第4話 さまよう きっき が あらわれた!▼
陰毛みたいに、いや、それを陰毛と断言は出来ない、果たしてどの部位の体毛であるのか、その正体は判らないが、良く部屋の隅の風の吹き溜まりに、埃と一緒に溜まっていて、お互いが縮らせ、螺旋を描きながら絡まり合うみたいな様相の、あんな姿と大変に似通った、鬱蒼とした蔓草達が生えている山林の奥深くを僕は今、歩いている。それらを掻き分けて僕は探している。キッキの隠れ家だか巣穴だか判らないがその場所を求めて彷徨う様だ。
…
……
………
今日も村に『キッキ』が出没した。
キッキとは、村に古くから伝わっている妖怪の事である。少しばかり世上一般に於ける妖怪と違う特徴としては、このキッキが明瞭なる肉体を持って存在している事だろうか。尚、隣村ではキッキは守護神だと信仰する一派も居て、その村とこの村とでは、一つしかない川の水源の権利の奪い合い等もあり、何かと諍いが絶えない。
結局、キッキが何なのか、それは未だに判らないのであるが、今日もキッキは突如として村へと下りて来て、キッキが村を彷徨い歩くその間は、村人達は家に隠れてじっとしている。何だか理由は良くは判らないのだが、兎に角、この村ではキッキが出没すると、みんなそう言う風にして身を隠さなければならない的な、暗黙のルール『習わし』みたいなものがあるのだ。
そして、キッキが村を彷徨い歩く間は、最近の欧米文化によってもたらされた横文字の何だか判らない、小洒落た感じの名前の食べ物は隠すようにと言われている。
キッキはそんな食べ物を視界に入れると、その何だか良くは判らない横文字のハイカラなセンスに対して、それはそれは物凄い怒りを表して、人間の精神を蝕むみたいな呪詛の雄叫びをあげるのだと言われているからだ。その様な性質を持っているから、キッキは純粋な日本古来から伝わっている古代な…神様だか妖怪だかはさて置いて、そんな累代の系譜を持った生き物なのかもしれない。
いや、ってゆーか、生き物なのかどうかも判っていない。一応は人間みたいな姿形をとってはいるものの、その生態に関しては一切不明なのだから。
この村は寒村であり、細やかな農作物だけを収入とした場合は、それは赤貧切歯の生活を強いられねばならないのであろうが、幸いな事にして、村には副業があり、それはあの、村を彷徨い歩く方のキッキではない、村の森の奥を掻き分けた深くに生息している、野生の『子キッキ』を捕まえる狩猟である。
『野生』の、と言ったが、村にやってきて彷徨い歩く方のタイプのキッキも、特に飼い慣らされている訳ではないのだ。にも関わらず、分別されて考えられており、あの、時々村に下りてきては無意味に彷徨い歩く方のキッキに関しては、村の誰もがそれを捕まえて獲物にする事は無いのである。それも謎の一つなのかもしれない。
兎に角、そうやって、獲物として捉えられた子キッキ達の肉はそれはそれは美味であり、地域でとれる珍味として加工されて売り出されたり、塩漬けの肉としても需要が高い。その皮は剥がされ鞣されて、装飾品の加工や防寒具へと姿を変えて行く。腱はこれも良質な弓の弦の材料とされている。子キッキの腱で作られた弓は性能が良く、時間を経て使い込んて行けばそれだけその時間と比例して熟成されて、持ち主に良く馴染んだ名弓となるらしく、この間も村の弓削師の元に、小笠原弓術だか何だかの流派の有名な人が、弓を求めにやって来たりしている。
村にとって、キッキはこの様に富をもたらしたり、また、彷徨い歩くキッキの方に関しては禁忌の様な扱いを持っていたり、そんな複雑怪奇な存在であるのだ。
今まさにそうやって、キッキが村を彷徨い歩いており、家に籠ってじっとしている僕が退屈の片手間の慰みにこの様な述懐を頭の中でやっているタイミングで、この家のすぐ前を件のキッキが通過しようとしている。僕は気がついた。妹が昼飯に、と用意していたフォカッチャが、卓袱台の上に置かれたままである事を!
