第1話(3)
(プレッシャーだよな……)
思わず大きくため息をつく。
このところ、このことについて考えれば胃が痛む一方だ。意外と繊細な自分に驚く。
……次のシングル曲は、とっかかりさえも、出来ていない。
もちろん、これまでの曲のストックはいくつもあるわけで、その中から引っ張り出してリアレンジしたって良いことは良いのだけれど、どうにもそういう感じではない。何だか納得がいかないのだ。シングルの流れとして、これだとピンとくるものがない。あれこれ考えすぎたところで仕方がないのはわかっているんだけれど。
「おはよー」
ややして、ようやく北条が姿を現わした。背中まで綺麗に伸びた真っ直ぐな黒髪を、後ろで無造作に束ねている。ややキツめの切れ長の目が、今は眠そうに瞬かれていた。かなりの美人と言える顔立ちをしているにも関わらず、男っぽいと言うかがさつと言うか……だからこそ男所帯のBlowin’で何の問題も違和感もなくやっていけるのだろう。
「おはよ」
「他は?」
「まだ」
「あ、そう」
短く言って肩に下げたギターケースを下ろすと、北条は、ベースとチューナーを取り出した。寝不足だろうか。目の下に薄く隈がある。
「あ、そうだ、彗介。おいしいラーメン屋見つけたよ。今度行かない」
「いいよ。今日の帰りに寄るか」
「いいね」
「北条、寝不足?」
「え?」
俺の問いに、北条が顔を上げる。焦ったような表情が浮かんでいた。
「やだ。わかる?」
「わかる。どうしたの」
「……ん、何でもないんだけど。別に」
それきり北条は黙った。黙々とチューニングを続ける。なので俺もそれ以上突っ込むのをやめた。
チューニングを終えて、指で4弦を弾いた北条が、不意に前触れもなく口を開いた。
「ねえ、彗介は何で彼女作らないの?」
「いきなり何だよ。大体彼女って作ろうと思って作れるもんじゃないんじゃないの」
「そりゃそうだけど。すぐにでも彼女になってくれる人が、いるじゃん。彗介にはさ」
「……蓮池?」
「うん。あとちなっちゃん」
「……」
蓮池麗名は、俺の隣の住人である。元々は俺の母親が静岡で経営している花屋でバイトをしていたのだが、4年前に突然「彗介くんの彼女になる」と何のアテもなく東京へやって来たのだ。
そしてまんまと俺の隣の部屋に転がり込んだ。どちらかと言えばお色気系で、俺だって男である以上そういうのが嫌いだとは言わないけれど……彼女と言うとちょっと、俺のタイプと違う。友人としてたまに食事に行きこそすれ、それ以上でも以下でもない。
軽そうな割には意外と一途にかれこれ4年も俺を想ってくれているのは知っているが、俺にはそれ以上どうしてあげようもなかった。女を武器に世間を渡っていくように見えるので北条の嫌いなタイプかと思いきや、なぜか北条は蓮池を気に入っているようだ。
「麗名、見た目より良いコだよ」
見た目よりって……。
思わず苦笑いをする。
「知ってるよ」
だからと言ってどうなるものでもない。俺にとって彼女は良い友人だ。
「蓮池はともかくとして、千夏は違うだろ」
千夏はアマチュアの時に良く対バンしていた『ナノハナ』というバンドのヴォーカリストだった。蓮池とは仲が良い。
俺に纏わりついていたのは確かだけれど、ほとんどノリとしか俺は認識していない。
北条はそれについては多くを言わず、ふうっとため息をついた。
「……何なんだよ、いきなり?」
「ちょっとさあ、いろいろ考えちゃって」
「は?」
「恋愛」
と言うことは、恋愛沙汰で何かがあったんだろうか。寝不足の原因、というやつかもしれない。
「何で?」
「……彗介ってさ、やっぱ瀬名ちゃんに未練残してるの?」
北条が恐ろしい質問を口にしたところで、ドラムの藤谷がドアを開けて入って来た。
腰まで届く長い髪を金髪にし、オールレザーのファッションはいかにも怖いハードロッカー……と言うよりはメタルかパンクに近いのだが、薄い二重のくりっとしたあどけない瞳がその雰囲気を全て裏切っている。その目を嫌って以前はサングラスを愛用していたのだが、最近は段々あきらめてきたらしい。服装も以前より少しずつカジュアルになりつつあるようだ。
「はよーざいますー」
俺より2つ年下の藤谷は、目だけに限らず内情も見た目に実にそぐってない奴で、律儀で礼儀正しく義理堅い。かれこれ5年以上一緒にやっているのに、年下であると言う理由から、断固として俺らに敬語を使い続けている。別にいーのに。
「はよ」
「おはよ」
藤谷が入ってきたことで気勢が削がれたらしく、北条は視線を落としてベースを抱え込んだ。何だかな。
「亮さんは?」
「まだ」
