第11話(3)
「あたしは、その背中を見て音楽を始めて、あたしのうたを好きだって言ってくれたから頑張りたくて……」
「……」
「出会った頃からずっと大好きで、そういう小さなひとつひとつが、嬉しくて、嬉しくて、どんどん大好きに、なってくのに……」
頭が真っ白になったまま無言で目を見開く俺に、上原は泣く寸前まで潤んだ眼差しを上げて……だけど、俺の方を見ようとはせずに続ける。掠れていく声が、胸に迫る。
……誰の、話を、してる……?
「だけど、自分から連絡くれるようなことは、ほとんどないもの。……誕生日は、忘れられてるし。仕事が大好きで、きっと頭の中は仕事のことばっかりで」
そこまで言ってから、上原ははあっと深く、息をついた。
それから、顔を俯かせて、俺の耳に届くか届かないかくらいの小さな声で、付け足した。
「……忘れられない人、いるって聞いたし」
「……」
「だから、うまくいかないと思う……」
「……誰」
尋ねるこちらも、声が掠れた。
上原の言葉のいくつもが俺の持つ記憶を刺激していて、そして上原の目付きや顔つきが、俺に、何かを、訴えているように見え、て……。
「教えてあげない。永遠にわかんないよ、きっと」
再び顔を上げた上原は、潤んだ瞳を綺麗にどこかに隠し、翳りのない笑顔で俺を見ていた。
「ねえ、それよりさッ」
言いながら立ち上がる。ジーンズの埃をはたいてリュックを持った。率先してスタジオの電気を消して出て行くと、どこかぼんやりと後からついていく俺を振り返る。
「また時間が空いてたら、教えてくれる?」
「……え? あ、うん……」
「やったー」
言いながら、軽い足取りで階段を下りて行く上原の背中を見送る。
その背中をゆっくりと追いながら、上原の、いくつもの、声が――……。
――如月さんってさ、口悪いけど、優しいよね
――あたし、助けてもらってばっかりだから、如月さん落ち込んでたら、今度はあたしが何かしてあげたらいいなって……思ったよ
――……あたしの歌、好きッ!?
――バレンタインだし……クリスマスプレゼントもらったから、お礼に
――誕生日を覚えてもくれてない人にね、あたしはプレゼントをちゃあんと用意してたわけですよ
「何だ何だ!! Blowin’の如月彗介ともあろう者が、何急に元気なくしちゃってんのよッ」
「え? いや……別に……」
――手……今だけ、つないだら、ダメかなあ
「いーんだ、あたし。うまくいかなくても。最初から、うまくいくわけなんかないって知ってたから」
「……」
「……だから、気にしないで」
トントン、と軽快な足取りで踊り場を曲がって姿を消しながら上原が言った。その言葉を複雑な思いで聞きながら、俺も階段を降りて行った。
……俺は。
今まで俺は、何か、とてつもなく大きな勘違いを、していたのかもしれない……。
◆ ◇ ◆
あの時の上原の言葉の意味を、俺は未だにはっきりとはわからずにいる。
上原が俺のことを好きでいてくれる可能性ってやつを、俺はこれまでこれっぽっちも考えたことがなかったし、いいとこ『お兄ちゃん』、恋愛対象としては池田がいいセンだろうと……そう、思っていたから。
だけど、もしかしてそれは全て、見当違いだったんだろうか。
あの時の上原の言葉は、俺の胸にそんな疑問を投げかけた。
あれは、もしかして、告白……だったんだろうか。
(まさか、だろ……?)
とは言え、上原の言葉にはいくつか心当たりがなくもないし、最後の『忘れられない人』がどうとかと言うのは事実無根だとは言え、木村がそう言う噂を耳にしたと言っている以上上原の耳に入らないとは言い切れないわけだから、俺が該当すると言えば言えなくもない、だろう。
そうは思う。思う、けれど。
今ひとつ、『そうだ』と言える自信もない。
……当然じゃないか。上原が俺のことを好きだと思い込めるほど、自分への自信が有り余っているわけじゃない。
特に、俺自身が上原に多少なりの好意があるんだ。だとするとそれは、あくまで俺自身の希望的観測に過ぎない可能性は大きくないか?