僕がそれに気が付いたタイミングは、遅きに失した様だ。目敏いキッキがスンスンと鼻を鳴らして、素早くベランダの窓越しから卓袱台に置かれたフォカッチャを注視していたのである、これは手遅れだ。…妹は卓袱台の下に必死に身を屈ませて目を瞑っていた。
『ナーニガッ、フォカッチャ ヨ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!』
直接的に脳髄の鼓膜的な部分に落雷の直撃が轟き渡る様な…
ダークなアニメのサラリーマン風のやたらと唇がでかい登場人物が、笑みを浮かべたまま、指を此方に差し向けて、
『ド───ン』
と叫ぶ時に、それを受けた側の人間が何だか物凄い衝撃を受けている描写があって、まさにあんな感じの衝撃が僕の身を包んだ。僕が気絶して、意識を戻した時には、妹は姿を消していて、村人の誰もが…僕の両親や親戚ですら、一切とその話題に関しては触れなかった。
「お前は未だ、距離が遠かった分、助かったのだ」
と、言われた。
以来、時々、消えてしまった妹と、この村に関する禁忌、そしてキッキについて、心が空虚になっている際には、それについて、どうしても無意識に考えざるを得ないでいるのだ。
………
……
…
キッキの巣穴は、存外に簡単に見付かった。
森の中の、小高くなった部分に、何だか良くは判らないが体毛を連想させるみたいな蔓が互いに密接に絡み合った、その一ヶ所に穴が空いており、奥へと続いている様子である。
辺りには、野生の子キッキ達がこれは…食い散らかしたものなのだろうか?プチっとやって鍋に入れるタイプのあの簡易スープ、国の母って名前の柔らかいビスケット、餃子、ラーメン、冷凍の炒飯…それ等の食品を包装していたモノが、あちらこちらへと散乱しており、何だかゴミ屋敷の様相を呈している。
キッキ猟師から聞いた通りに、こうしてキッキの巣を見つけ出す事が出来た。僕は僕が助けられなかった妹の事を思う。こうしてキッキの巣穴にやって来たのは、キッキと村の禁忌に秘められている何か、それを調べる事で手懸かりが出ては来ないものか、未だに成人には遠い僕の、それは自分なりの精一杯の罪滅ぼしなのかも知れなくて───
ガサガサッ!
巣穴から物音がする。
僕は息を詰めて隠れる。
巣穴から出てきた子キッキは、スンスンと鼻を鳴らすと此方に視線を巡らせて近付いてきた。
ガサガサ…
ガサガサガサガサ…
僕は…どうすれば良い?
野生の子キッキ猟には然程危険は無いと言われているが、銃の暴発に依り、年に少なくはない死亡事故が発生するものらしいとは聞いている。数年に一度は、死者も出ている。『危険が然程には無いキッキ猟』にて、何故、数年に一度の頻度で死亡事故まで起きているのだろうか…
こうやって生きている子キッキを眺めるのは、初めてなのかも知れない…子キッキはその円らな瞳を真っ直ぐに此方へと巡らせて迷い無く歩みを続けてから、もう、直ぐに僕の隠れている蔓草の、つい間近にまで接近して、微かに口を開いた。
「ンヌォヌィーツァ…」
シュザザザザ…
ブゥ─ン
ドチャ!
次の刹那、今まで何処に身を潜ませていたものなのか、袴を着た巫女姿のうら若い女性が飛び出してきて、薙刀でその子キッキの首を跳ねたのである!
