第12話(5)
視界の隅、橋の下をいくつもテールランプがつながって通り過ぎて行って、光の川を作っていた。
また逃げられては適わないので、刺激しないようそっと歩き出しながら答える声が、掠れる。上原は俺を見つめていたが、その場を動こうとはしなかった。
「もう、逃げるなよ」
ようやく、上原の足跡だけを残した歩道橋を、そのそばまで渡る。
「どうして、逃げたの」
「ねえ」
俺の言葉には答えず、上原が悲しげな顔で俺を見上げた。
「紫乃ちゃんと、別れたんでしょ?」
付き合ってないけど。そもそも。
「……広瀬が、言ってた?」
「如月さんにはっきり振られたって、言ってた」
「……」
「如月さん、ちゃんと好きな人がいるって……言ってた」
宣言通り、それが上原だと言うことは広瀬は伝えなかったらしい。……俺の口から、伝えるべき気持ちだから。
「如月さん、瀬名さんのことがずっと、忘れられなかったんでしょ?」
「……」
「瀬名さんのことが今でも好きだから、だから、紫乃ちゃんと別れたんでしょ?」
「馬鹿」
思わずため息をつく。
どうしてそう、瀬名と繋げたがるんだよ。
「瀬名とは、終わってるんだよ。俺は」
「知ってるけど、でもッ……」
「俺の中で。……もう、ちゃんと、終わってる」
真っ直ぐ見つめる俺の視線に、上原が目を見開いて、どこか呆然としたような表情で見つめ返した。
「じゃあ、誰……?」
上原の呟きが、舞い落ちてくる雪に吸い込まれた。
「自分かもしれないって、考えてみたことはないの?」
「……え?」
「俺が好きなのは、自分かもしれないって……どうして、思ってくれないんだよ」
上原が、ゆっくりと目を見開いた。まるでスローモーションのように。
俺を見つめたまま、掠れた声を押し出す。
「何……?」
「広瀬じゃない。瀬名でもない」
「……」
「上原が、好きだ」
かっこいい言葉を見つけ出せる性分じゃない。いろいろな言葉で飾ることなんて、俺には出来ない。
だけど、わかって欲しい。
俺には、こんなふうにしか、気持ちを伝えることが出来ない。
真っ直ぐ上原を見たまま短く言った俺の言葉に、無言で俺を見つめていた上原が不意に、かくんと力が抜けた。……なぬ?
「お前、どろどろになるぞッ……」
「だ、だって……」
咄嗟に手を伸ばして、上原の腕を掴む。半ば俺の腕にしがみつくように持ち堪えた上原が、大きくない目をまん丸にして、俺を見上げた。
「だって、嘘だよ……そんなの、嘘……」
「何で嘘なんだよ」
「だって!!」
強情な。
どうして俺本人の言葉を信じない?
「そんなはずないもん!!」
言い張る上原の言葉を無視して、上原を腕の中に抱き締める。力が抜けたままらしい上原は、あっけなく俺の腕の中に包まれた。
速い鼓動は、走ったせいだろうか。
それとも……。
「……本当に」
「……」
「上原のことが、好きだよ。……信じて」
そのまま、上原はしばらくの間、無言だった。
俺も、無言のまま、上原を抱き締めていた。
降り続く雪と、歩道橋の下のテールランプ……腕の中の、華奢な、温もり。
「……きだったよ」
「え?」
不意に、上原が小さく言う。
くぐもって掠れた声に問い返すと、上原が繰り返した。
「ずっと、如月さんのことが、好きだったよ……」
「……」
「怖かったよ。言えなかった。嫌われちゃうんじゃないかと思ったら、言えなかったよ」
「何で、嫌われると思ったんだよ」
「だって、如月さんは、瀬名さんが好きなんだと思ってた……ッ」
抱き締めた肩が、震えている。押し殺した声は、そのまま胸の内に押し殺し続けていた想いそのもののようで、胸が痛んだ。
「紫乃ちゃんが好きなのかと思ってた。だけど、紫乃ちゃんじゃないんだって……本当に胸の奥でずっと抱えていたのは、瀬名さんへの気持ちだったんだなって……。だから、紫乃ちゃんと仲良くなったけど、駄目だったんだって……」
「……」
「如月さんが瀬名さんのことを好きなら、会わせてあげたいって……。だってあたしは、如月さんに幸せになって欲しいんだって思ったんだもの……。だけど、つらくて、そんなのどうしても嫌で、悲しくて、忘れなきゃって……」
……だから?
