言われた瞬間急に目頭が熱くなった。僕は汗を拭くふりをして顔を拭きながらコートを出た。芝生に座っていると美守が飲み物を持って来てくれた。
「ん」
「ありがと」
「かっこよかったぞ」
「そんな事ないよ。一回戦で負けちゃったし……緊張して全然駄目だった」
「ふふ、そうだね」
僕は飲み物を飲んでから美守を見た。
「翔は覚えてるかなあ。あの時も電話で言ったよね」
「ん?」
「これから何度も緊張する場面があるって話。上手く行かなくてもさ、おじいちゃんになるまで何度もあるんだから。また次頑張ればいいじゃん」
「……そうだな。ありがとう美守。また次も応援してくれよ」
「うん」
「人生は長いからな」
「そうだぞ。若造が落ち込むなんて百年早いのじゃ」
「美守も若いくせに何言ってんだか」
陽介が遠くで友達に囲まれて笑っているのが見えた。