子キッキの身体は、僕に向けて手を伸ばした儘、首を落とされたにも関わらず、数歩、更に僕に向かって歩みを続けてからドサッと倒れ込んだ。
「──危なかったな、もう少しで君はキッキに取り込まれる処であったのだぞ、少年。君は誘われていたの。判る?」
気の強い様な、しっかと目端のつり上がった凛とした気を纏っているその二十歳前後の女性は、この村でのキッキ関連の祭事を取り行っている神社で、裏喪音の名と神職に就いている当代の巫女さんであった。
…
……
………
首を斬られてガサリと、胴体と生き別れになった子キッキの生首を白い布で包むと、当代の裏喪音さんは首を包んだ布を薙刀に巻き付け、胴体は血抜きを手早く済ませて肩に担いで、僕も少し担ぐのを手伝って、そうやって神社へと向かって歩いていた。
僕は何だか、人から隠れてこの村の、キッキの禁忌の謎を、幼いなりにも解こうとしていて、そして、良くは判らないが、裏喪音さんが言うには危ない状態を救われていた事をうっすらと理解し、甲斐性も成果も無いままにただただ、助けられたと言うその事実を前にして、無力と無知に何だか居たたまれなくなり、喋り始めた。
「助けて頂いてありがとう御座います、裏喪音さん、僕の行為が向こう見ずだと思っていますか?僕は…僕の妹が消えた、その謎を解きたかったんです…僕の妹は、どうなって仕舞ったのか、何故、村のみんなはキッキの事や、時々こうやって消えて行く人の事に関して、口に閂を下ろしてしまって沈黙を続けているのか、僕は、それがどうしても知りたい。」
「………君は、あの時の。そうか、あの家の少年だったのだな。君にも、何れは判る時が来る、今、私に言える事は、それだけかな。」
中身を伴わない、それは会話だったとは思う。何ら僕の抱いている気持ちに対しての、それは回答とは言えない返しであったから。けれども、その言葉に依って、僕は何がなしに、少しだけ心根が晴れたみたいな気はしたんだ。
うちの村の狩場から村へと戻るその獣道には四辻みたいな交わった場所があり、僕達が使わない方の道は、仲の悪い隣村の連中が用いている道だと聞いたことがあって、まさにそんな四辻に近付いたところで…
ヒョッ!
「危ない!」
何処からともなく矢が飛んできて、裏喪音さんが咄嗟に獲物と薙刀とを放り投げてその矢を握り止めた。何て運動神経なのだろうか!?
「あ~ら、隣村の、裏喪音の、相変わらずの手練ですこと♪」
「貴様は…悼端地……これはどう言うつもりか。」
「アハハっ!どう言うつもりか、って、それはアタシのセリフですよ、裏喪音の、キッキ様の眷属になっている子キッキを乱獲して生計を立てている、賤しい村の巫女風情がっ!」
噂には聞いたことがあって、今こうして、初めて目にしている。そう、川の水源の権利を巡り毎年の様に争っていて何かと仲の険悪な隣村の人々の一派に、キッキの事を守護神の様に崇めて信仰している連中が居て、矢張り、彼等も神社を持っており、神事の役職を持った巫女がいるのだと。そして、その神社の巫女の名前が確か…「いたんじ」と言う名前であって、巫女だから当然と女性。そんな彼女がどう言った理由なのか、不意討ちで突然と矢を射掛けて来て、どうやら彼女と一緒に身を潜めていたらしい、彼女の仲間が二人、サッと飛び出して来て、裏喪音さんが咄嗟に放り出した薙刀に付けていたキッキの生首と、投げ出された胴体を手にして彼女の元へと集まり此方を振り返った。
今、目にしている彼女が恐らくはその悼端地に間違いないのだと思う。裏喪音さんと同じく、巫女の着物を着ており、目尻がトロンとして睫毛が長い。何だか大人の少し寒気がするみたいな、そんな色気を感じさせる女性だった。
「戯れ言をっ!その獲物は私のモノだぞ、悼端地の。」
「あらあら、戯れ言はどちらですか。この子キッキ様はアタシ共が供養致します。裏喪音の。」
僕達の村は寒村であり、細々と営む農業だけでは暮らしは苦しく、副業である、キッキ狩猟の恩恵で豊かに暮らせている。仲の悪い隣の村は、そんなキッキ狩猟の恩恵を受けている僕達村人を軽蔑している。良くある部落間の諍いである。何だか今この場で、その縮図が展開され様としている気配が立ち登り始めていた。
その戦いは当初は裏喪音さんが激昂して苛烈な攻勢を行い、それを悼端地がいなし、激戦を極めて、それでも三人組の悼端地側に分が勝って、奪われた獲物である子キッキを守りながらじりじりと後退して堅守を解かない悼端地側が逃げ切った形で終わった。これ以上はお互いの領域には立ち入れない境界みたいな場所があって、その線まで悼端地側が首尾良く後退せしめたからだった。