だから、避けてたのか?
忘れる為に?
「……どうして、瀬名なの?」
「みんな、そうやって言うもの。如月さんは、忘れられない人がいるんだって。如月さんの部屋に、前の彼女の写真が今でもあるんだって」
……遠野が引っ張り出したのであって、俺ではない。
「俺は、上原のことを、泣かせてきた……?」
俺の腕の中で、途切れ途切れに想いを懸命に伝えてくれる上原が、どうしようもないほど愛しい。
そう思うほどに、つらい思いをさせたのかと胸が締め付けられる。
「……」
「つらい思い、させたんだろうな」
「……」
「……ごめん。気がついてやれなくて」
抱かれたままで、上原が激しく顔を横に振る。そのまま見上げた顔は、また新しい涙で濡れていた。
「良く泣くな……」
「如月さんがあたしを泣かせる」
「……お前ね」
あんまり冗談になっていない。
雪の中を走り回って来た上原は、髪も、肩も、白い雪で染まっていた。多分、頭の雪は、俺の方が凄いんだろう。
「ねえ……」
「ん?」
「覚えてる?最初に会った時のこと」
「……うん」
瀬名と約束をしていた、クリスマス・イブ。
雪の降りしきる青山で、突然上原が、降って来た。
……そうだよな。
今、こうして思い返してみれば……全ての始まりは、あの時だったんだ。
「クリスマスで……あの日もこんなふうに雪が降ってて……あたしは、如月さんに出会ったんだよ」
「うん……そう言えば」
頷きかけて、ふと気がついた俺は、笑いながら続きを口にした。
「あの時も、歩道橋だったな」
俺の言葉に、上原も吹き出す。
そのまま、顔を見合わせて、笑った。
吐く息が白く、腕の中の上原の温もりが俺を温めている。
「あの時からあたし、如月さんだけ、見てたんだよ」
「あの時から……?」
「うん」
6年前……。
そんな、前から。
「泣かせて、ごめん」
忘れかけていた、誰かを愛しく想う気持ち。
こんなに大切で、愛しく思える。
思い出させてくれた上原を、俺はきっとずっと知らないで、傷つけて泣かせて来たんだろうか。
「……待たせて、ごめん」
「……」
「これからは、ずっと、そばにいるから」
「うん……」
「上原が、好きだよ」
「……うんッ……」
謝罪を込めて繰り返すと、上原がまた、涙声になった。
「……また泣く」
「うぅ……如月さんが泣かす」
「……」
額を軽く弾いてやると、上原が、笑顔になった。
いつか見たのと同じように……雪の中の、無償の、笑顔。
「風邪引くな。戻ろうか」
「うん」
腕を離して差し出した手を、上原のひんやりとした指が握った。
振り返って微笑む俺に、上原も微笑みを返す。その笑顔が心から幸せそうに見えて、それがまた愛しさを増す。
「……もう、落ちるなよ」
「……そしたらまた、受けとめてね」
歩道橋をゆっくりと降りながら言うと、上原も、小さく答えた。
手をつないだまま、雪でうっすらと白くなり始めた道を歩き始める。
振り返ると、俺たちの足跡が点々と続いていた。
「ホワイトロードだ」
言って、上原が俺を見上げる。白い息が、上原の口元からふわふわと舞った。
「ずっと、一緒に歩いて行こう」
「ホワイトロード?」
「そ。お前のホワイトロード」
「あたしたちの、だよ」
待たせた分。
泣かせてきた分。
……これからは、ずっと、そばにいるから。
――俺、お前にクリスマスプレゼントあるんだけどな。
――クリスマス? もうとっくに終わっちゃってるよ。
――じゃあ、いらないの?
――……いる。何?
――内緒……。いいじゃん……今日がクリスマスってことで。
――えー、遅すぎだよ……。じゃあ、あたしもひとつ、クリスマスプレゼント。
――え?
――平泉くんにもらったマフラー。2年前のあたしから、如月さんへのクリスマスプレゼント、だよ。
自分たちで描いていく真っ白い道の上を、2人で並んで、一緒に歩いていこう。
繋いだ手を、ずっと……離さずに。
誰より……。
一番近くで、その笑顔を、見ていたいから――。