第2話(3)
胃の痛みは日を追うごとに増し、スタジオではもちろんのこと、俺は家にいる時間でさえギターを抱えて曲を搾り出していた。何をしていても考えずにはいられなかった。
4月にレコーディングするシングルの曲を何とか捻り出し、けれど今の段階ではまだまだ全然納得のいく形になっていない。もっと良い形があるとしか思えないのに、出てこない。
加えてアルバム収録曲、その後のシングル曲が俺の心を追い詰めていく。とにかく、アレンジで納得の行く形に仕上がれば良いのだが、それでもダメなら根本からまた作り直すしかないだろう。……そう思えばまた、気が重い。
メディアでの仕事は、相変わらずまだ減る気配がない。2週間という期限付きで遠野がパーソナリティを務めるラジオ番組も、先日から開始された。
『ミッドナイト・ラン』という人気番組の30分枠のワンコーナーで『ミッドナイト・トライアル』というそれは、まだ駆け出しのアーティストやタレントがかわるがわるパーソナリティをやり、リスナー投票の評価によってはいずれ番組をもらえることもあると言う。それでなくても2週間は散々宣伝して良く、尚且つギャラが出るというので出たがるアーティストは少なくないが、裏仲さんの人脈か、Blowin’の手中に転がり込んできた。
とは言っても、メンバー内にパーソナリティなどという大役を務め上げられる人間など多くはない。と言うか、決まっている。遠野をおいて、他に誰がいると言うのか。
公平を喫した全員の意見によって遠野がひとりでパーソナリティを引き受けることが半ば強制的に決定され、仕方ないのでそれぞれのメンバーも2週間の間に1度は顔を出すことになった。
このコーナーに出演したアーティストで複数人数いる場合は全員で参加したり、かわるがわる請け負ったりと言うところもあるらしいが、Blowin’のメンバーでかわるがわるなど有り得ないし、全員で参加したところで結果は見えている。
話しているのは遠野ひとりで、後は無駄に室温と人口密度を上げているという状態だ。いない方がいっそましだろう。遠野も、ラジオ局で以前結構気に入っていた近藤美月という元アイドルに会えてご機嫌だし。
その日、遠野と一緒にラジオに出演した俺は、車を車検に出していて代車には乗りたくないなどと駄々をこねる遠野を自宅まで送った後、そこから数分の自分のアパートまで車を走らせていた。
アマチュア時代からずっと住んでいる小汚いボロアパートである。収入は上がったはずなので引越しをしても良いのだろうが、面倒くさくてなかなか踏み切れずにいる。特に不自由があるわけでもないし。
新宿駅のすぐそばに差し掛かった時に、携帯電話が鳴った。信号で引っかかったまま、電話に手を伸ばす。着信表示も見ずに通話をオンにすると、ざわざわというざわめきがまず流れてきた。
「はい」
「あ、如月? 俺、岡村」
「ああ……久しぶり」
電話の相手は以前の同僚だった。
高校を卒業して上京した俺は、一度東京で小さな会社に就職している。その時同じ高卒組だったのが岡村だ。小柄で3枚目で憎めないキャラクターだったが、まさか俺が退職して未だにこうして連絡をとるようになるとは思わなかった。頻繁でもないが、それでも年に2〜3回は会って飲んだりしている。
「如月、今仕事中?」
「いや、帰り。車ん中。……ちょっと待って」
信号が変わる。俺は車の列を抜けてロータリーの方へ向かうと、適当なスペースを見つけて駐車した。再び電話に戻る。
「悪い。どうした?」
「うん、今さ、飲み屋にいるんだけど、そこでかかってたラジオでお前いたからびっくりしちゃってさ」
「あ、ああ……」
気まずい……。
収録ではなく、生の番組である。何も居酒屋でラジオなんかかけなくても……と思いながら、俺は言葉に詰まった。岡村は、そんなことには気が付かずに続ける。
「で、今実は同期と飲んでてさ……現職の同期会みたいな感じで……」
最悪だ。
岡村の同期とはつまり、俺の同期をさす。あの頃共に会社に入った面々が、揃いも揃って先ほどのラジオを居酒屋で耳にしたと言うわけだ。
「で、『如月だ』なんてことになってさ。その……連絡してみろってことになっちゃったんだけど」
「……」
「あ、ちょっと待って」
ざわめきだけが流れる僅かな間があって、不意に耳元に声が戻った。岡村ではない。
「もしもーし。如月ー?」
「はあ……」
お前は誰だ。
「覚えてる? 俺、佐藤」
「ああ……」
親しい人間がそれほどいたわけではないが、佐藤は社員寮で同室だったのでさすがに忘れてはいない。四大卒なので年上だったが、別に年上風を吹かせるようなこともなく、少し気の弱い感じの優しい奴だ。
「久しぶり」
「今からさ、来いよ。盛り上がっちゃってさ。忙しいの?」
「いや、今帰りだけど……」
「んじゃさ……」
