第2話 づ~らづらっ!
歯に若干とアドヘシンがくっ付いている不快感、それを巡らせた舌で感じていた。歯に付着するアドヘシンとはつまり、歯垢の事である。散歩を終えたら歯を磨かねばなるまい。
2月の、春の気配が見えたり消えたりしている日和、詩人ウィリアム・ワーズワースの「我が妹に」みたいにもう明らかな3月の春の気配のそれとは違っており、未だ冬と春がせめぎあっているそんな私が今暮らしている木更津市の季節の前戦地域にあって今日は何だか一段とまた、風が強い…
田舎の住宅地はすぐ隣がもう畑になっており、こんな強風の日なんかには、ヅラ畑からよく風になびかれたヅラが飛んでくるのである。この季節に特有の、風物詩みたいなものである。
風が強い日に、ヅラ畑から飛び出したそんなヅラ達は、或いは公園やなんかを囲んである、あの緑色の金属網に引っ掛かり、囚われながら、その長い髪の毛みたいな毛先を未練がましくゆらゆらとなびかせていたり、或いは、西部劇で良く見掛けるあの、枯れ草が集まって出来たでかい枯れ草まん丸の中に紛れ込んで、ぐるぐる、ぐるぐる、ぐぅーるぐると、愉しげに吹き溜りの中をさ迷っていたりする。この辺りの地域では当たり前にみられるそんな季節の光景であるのだ。
はたして今日もヅラが飛んできた。それをヅラ畑のばぁさんが追い掛けてこちらへとやって来た。ばぁさんが、その年老いた心臓に鞭打ち鞭打って青息吐息でようやくとして、そんな風に飛ばされて束の間の逃避行を受動的に楽しんでいたヅラに手を伸ばした時に…
野良の茶トラ猫が、釣り人から魚を奪うように、ばぁさんの目の前で、ヅラへと伸ばした手の、その僅かに30cm先で、ヅラに飛び掛かると、さっと獲物を口に咥えて抜け目ない目でばぁさんを一瞬、睨め付けた後に素早く走り出して、何処かへと矢の様にして去って行った。きっと今日の茶トラ猫の食卓は豪勢な事になっているだろう…もしかしたら、あの茶トラ猫は牝で、子猫に獲物のヅラを分け与えているのであるかも知れない。
ばぁさんは、私の目の前で繰り広げられた、このヅラとばぁさんと猫の寸劇の唯一の目撃者たる私に、何だか随分と気まずそうな目礼をして去って行く。その時のあのばぁさんの目には何だかありありとした未練を感じてしまった。きっと、あのばぁさんにとって、何か特別な気持ちが籠っていた、あれはそんなヅラだったのかも知れない。
ヅラ畑の肥料としては、失恋した女達が髪の毛をばっさりと切り落としたその髪の毛こそが最上の肥料となるらしい。女子のトキメキ、そのトキメキを時間と言う名前の地層がじっくりと熟成させ、暖めて培って行き、伸び伸びた髪の毛が、その最後の最後で恋実らずに、そうしてばっさりと未練を切り落としたみたいにされた髪の毛は、それは極上なるヅラ畑の栄養源となり、最近ではバレンタインデーなんてものが有るが、本来に於いては恋愛成分は昔から日本人は、このヅラ畑の作物であるところのヅラで補っていたのである…
中年の、毛髪が枯渇している男性なんかには、恋愛成分が足りていないから、それ故なのか、ああやって未練を断ち切ると言うか、そもそもに於いて、「恋愛と言うその発想自体」をやっていないから、毛髪があんな事になっているのかも知れなくて、斯く言うそんな私自身も、毛髪が後退して、もう、いっそのこと、とばかりに、ある日に髭剃りでこの未練たらしい毛髪を全て削いで仕舞っている、そんな中年の男であった。
あのばぁさんにはきっと、今まで生まれて、生きてきて、未練に思う恋愛があったのだろうなぁ。あの、緑色の公園を囲っている金網に引っ掛かかりながらも、風に吹かれてその毛髪の様な毛を未練がましく差し出した手の様に風に靡かせていたヅラみたいに。私はあの光景を思い出して頭に浮かべてみた。あれは何だか悲しい光景である。
あの野良猫には譲れない恋愛が有るのだろうなぁ、野生で生まれて、生きて、子孫を残すその行為に。野生の野猫にはたして恋愛の概念が存在しているのか知らぬ、が、きっと、譲れない何かが確かにあって、だからあの野良猫は、ばぁさんの未練みたいなそれを奪えたのではないのかなぁ。
先ほど、目の前で行われたあの寸劇じみた場面は、もしかすると、そんな何気ない深さが有るのかも知れないな、と、私がその様な事を考えながら、再びこの早い春の季節の散策を再開しようかと、そのタイミングで、また新たに風に吹かれたヅラが一房、此方へと飛んできた。
嗚呼、またか、また、未練が飛んできたのか…
そのヅラは、何の偶然か因果なものなのか、私の頭皮にすっぽりと覆い被さった。まるで、この場所こそが己の元来の存在場所である、と、主張しているみたいに。
私はそんなヅラを少々疎ましく思い、少し乱暴に引っ張るみたいにして頭皮から剥がそうとした。
「……痛い!?」
これはどうした事だろう。
ヅラが髪の毛になってしまった。艶やかな長髪である。中年の男がやるにはあまりにも気持ちが悪い髪型であったので、私は激しく動揺して部屋に引き返した。
…
……
………
部屋に引き返して、洗面所へと行き、鏡に向かって己の姿を見ている。どう見ても髪の毛が再生している。こんな髪型は昭和の若者の、あのフォークシンガー達みたいではないか!