「山の恵みを活かす事をやらぬ、相変わらず自然と語らずに、ただ頑迷に畏れる気持ちを解かずに無駄働きをさせている莫迦め。肉をわざわざと、腐敗させて埋葬してなんとするのか…」
裏喪音さんが荒げた呼吸を落ち着かせると、ぼそり、と、そう呟いていた。目端の鋭い凛とした美人の裏喪音さんの、更に未だに稍、激昂の残り香が漂う、そんな彼女に僕は何だか根拠の拠り処を知らぬ畏れを抱いた。まるでそれは自然の意識みたいに感じていた。
「────君には、話して置かなければならぬやも識れぬ。そして当然と君がそれを識りたがっている事も、私は理解しているが…それを今の君が聞いて、腹を据えるには君の心根の強さが試される。君はどうするか?」
目の前に生肉があれば、それに一心不乱にかぶりついて、唇から生肉の血を垂らしつつ、それを官能的に舌なめずりするみたいな、そんな凄絶なる表情で僕を凝視してきた。まるで僕は獲物みたいだった。美しい鬼が、獲物である僕を見聞するかの様な気配…そんな裏喪音さんの気配に僕は逡巡し、本能的に畏れて数歩後退してしまった。文字通りに、後ずさって仕舞っていたのである。腰に痺れた様な感覚があり、僕は気が付けば大地に尻餅をついてしまっていた。
裏喪音さんは僕のそんな様相を視界に認めるとフッとその狂暴な秋水の如き刃の瞳の刃先を、意識して緩ませてくれたので、僕は何とか耐える事が出来た。
「無謀は勇気とは言わぬ。恥じる事は無い。君はキッキの探索で私に助け出され、既にその過誤を犯したばかりで悔恨の思いだろう。体験から學ばずにそれを再びとむざむざ繰り返す事はあるまいよ。」
裏喪音さんは僕の決断に対して、そう判断している様子であったが、僕の決断は違っていたのである。今までモワモワと、掴もうとしても掴めずに、その癖、纏わり付いてくる湿気みたいに曖昧模糊と、追えば逃げて、逃げたら纏ってくる不快。心内に育まれていたこの村に対しての、タブーに対しての、キッキに対しての、消えた妹に対しての…それ等の疑問に対しての回答の手掛かり。ようやくとそれが目の前にあるのかも知れなくて。僕はそれを、その正体をどうしても掴みたかったのだ。そう決めた時に、僕の中の何かが目覚めたのかも知れない。内面の海にさざめいていた波頭が、今、埠頭に打ち付けて砕けた。埠頭に立っていた僕はその砕けた波飛沫を受けて微動だにしておらず、逆に波を見据えた。そんな内面を幻視していた僕がふと浮き世に意識を掴み戻した時には、僕は僕の右手を裏喪音さんの左腕に食い込ませており、今度は逆に裏喪音さんの方が僕の生んだ鬼気にあてられて戰いている。裏喪音さんの喉が小気味良い感じに動くのが見えた。あれに牙を突き立ててやろうか、それは如何にも旨かろうさ。
「嗚呼、君も鬼に目覚めたか。よかろうさ、全て話そう。」
嘗て、この地に一人の人成らざるかの様な妖艶な女がやって来たと言う、それは一説には山に登ってきた人魚の化身だとか言われている。その女がやって来てから、山の恵みは豊かになり、彼女は次第に信仰を集めるようになったのではあるが、ある日、彼女の美しさに劣情を抑えかねた若い衆の一人の不心得者が彼女に乱暴狼藉を働いた時に彼女は姿を消したのだと言う。不心得者の身内を庇い立てる一派と、彼を糾弾する一派へと村は分裂して行った。
やがて、姿を消したその女を見た、との噂が立つ。彼女は土に穴を掘り、そこに涙を流しながら無数の小粒の卵を産卵しており、その姿形はすっかりと化け物の様になってしまい、かすかに彼女が身を眩ます前に身に纏っていた着物の名残で、何とか判別が付いたそうだ。
彼女が産んだ夥しい数の卵は、小高い巣穴となったその場所で、一斉に孵化する訳ではなくて、少しずつ少しずつ、毎年数十個ずつ孵化を繰り返し、それが実は、子キッキの正体である。彼女がやって来てから山の恵みが増えた不思議な力の謎は、彼女の胎内にその力の源があったらしく、彼女が身籠り産卵してからは、山の恵みは彼女がやって来る前の状態となり、代わりに子キッキ達の狩猟が村の恵みとなって行く。