それに……。
(池田……)
俺から見たって、上原と池田は普通に似合っていると思う。
池田が上原のことを好きなのは、俺は本人からは聞いていないけれど、ほぼ間違いないだろう? それなのに上原が、池田を素通りして俺に好意を持つ理由がわからないじゃないか。
上原の言葉を記憶に蘇らせてみれば、「俺?」と思わなくもないけれど、たまたま俺に該当してしまっただけで、実は同じ条件の奴が上原の周囲に存在しないとも限らない。
考えれば考えるほど混乱するばかりで、けれどその反面、上原に「で、誰のことだったの?」と尋ねるのも……しかねたままだ。
上原は、あきれるほど何事もなく接して来ていた。
あの日の約束通り、あれから何度か上原の練習しているリハスタへと覗きに行っている。
Blowin'はこのところ、アルバムとシングルのレコーディングを立て続けに行っていてブレインのスタジオにいることは少なくないし、そうしてスタジオにいる間は何もずっと忙しいわけじゃない。
はっきりと、尋ねたいとは、思う。
思うのに。
……俺は、どうしたいんだろう。
(上原、今日もスタジオいんのかな……)
歌番組の収録を控えたテレビ局で、1階のロビーからエレベーターに乗り込んだ俺は、5階のボタンを押すと閉じる扉をぼーっと眺めながら短くあくびをした。
先月末にシングルが発売されたので、歌番組の収録がある。この後はまた、ブレインのレコスタに行かなきゃならない。アルバムのレコーディングは済んだんだけど、続いて次は、新しいシングルのレコーディングが始まっていたりする。
ま、これでまた春先までしばらくレコーディングもなくなるので、その間はのんびり曲作りにでも励めるだろう。
自動販売機で買った缶コーヒーを片手で弄びながら上昇するエレベーターのフロアランプを眺めていると、やがて軽い衝撃と共にエレベーターが止まった。5階であるのを確認して開いた扉から外に出ると、上原と、どこかで見たアイドルが並んでエレベーターホールのソファに座っていた。
「……はよ」
俺が控え室へ向かう為には、どうしてもそこの前を通る。歩きながら声をかけると、上原が俺を見上げた。
「如月さん。おはよー」
「おはよーございますー」
上原の隣でアイドルが言った。誰だったかな……歌番組で前にも顔を合わせたはずだ。高倉美悠、だっただろうか。そんな名前だったはずだ。栗色のふわふわの髪と睫毛バチバチの大きな目をしている。確か今結構人気だったような気がする。
「おはよ」
言って通り過ぎようとした俺は、ふと足を止めて上原を振り返った。
「上原、収録の後、事務所戻んの?」
「え? あ、うん……戻るよ」
「ふうん。したら俺、後で行くわ」
「あ、うん……わかった」
何だ何だ。背後からえらい、視線を感じるんだが。
妙に居心地悪い思いをしながら廊下を曲がり、べったりとBlowin'の名前を貼り付けてあるドアを開けた。
「へえー。そうなんだ」
控え室の中では、テーブルを挟んで遠野と北条がくっちゃべっている。
「うん。結構良いよ。上手いし。けどまあ……若いなって思ったりもする」
「……おっさんくさいよ」
「よけーなお世話。そりゃ30も間近に迫ればね」
手にした缶コーヒーをテーブルに置くと、すかさず遠野が手を伸ばした。その手をぴしゃりと叩く。
「何の話?」
「俺の分はないの?」
「何であると思えるんだよ?」
「亮の知ってるコたちが、今度ウチで出るかもしんないんだって」
テーブルに肘をついた両手に顎を乗っけて、北条が俺に向かって言う。
遠野に飲まれないうちにさっさと口をつけてしまおうと、缶を手元に引き寄せてプルリングを引いた。カチンという軽い音がして缶が開く。
「へえ。誰? 俺、知ってるバンド?」
「ヴォーカルは知ってるよ。GrandCrossってほら……啓一郎くんがやってる……」
「ああ……へえ。ウチ来るの? お前が紹介したの?」
「紹介って言うか……尚香が聴いてあげてって言うからバンドで作ってる音源、ギターケースに入れっ放しで。Ast置きっ放しにしといたら広田さんが聴いたらしくて」
偶然の産物か。大体、「聴いて」と言われたものをスタジオに置きっ放しと言うのはどうかと思うが。気持ちはわからなくもない。
「結構気に入ったんだ?」
「そうみたいよ。ライブ行って良かったら僕が面倒見るとか言ってたもん」
コーヒーはあきらめたらしく、煙草に火をつけながら遠野が言った。
「ふうん……」
それを聞いて、不意に嫌な予感が胸を掠めた。
今、広田さんはサウンドプロデューサーとしては完全にCRYにかかりっきりになっていて、多分他のアーティストは手懸けていない。
その代わり、俺が知ってる範囲ではプロデューサーとしてBlowin'、Opheria、大倉、VIRGIN BLUEなどを手懸けている。
事務所の運営なんかも広田さんが行なっているみたいだし、元々かなり多忙な人のはずだ。