佐藤の背後で「如月くーんッ麻由美覚えてるー!?」と女の金切り声がした。岡村らしき声が「はいはい、如月が怯えるからやめてね」などと、的確に俺の性格を掴んでいる宥め方をしている。
「もしもし? 如月、来られる?」
岡村に電話が戻ったらしい。元同期の女の声を聞いて軽く引いていた俺は、言葉に詰まった。
「別に、無理はしなくても良いけどさ。俺はまた会えるし。でもせっかくだから、出来れば来て欲しいとも思うけど」
控えめに岡村が言うので何となく断りにくく、俺は肯定の意を返した。
「行くよ。ちょっと顔を出すだけなら」
「本当に? みんな喜ぶよ。どっちにしてもこっちももう、そんなに長居はしないからさ」
言って岡村の告げた場所は、ここからほんの目と鼻の先だった。少し迷ったが、いったん車を家に置いてから歩いて行った方が良いだろうと判断する。新宿駅から遠くない場所にある俺の部屋からでも、問題なく歩いて行ける距離だ。15分後に行くと約束して通話を切った俺は、再び車を出した。
店に着いたのは、約束した15分を少々過ぎた頃だった。どうせ酔っ払いばかりだろうから、そんな細かいことには誰も気が付いてはいないだろう。店に入ると席は満席だった。こんな時間でも、新宿ではまだまだ宵の口なのだろうか。近付いてきた店員に待ち合わせだからと断りを入れ、周囲を見回す。奥の座敷にサラリーマンと思しき一団の姿があった。その中に岡村の姿を見つけ、足を向ける。
「あ、如月」
靴を脱いで座敷に上がりこむと、目敏く誰かがそう言った。一斉に視線がこちらに向けられる。……居心地が悪い。
「ひさしぶり」
「おおー、如月、こっちこっち」
パンパンと岡村が自分の隣を空けて、座布団を叩いた。言われるままに腰を下ろす。
「嘘ー、如月くんだ如月くんだ如月くんだ」
それは呪文か?
「如月元気そうじゃんー」
「何飲む? ビールで良いの?」
「この辺にあるの好きに食えよ。あ、腹減ってたら追加してもいーし。おい、メニューメニュー」
そんなにいっぺんに話されては、どれにどう答えて良いものか判断が付かない。苦笑いを浮かべてメニューを受け取った俺の前に、新しいグラスが置かれた。斜め前の女性がピッチャーを取り寄せて注いでくれる。何と言っただろうか……確か俺が在職中に行われた同期会で幹事をやってくれた女性のはずだ。
「大原、ビール追加して良い?」
誰かが声をかける。そうだ、大原昌子、だったか?
「さんきゅ」
「それじゃ如月も来たことだし、改めて乾杯しよう乾杯」
「かんぱーい」
グラスを合わせて、一口飲む。元々俺の同期は10人ほどしかいなかったはずだが、今の時点でもそれに近い人数がいるようだ。あれから何年も経つのに、こんなに残ってるのか……凄いな。
「悪いな、疲れてるところ」
岡村が申し訳なさそうに言うので、俺は軽く肩を竦めた。
「お互い様だろう、それは。……結構みんな辞めずに残ってるもんなんだな」
「そうだなー。ウチは残ってる方かもね」
「いやー、如月くん、金髪もかっこいいー」
大原の後ろから金切り声がした。電話口で騒いでいた声だ。その言葉に思わず目を瞬いた。
そうか……俺にとっては俺が金髪なのはほとんど当たり前のようになっているが、そう言えば就職していた時はさすがに黒髪なんだった。そしてこいつらは、黒髪だった俺しか見たことがない。
「麻由美のこと覚えてる? 如月くん」
覚えてない。
大原を乗り越えてこちら側に回りこんできた女が言った。何だっけな、ええと……安西だ。相変わらず露出度の激しい服装をしている。化粧はあの頃より幾分か濃くなったようだ。
そんなふうに思いながらビールを口に運んで、ふっと思った。
……フケたよな。みんな。
それもそうか。あれから9年だ。まだ俺は10代だったし、ここにいる他の面々だって20代前半だったんだから。
それが今は、30越えてるやつの方が多いだろう。同じでいられるわけがない。わかっているのに、何となく軽いショックを覚える。
今現在俺の周囲にいるやつらが、年齢というものをまったく無視した年のとり方をしてると言うか年をとらないやつばかりだから、尚更そんなふうに思うんだろう。
「忙しいの?」
誰かに問われ、俺は割り箸を割りながら首を傾げた。
「どうかな。そうでもないと思う。忙しくなれれば良いんだけど」
それに。
当たり前だが、みんな黒髪でスーツにネクタイで、いかにも社会人といった風体だ。それに引換え、俺は金髪だわやや伸び気味だわシャツにジーンズだわ、どこからどう見ても、うさんくさい。どう考えてもまっとうな社会人の空気を発していないのは、俺だけだった。奇妙な疎外感のようなものを感じる。
「でも凄いじゃん。CD出してるんだろ?」
「出てるけど……でもまだ知らない人の方が多いし」
食べられそうなものを目で探すが、どれもこれも食い荒らされ冷え切って、お世辞にもうまそうとは言えない。が、今更追加するのも何だか悪いので、仕方なく冷え切ってチーズの固まったピザを皿に取る。そもそもこのところ食欲自体が大してないから……別に、いーんだが。