何て事だ、何て恥ずかしい髪型だ!
私は即座に、なけなしの紙幣を手に掴むと、付近を歩き回って目に入ってきたサロンの扉を開けた。
そのサロンは客が閑散としている、と言う以前に、どうやら私しか客が居ないみたいで、何だか若いのに物憂げな、短い髪型のスタイリッシュな女性が、片方の眉毛をちょっぴりと上げて私を見てきた。
「……どうぞ。」
私は女性が進める儘に、理容台へと座る。
「俺ぁよぉ、髪型は、自分で見るよりか、その道の専門の奴がやる事が一番だと思うんだよな、だから、あんたの判断に一切合財すっかりと任す事にするよ、頼む。」
そのスタイリストは、それは慣れた感じで、私の生えたばかりの俄作りな毛髪を加工して行った。
…
……
「アハハハ、お客さん、冗談がうまいですね。」
最初の印象がややすれた感じの無愛想に見えた、そんなスタイリストの彼女は、整髪作業を進めていくに従い、次第に饒舌となっていき、その話術もまた、当たり障りが無く屈託も無く、その様な線上を軽快にバランスを取りながらも惚けながら踊っているみたいな見事な話術であり、軈てはそんな彼女にあてられて、私も次第に打ち解けて饒舌になって行く。
「だからさ、きっとそんな風に紛れて出てくるあのチリチリした恥ずかしい毛はさ、きっと、人間達に対するテロ活動をやっているのだと思うんだよな。」
「ちょ……お客さん、笑わせすぎ、手元狂っちゃうからやめてよーwww」
何の話題をしているかと言えば、日常生活の中で不意に部屋の中や決定的なタイミングを狙ったみたいにして人間の前に現れる、『毛』の話題である。思春期に、異性から借りた、または貸し出そうとした、そんな文庫のしおりに紛れていたり、ルーズリーフの替えが入っているナイロンのあの粘着部分に付着していたりする、家庭用ゲーム機の、あのディスクを入れる時に開けると、片隅にあったりする、そんな『毛』達のお話である。
きっと彼らはテロ活動をやっているのだ。
考えて見て欲しい、意中の異性から差し出された、或いは差し出そうとしていたそれらに、『毛』が付いている事に気が付いた時の気まずさについて。間違いなく、奴等は一流のテロ組織であって、定期的に会合を開いて意見や情報の交換を行う極めて悪質な組織であるのだ。
「でも、判りますよ、アタシもそんなんありましたもん。例えばあれは~…」
そんな軽快なやり取りがひとしきり終わった後に、髪型を見てみると、短く苅り揃われて、明るく染色されて、流石はその道の職業だなぁ、と、感心して会計を済ませた。
「アタシもあの畑にね、ちょっと前に髪の毛切って肥料代にしたんですよね、そうそう、お小遣い稼ぎにね~。あそこのヅラ、ほろ苦くて、切なくて美味しいから。」
そうか、判ったぞ。
俺は彼女の手を取り……
…
……
………
「今日どうするの?」
「またちょっと散歩してから、小説の資料集めに図書館行くよ、あ、今日は俺、ナポリタン作っとくから。晩飯作らないで大丈夫だよ。」
「はぁーい、じゃ、行ってくるね。」
あの、私に貼り付いて一体化した作物のヅラは、なんとも自惚れみたいで、言い淀みたくなるのだけれども、きっと彼女の未練から育ったに違いなくて、それが奇妙な縁で、私と彼女とを結び付けたのかもしれない。
今日は世間はどうやらバレンタインデーらしいが、私は古来から伝わるヅラをナポリタンと絡めて、彼女と二人で食べようかと思っている。
チャットで誰かが
「今日は風が強い」
って言い出して、それに対して私が、
「風に乗ってこの辺で栽培されている農作物のヅラが飛んでくる」
ってボケて、そしたら知り合いが、
「それ、また短編小説のネタにすんのか?」
って言い出して、んー、何とかお話に出来るかなー、と、考えて、チョコレート的な…大豆イソフラボン的な、作物『ヅラ』の栄養成分を何と無く妄想して書き上げました。
(-人-)