化け物となった彼女は、何らかの神であった事には間違いなく、人間と交わった事で地上に引き摺り降ろされてしまったのだと言う。彼女はだから、彼女に乱暴狼藉を働いたあの若い衆を怨めしく思い、探し求めて、何度も何度も、昔から現在に至るまで、ああやって今は二つに別れてしまっている両方の村を彷徨い歩いているのだ。つまり、あの村にやって来ているキッキは、あれはその元々は神様だったその女本体であると言う言い伝えである。
彼女に乱暴狼藉を働いた若い衆の犯人を庇い立てた一派は、子キッキを狩猟して豊かになろうと考えて、それを実行して豊かになった村であり、つまりは僕達と裏喪音さんの村の側であり、反対に若い衆を糾弾していた村が、あの先程の、悼端地達の村だと言うことだ。
「それだけではないでしょ~♪裏喪音の。あなた…肝心な話をまだ隠そうとしているじゃないのかしら。──そこの、アータぁ~。ねぇ、貴方は聞きたいのでしょう?あなたの、消えてしまった妹の、消えてしまった村人達のその後をさぁ。」
「悼端地っ!君っ、聞いてはならんぞ、この女の…」
いつの間にか後ろから三人、あの悼端地一派がやって来ており、瞬く間に裏喪音さんを羽交い締めにしてしまった。そうだ、この辺りは隣村の領域に近く、地の理はあちら側にあったのである。奪った子キッキを置いてきてから立ち戻って来たのだろうか。悼端地は二人の部下の持っていた紐で素早く裏喪音さんの手足を縛り、猿轡を嵌めようとしている。
「君達の村はねぇ、祟られているのよ。神様を手籠めにして、その神様が生み出した子供達の肉を喰らい、身に纏い、武器にして豊かになってきた、その、報いなの。裏喪音の、の話に出てきた、彼女を手籠めにした村の若い男はね、進歩的で、文明的で、聡明であったけれども、その分、それに比例した強欲さを持っていたから、彼女を犯し、それだけでは飽き足らずに、その彼女が産み出した子供達の血肉をも喰らう事をよしとして、そうやってその男の血肉を受け継いだ君達の、その気配を、彼女は決して赦さない。だからね、新し物好きだったその彼の習性、気配を敏感に察してね、新しい見慣れない食べ物の近くにいる人間に、祟るのよぅ、彼女は、キッキ様は。」
背中にゾクリとする、冷えた刃物で背骨を撫でられているみたいな、そんな冷ややかな心地の声音で、悼端地は話を続ける…
「ねぇ、アータ、貴女の妹、あたしがね、供養してあげるからさ、忘れちまいなさいなぁー。」
核心の軸に近付いている気分だ。
嫌な音色を奏で続けて背筋に無数の背虫が這うみたいな、そんなviolinの複数の不協和音…背筋に広がる怖気。この悼端地と言う女は、その核心に触れた結果、僕が受けるであろう、衝撃力、その暴力的な結果の果てを、己の悪意の意識と重ねて、昂っているみたいだ。彼女の吐く息が甘く、そして醜く匂う様だ…顔が近づいて来る。30cmの距離…トロンと垂れた官能的な眼は、その熟れた乳房を連想させる優美な曲線を想像してしまう。未だ僕には体験が無い、『目合ひ』の肉の悦びに酔っていて、はやる男を受け流しつつ、入り口付近で焦らしているみたいな…
悼端地が一気に間合いを詰めて、人差し指で僕の唇の形を指で遊ぶみたいになぞり、僕の耳に滑る舌先を差し込んでグゥルグゥルと蛇の舌がなぞるみたいな邪な渦巻きを描いてから───
「裏喪音のが、見事に首を討ち取った、あんたの妹さぁ。」
瞬間に沸騰する脳の神経細胞が、酸素を吸いすぎた時みたいに、僕が今現在在るこの世界が、果たして夢か現実かの境界を曖昧にさせる。呪術師の旅立ちみたいに。その中で、先程の子キッキの鳴き声が海馬の中から反芻して響いてくる…
ンヌォヌィーツァ… ンオォヌィーツァ…
ンオォニィーツァ… ンオォニィーチャ…
オォニィーチャ… オニーチャ……
おにいちゃ… おにいちゃん…
「おにいちゃん。」
ぐっ、がっ…がぁあぁぁあぁあぁあぁぁあぁぁあぁあぁあぁぁあぁぁあぁあぁあぁぁあぁぁあぁあぁあぁぁあぁぁあぁあぁあぁぁあぁぁあぁあぁあぁぁあぁぁあぁあぁあぁぁあぁぁあぁあぁあぁぁあぁぁあぁあぁあぁぁあぁぁあぁあぁあぁぁあぁぁあぁあぁあぁぁあぁぁあぁあぁあぁぁあぁぁあぁあぁあぁぁあぁぁあぁあぁあぁぁあぁぁあぁあぁあぁぁあぁぁあぁあぁあぁぁあぁぁあぁあぁあぁぁあぁぁあぁあぁあぁぁあぁぁあぁあぁあぁぁあぁぁあぁあぁあぁぁあぁぁあぁあぁあぁぁあぁぁあぁあぁあぁぁあぁぁあぁあぁあぁぁあぁぁあぁあぁあぁぁあぁぁあぁあぁあぁぁあぁぁあぁあぁあぁぁあぁぁあぁあぁあぁぁあぁぁあぁあぁあぁぁあぁぁあぁあぁあぁぁあぁぁあぁあぁあぁ!!!