これに、更にCRY に匹敵する手懸け方をするアーティストが出来るとなると、他が手薄になるんじゃないだろうか。
その場合、今広田さんが見ている中で、恐らく一番伸びていないであろうOpheriaがどうなってしまうんだろうと言うのが、嫌な予感の正体だった。
――そして、そんな俺の心配は、見事に当たってしまう。
◆ ◇ ◆
収録を終えて、事務所に戻る。
上原がリハスタで練習しているはずなので、覗いてみると案の定、こちらに背を向けてせこせこと練習しているのが見えた。
前からギターをやっている上原はそれなりに指先が堅くはなっているけれど、アコギとエレキでは弦が違うし、元々それほど激しくやっていたわけでもないから、練習を始めてしばらくして上原の指先は切れてぼろぼろだった。今は絆創膏とサポーターでフォローしながら練習している。休めと言っても断固として譲らない。
俺は、楽器に対するそういう真面目な姿勢は好きなのだが……。
(何とか、してやりたいけどな……)
どうにも、歌と違って、上原はあまりギターに向いていないらしい。
大体、「何の冗談だ?」と尋ねたくなるような小さな手をしているんだから、ギターにしろ鍵盤にしろ、サイズ的になかなかつらそうではある。……一応弾けるようにはなってるんだけどな。あくまでも、前に比べてって話で。
「ええ……ええ……そうなんですよね」
中に入ろうとして、俺はドアに伸ばした手をふと止めた。
話し声が、聞こえる。
別に事務所内に人間がいるのはもちろんおかしなことじゃないし、話し声が聞こえたって当たり前の話で気にするほどでもないんだけれど、なぜだか気になった俺は、振り返って辺りを見回してみた。
Bst……じゃないな。レコスタの方だ。コントロールルームの扉がきちんと閉まっていないらしく、そこから声が漏れているのだろう。声の出所がコントロールルームだって別に構わないわけで、俺は気にしないことにして再びドアに手をかけた。
「まあ、もう潰すしかないかな……」
……え?
(潰す?)
何か、不穏な感じがする。思わず、再びレコスタの方へ顔を向けた。
「……このままでは多分伸びないでしょうね。……ええ。……まあ、元々試験的ですからね」
不意に、体が軽くなる。
ドアが内側から開いて、手を掛けたままだった俺の体が引っ張られたらしい。
(上原)
多分、窓越しに俺の姿を見付けたんだろう。俺を見上げて何かを言おうとした上原に、俺は自分の唇に人差し指を立てて当て、静かに、と言うジェスチャーをした。
「?」
上原が目を瞬きながら、黙って頷く。
その時、だった。
「ええ、Opheriaには勉強させてもらいましたよ。やっぱり向いてないものには手を出すものではない。これを踏み台に……」
――!?
上原がはっと顔を上げる気配を感じながら、俺は走り出した。俺の顔つきは、多分かなり険しいものだったんじゃないだろうか。コントロールルームのドアを、やや荒っぽく開くと、ディレクターズチェアに腰かけて携帯電話で話していた広田さんは悠長にこちらに顔を向け、俺の姿と、多分その背中に上原を見つけて言葉を失った。
「面白そうな話じゃないですか」
押し殺した俺の低い声に、広田さんが目を伏せる。
電話の相手に短く「一度切ります」と告げて通話を終え、携帯をコンソールの上に置いた。
「……彗介くん。お疲れ。収録は?」
「終わりましたよ、先ほど」
「そう」
「……続きを聞かせていただきたいんですが」
言いながら中に入っていく。納得のいく回答を見つけるまでは逃がさない、という姿勢だった。
尤も、本気で逃げるつもりならいくらでも他に出入り口はあるんだが、俺は別に殺人鬼じゃない。広田さんだって、本気で走って逃げたりはしないだろう。
「聞いていたのか」
「聞こえたと言って欲しいですね。そういう話をするなら、ドアはきちんと閉めるべきだ」
「まったくだな」
くるん、とディレクターズチェアを回して、広田さんは俺の方に体ごと向けた。上原が俺の後ろに続いて中に入ってくる。不安そうに俺のジャケットの裾を引っ張り、俺を見上げた。
「如月さん……」
それには答えず、俺は広田さんから視線を逸らさずに見つめ続けた。広田さんがため息をつく。
「勘違いしてもらっては困るんだが……」
「潰す、と言いましたよね。Opheriaを試験的だったと。……踏み台にする、と」
「……」
広田さんは軽く眉を上げた。瞳に怜悧な光が宿る。遠野を責めたあの時と同じだけ、冷たい表情。……俺は言葉がたつほうじゃない。対する広田さんは百戦錬磨の営業マンだ。言論で勝てるわけがないのはわかりきっている。
けれど。
……上原を引きずり込んで、普通の生活を奪って、挙句それが踏み台だったなどと言い切るのは、許さない。
「売れないものに商品価値はないんだよ、彗介くん」
俺のジャケットの裾を掴んだままの上原が、びくりと肩を震わせた。上原を守るよう、広田さんには気がつかれないようにそっとその背中に手を当てる。