「如月って変わんねーなー」
「ホントホント。相変わらず愛想ないでやんの」
誰かがけたけたと笑った。悪かったな。
「ミュージシャンになって偉い変わってたら、嫌味のひとつでも言ってやるのにな」
「少しは偉そうになるもんじゃないの?」
言いたい放題言ってやがる。偉そうになれるほど売れてないっつーの。
「前さ、あれ出てたじゃん、『Music Scene』」
岡村の更に向こう側に座っている奴が言った。思わずむせそうになる。
「あ、ああ……」
『OVERNIGHT』が発売した頃に出た奴だろう。と言うか、今のところ『Music Scene』なんてでかい音楽番組にはそれきり出してもらえていない。11月に録音したシングルが2月に発売されるにあたって、また『Music Scene』に出してもらえれば良いんだけどな……。
「あれでさ、『あれー? 如月に似てねー?』とか思って見てたらさ、ずっとぶすーっとして一言も口きかないでさ、我関せずって顔してるから『絶対如月だ』って確信したね、俺は」
どっと笑いが起こった。あのなあ……。
返す言葉もなく、淡々とピザに噛み付く。まずい。食欲をいよいよ減衰させるまずさだ。食べきる気力をなくしてピザを皿に置くと、ポケットから煙草を取り出した。
「やっぱり有名な人とか、会った?」
ふっくらした感じの女の人が尋ねた。ええと……名前が浮かばない。
有名な人ねえ……。
少し、考えを巡らせる。
それこそStabilisationなんかはひどく有名なんだろう。CRYだってもちろんそうだ。けれどわざわざ言うことでもないような気がして、俺は煙草に火をつけながらぼそりと答えた。
「どうかな……そんなでもない」
「嫌な奴」
そんな言葉が聞こえたのは、その時だった。大して聞こえよがしに言った感じでもなさそうだが、ざわついている同期の合間を縫って奇妙に耳に付いた。ぴたりとざわめきが止まる。
「ちょっと!! 誰が嫌な奴なのよ!?」
いつの間にか俺の隣にはりついていた安西が怒鳴った。同期の視線が、俺から一番離れた場所でぽつんと飲んでいた男に集まる。名前が思い出せないが、俺が在職中も確か口をきいた覚えがない。ひどく大人しい男だったような気がする。
「な、何だよ……」
視線が集まったせいか、ややしどろもどろに言う。俺は構わずに無言のまま、煙草をくわえて煙を吐き出した。
「ホント、変わんねーよ。前からすかしてて嫌な奴だったよ。ちゃらちゃら音楽なんかやって、女にもてていい気になってんじゃねーかよ」
「……」
「何だよ。何か言えよ」
「やめろよ伊藤」
誰かが止める。そうか、伊藤とか言う名前だったかもしれない。
「……別に、そういう見方するやつがいても仕方がない。こういう商売なんだし」
今更だ。『ちゃらちゃら』でここまで音楽でやっていけると思われるのは非常に心外だが、現実を知らないのだから致し方ない。ここでとくとくとその厳しさを語ったところで、理解出来ないやつは理解出来ないだろう。労力の無駄遣いだ。
大体、誰かが俺に対しどういう感情を抱いたところで俺には興味がないし、本人の自由でもあるだろう。俺の与り知ったことではない。
そんなふうに思いながら淡々と最小限の感想を述べた俺に、伊藤は掴みかからんばかりの勢いでテーブルに両手をついて体を起こした。
「そういうところがすかしてて気に入らないつってんだよ」
取り立てて伊藤に気に入られたいわけではないので構わないというのが正直なところではあるが、このまま放っておくのはそれはそれであまりに不親切なのだろうか、と思って口を開きかけた俺を制すように、岡村が立ち上がった。
「まあまあまあまあ。そんな激しくも熱いワンシーンを見せつつ、宴もたけなわというところではございますがッ。明日はあなたも仕事、わたしも仕事、みんなも仕事、ということで、ここはひとつ、一旦お納めいただいて、さあ皆様お手を拝借!!」
そのあまりにライトな物言いに、一瞬その場にいた全ての人間が毒気を抜かれたようだった。立ち上がって両手を前に突き出した岡村につられる形で、みな手を前に出す。
「では、一本締めで締めましょーか。……よ〜うッ」
パンッ。
「はい、ありがとうございましたー。お帰りはあちら。お忘れ物のないようお願いしますねー」
一本締めなぞやってしまった手前、何となくそのまま続けにくいムードになり、伊藤も追い立てられるように店から出て行く。思わず俺は小さく吹き出していた。
煙草を灰皿に放り込んで立ち上がる。岡村と店の外に出ると、そこに同期がたまっていて、口々に挨拶を交わしながら三々五々帰っていった。
「如月くん、またね。絶対ね。麻由美のこと忘れないでね」
自信がない。
「んじゃな、如月、頑張れよ」
「応援してるからね」
みんなを見送って、なぜか俺と一緒にその場に留まっている岡村に視線を向ける。