激情に囚われた僕に、彼女は、悼端地は、さらに畳み掛けて悦んでいる気配で言葉を続けた。その言葉を僕は良く覚えていないが、悪い夢の中で、僕があの子キッキみたいに、映画の中のゾンビみたいに彷徨い歩いており、その化け物の如き鈍ってしまった思考の中で幻視と現実の狭間の世界へと誘われて行くみたいな心地で何だかそんな彼女の続ける言葉を、まるで己とは無関係な距離から、一切の感情を伴わないで聞くとも無しに流して聞いているみたいな感じだ。
「キッキ様はね、我が子を、子キッキ達を喰らうあなた方村人に、己の悼みをそのままにしてあなた方にね、返したかったの。判る?あなたの妹はね、子キッキになってしまったのよ。子キッキと生まれ変わって野生に放たれながらも、僅かばかりの記憶を残していてね、それで、生前の知り合い達が近寄ればね、気配を感じ取って近付いて来てね、そうやってから…噛むの。判る?あなた方の村のキッキ猟師達に事故が多い、その本当の理由はね、そんな、子キッキにされてしまった元村人だった彼等に話し掛けられてしまってね、躊躇して撃てなくて、噛まれてしまったその猟師達も子キッキになってしまうからなの。子キッキ猟でね、猟師に死人が出た時に、必ず大猟になるのはね、その亡くなった猟師の葬式に遺体が一切無い理由はね、つまりはそう言う事なのぉー。ねぇー、判るぅー?あなた達はね、あなた達の仲間だった消えた村人をね、食べたり、加工品にして出荷したりしているのぉー。アハハハハー。んねぇ~、判ったぁ~。君ぃ~、理解しているのぉ~?」
村の、消えた妹の、消えた村人の、キッキの禁忌…
全てが繋がって僕は…
…
……
………
あの日の、あの後、悼端地は裏喪音さんの拘束をあっさりと解いた。彼女等一派達は、はじめからどうやら、僕と裏喪音さんの行動を尾行していたらしい。その目的は恐らくは、「僕に全ての村の真実」を話す為に。裏喪音さんは矢張り、村の側の人間であり、意識するでもない部分で、殊更、己の住む村の事を悪く伝えずに、核心の消えた妹については明らかにはしなかったろう。その意味では僕は悼端地達には感謝せねばならないのかもしれない。実は僕はあの後に、半ば『子キッキ化』し掛かっていたのだと言う。子キッキみたいに虚ろな目をして彷徨い歩くのを、何とか裏喪音さんと悼端地達が縛って運び行き、両方の村のちょうど境界に存在している対立するそれぞれの村にある神社の『本殿』にあたる、今の時代の村人達には殆ど知られてはいない場所へと連れて行かれた。
そこがまさに、あの、村を彷徨い歩いている方のキッキ、つまりはこの村の真実の核心である、 神様/妖怪 の本キッキの 巣/本殿 であるらしい。本キッキの意識は、今ではすっかり二分しており、村を彷徨い歩いている時には、嘗て己に乱暴狼藉を働いた若い衆の末裔達に対しての怨みで祟る存在と化しており、一方でこの 本殿/巣 に居る間は、神事を取り扱う存在として勤めているのだと言う。『半子キッキ化』していた僕は本キッキと対面され、本キッキはその僕の様子を見て、己のあばら骨付近の肉を自ら短刀で以って切り出してから、それを棒に刺して塩を振って爐の前の灰に刺して炙り、僕を延々と抱き締めたのだと言う。そうして、己の肉が焼けて辺りに甘ったるい芳香が立ち込めたタイミングで、本キッキはその炙った稍生焼けの、己の肉片を口に含んで咀嚼してから、僕に口移しで分け与えたのだと言う。
考えて見たらば、あの後の僕は鈍った ゾンビ/子キッキ みたいな思考の中、頭の中に浮かぶ廃墟みたいな場所を虚しい気分ですっかりと満たされて徘徊していて、そこに何だか慈愛に満ちた女がやって来て、僕は彼女に抱き締められて、そうされていると、あの悼端地が語った残酷なる真実のダメージが和らいで行くみたいな心持ちで、黙って彼女に身を任せていた。軈てその彼女が服の前をはだけて、豊かな乳房を僕の顔の前に「含みなさい」と言わんばかりにしている様子に、僕は何の疑問も抱かずに自然とそれを口に含んでいた。口内にネットリとした甘く豊かで動物的な蛋白質と糖鎖の結合物を感じさせるその体液の味覚は、何だか何時かに味わった村の宴会の時の子キッキの串焼きみたいな美味だったのだと思いながら…
本キッキから肉の口移しを受けた後、僕は意識を完全に失って眠りについていたのだと、意識を取り戻した時に僕の前に居た二人、悼端地と裏喪音さんから聞いた話である。
………
……
…
「村を、出たいんだ……」
意識を取り戻した後に、目の前に居てずっと僕の意識が戻るのを待っていた様子であった悼端地と裏喪音さんから、半子キッキ状態から回復した経緯を聞いた後に、僕は二人に向かってポツリと、そう話した。
「君がそう決断するのであれば…悼端地の、頼めるか?」
「はぁ~い、裏喪音ちゃんの、委細承知しましたよ~♪アタシの仲間達の伝でさ、そう言う、訳ありの子達の街の暮らしへの斡旋をしてんのよ、アタシ♪」
そう嘯いて、悼端地は僕にウィンクしてきたのだ。何の事は無い、もしかして最初からこの悼端地さんと裏喪音さんは、僕のこの一連の動きに対して、共謀して事に当たり、芝居を打っていた様子であった。
「この村の私達の側は、最早、衰退を隠せない。元来が貧しい寒村であるのに、子キッキの恩恵で豊かになってしまい、それに胡座をどっしりと構えて仕舞っている。他で生計を立てて行く事をやらないでいて、それでいて、より豊かになるものだから、村に真新しい文化が次々とやって来ては、村の食卓には真新しい食べ物達は指関数的に増えて行く。まさにキッキの祟りだ。そうやって、今度は真新しい食べ物を見たキッキの呪いに依って、村人が子キッキになり、豊かになれば豊かになるにつれて、村人達は元々は村人であった子キッキ達で生計を立てて、いわば己の手足を喰らい飽食して行く…カニバリズムさ。この呪縛に依って軈ては、死亡が出生を上回り、けれども、汲み取り式便所が、水洗になり、更にウォシュレットに、一旦便利になって仕舞えばその文明の甘美なる湯船からは戻れはしない、湯に浸かり続けていたい、不可逆的な罠に、村人は囚われて仕舞っているのさ。あの村の者達は、己の体が既に、湯上がりの時の指の様にしてふやけ切ってしまった土左衛門みたいなものだよ。」
裏喪音さんがこう述べた後に今度は悼端地さんが口を継いだ。
「裏喪音ちゃんの、が言う事は尤もさ、けれどもさ、君、あの村を出たとて、その様な同族食いはさぁ、きっと、現在の資本主義社会の中では、いや、もしかしたらば、全ての社会に於いてさぁ、きっと、似たようなモノは存在しているのさぁ、うん♪判る?誰かが誰かを喰いモノにして、強い誰かは生き残る。もしかしたらばさぁ、生命の、それは本質なのかも知れないのさぁ…」
悼端地さんが爐で炙る串肉を手に取り、わざとらしく僕の目の前で舌舐めずりをしてからそれを唇に含んで咀嚼している。猪の肉だ。彼女の側の村は、子キッキ漁はやっていないのだ。
…
……
………
新聞のチラシ入れ・配達の仕事を、悼端地さんの伝で斡旋してもらって働いている。もう、村を離れてから三年になる。同じ様に、悼端地さんの伝で仕事を斡旋して貰っている様々に訳ありな仲間達…どうやら悼端地さんはあの村の中だけではなくて、街中にも勢力を伸ばして事業をやっていたらしく、有象無象の田舎から出てきた奴等や、元々この街に居た連中、はたまた、別の大きな街からやって来た連中…そんな若い連中を束ねている。人材派遣業と言った処であろうか。
で、悼端地さんのそんな組織に所属している僕達は、大きな寮みたいな建物で暮らしていて、各々が休日の日には定期的に集って、勉強会みたいな事をやったり、色々な業種に散っている、そんな奴等が集まっては料理を囲んで日々の会社の暮らしの中で溜まって行く蟠りについて話し込んだりしていて、僕はどうやらこうして村を出て、ようやく遅きとは言え、外の社会に視線を巡らせる事が出来て判った事ではあるのだが、現代の若い人達は何かと病み易くなっており、その原因が、彼等の──同時に僕の、労働環境の境遇に起因していたりしている事を理解し始めている。
「───でよぅ、その若い正社員が、口を尖らせて俺の前で言ったんだよな、『そんな休日出勤なんて、派遣に任せれば良いんですよ、何で僕が…』派遣の俺に対して少し迂闊で配慮に欠けた発言さ。まぁ、多分そいつも未だ10代でな、社会に出たばかりの少年みたいなもんなんだよ、悪意は無かったんだよ、けれどもな、俺は奴との距離を感じたよな。」
派遣先が自動車会社のその20代後半に差し掛かった彼の言葉…あの村を出る前に悼端地さんが僕を見て柔らかに鋭く言ったその言葉の意味が重なってくる。
──…君、あの村を出たとて、その様な同族食いはさぁ、きっと、現在の資本主義社会の中では、いや、もしかしたらば、全ての社会に於いてさぁ、きっと、似たようなモノは存在しているのさぁ、うん♪判る?誰かが誰かを喰いモノにして、強い誰かは生き残る。もしかしたらばさぁ、生命の、それは本質なのかも知れないのさぁ…──
村のあの同族喰いと、何ら変わりが無い、そんなグロテスクは、街にも確かに存在していた。派遣の彼は正社員のその若い子に喰われかかり、その若い子もきっと、より上位に喰われている。食物連鎖…第二次世界大戦をテーマにしていた漫画の世界を重ねて考えた。この世には戦闘機と爆撃機みたいなジャンルがあって、爆撃機は戦闘機に一方的に喰われるしか無いのだろうか。戦闘機に見えているその存在にも、更に強力なる戦闘機が居てそれを喰うのだろうか?喰われて喰われて、痛みを識り、それに明確に対抗するには、僕達は何れは、あのB-29みたいな、空の要塞みたいなそんな爆撃機の化け物になるしか無いのだろうか。鬼に、なるしか無いのだろうか…
………
……
…
今日は、彼女との初めてのクリスマスイヴを過ごしている。彼女は風俗で働いていて、性の部分で、そんな彼女は爆撃機となって、戦闘機達に喰われている。時々、彼女は不安定になって、それがとても心配ではあるのだが、とても純粋に、直向きに僕を好きになってくれている。そんな彼女ではあるのだが、時々、そんな爆撃機である彼女が時々、戦闘機となって、後輩を虐めそうになる。僕が気が付き次第に嗜めるが、彼女は可哀想になるくらいに泣き崩れて謝ってくる。そんな不安定な彼女だが、僕をどうやら愛してくれている。
鳥の股肉の照り焼きの晩餐を二人、囲んでいる。豊かな牛の乳の脂肪を練ったクリームのケーキもある。それ等は僕らが戦闘機で、鳥や牛が爆撃機であるような印象を受ける。それを考えるとどうにも果てがない悩みに囚われそうになり、そんな難しい考えを放棄して、僕を見やる彼女に笑みを差し向けていた。
ねっとりと甘い、噛み締めると豊かな動物性由来の蛋白質と糖鎖と脂質が結び付いた罪深い味が拡がる。僕はそれを噛み締めて、村の子キッキ料理を思い出して仕舞う。きっと、食べ物を美味く感じるのは、生命にとって大事な事であり、また、僕にも 鬼/戦闘機 の内面の存在が、確かに存在しているのだろう。僕は僕がまた、そんな鬼の内面を暴走させた挙げ句として、子キッキみたいに虚しく街を彷徨い歩くかも知れない、その事について、とても畏れている。
今日はクリスマスイヴだ。
さて、彼女を喰らおうか。