北条、何が言いたかったんだろう。
瀬名に未練を残しているかどうか、か。
思い返す笑顔に、胸が痛んだ。
互いが互いへの想いを失ったわけではなく別れたので、未練を残すなという方が無理な話だろう。なかなか瀬名への想いを吹っ切ることが出来ずにいたのは、確かである。
……本当に、好きだった。
本当に本当に、誰よりも、彼女のそばで彼女を見ていたいと思っていた。
けれどそれももう……ようやく、少しずつ、払拭されて来ている……と、俺自身は思い始めている。
北条たちが、俺がまだ瀬名を忘れられずにいるんじゃないかと思っているのはわかっているが、彼女を作らないのは別にそれが理由の全てではない。
むしろもっと単純に、恋愛を始めたいと思うような人に出会っていないからだと自分では思う。……瀬名に会いたくないと言えば、もちろん嘘にはなるが。
俺と別れた後、風の便りで彼女はロンドンへ行ったと聞いた。今はもう話を聞くこともないが、多分今もロンドンのどこかのライブハウスで彼女らしく頑張っているんだろう。お互いの夢を実現する為に俺たちは別れたのだから。
藤谷が中に入ってこようとしたその時、開け放したままのドアからバタバタと階段を駆け上ってくる足音がした。どうやら遠野が到着したらしい。
「っはよーッ」
時間を見る。10時半ジャスト。俺の読み通りだ。
スタジオに転がり込んできた遠野の髪は乱れている。長めの赤っぽい前髪の下、黒目がちの大きな瞳が、間に合ったと言わんばかりに勝ち誇っていた。……待て。集合時間は10時であって10時半ではない。
「良かったー」
「何が」
「間に合って」
遠野はすらりと背が高く、中性的ではあるが整った顔立ちに社交的な性格で、老若男女問わず人気がある。俺とは中学からの付き合いだ。
「間に合ってないんですけど」
「10時半に着けば上等」
「どうして俺の家から歩いて数分のとこに住んでて、到着時間にこんだけ差が出るんだよ」
「出る時間に差があるからでしょ」
反省しろよ。
「亮さん、時間にルーズなのは社会人として失格ですよ」
今さっき到着したばかりの分際で、藤谷がしたり顔で言う。この中でそのセリフを言う資格があるのは俺だけだと思うのだが、そのあたりどうだろう。
「ようやく揃ったみたいだね」
苦笑しながら遠野の後ろに姿を現わしたのは、マネージャーの裏仲さんだった。遠野と昔の知り合いだと言うことで、広田さんと俺たちを繋いだのは彼らしい。人当たりが良く柔和な印象だけれど、切れ者だという点で広田さんと似た空気がある。裏仲さんは俺らのマネージャーをする為にブレインに入ったが、その前は野村レコードと言うレコード会社にいた。
「じゃあ、じき始めるから、準備に入ってもらえる?」
「はい」
頷いて俺たちは、立ち上がった。
◆ ◇ ◆
「いらっしゃ……何だ如月さんか」
5日間でシングル2曲のレコーディングを終え、オフが入った。レコーディングそのものも、大したトラブルが発生することもなく、毎日大体9時頃には終了出来る感じで順調だった。
平日の昼間とあっては、真っ当な社会生活を送っている人間が相手してくれるわけがない。昼前に目覚めた俺が昼食でも取ろうと『EXIT』に足を向けると、出迎えてくれたのはそんな言葉だった。思わず呆れる。
「客にそういう態度?」
「如月さんはお客さんじゃないもの」
カウンターに座ると、上原が笑いながら水のグラスをテーブルに置いた。何も言う前から、自動的にアイスコーヒーを入れている。
「金払えば客だと思うんですけど」
「マスターに言われてるんです。如月さんが来たらアイスコーヒー飲み放題で良いよって」
「それじゃあ俺が気を使う」
「そう言われたらこう言えって言われました。『そんなガラじゃないだろ』」
「……」
読まれている。ここまで言われてしまっては、アイスコーヒーに関しては甘んじよう。
抜き出した煙草を指先で弄びながら、諦めてグラスを受け取ると、カウンターの中で暇そうに背後の棚に背中を預ける上原にちらっと視線を向ける。
「マスターは?」
「煙草買いに行ってますよ」
「ふうん。俺、メシ食いに来たんだけど、それもタダ?」
上原は苦笑して首を傾げた。
「それは払ってもらった方が良いのかなあ」
「今何か出来るの? マスター帰るの待った方が良いのかな……」
「出来るものもありますけどー」
「何」
「カレーとか。ミートソースとか」
まだあんまりこういう状況に陥っていないんだろうか。眉根を寄せて考える上原に、少し申し訳ない気分になる。
ろくすっぽ調理の手順を教えてくれることなく、ふらっといなくなるからな、マスターも……。最初の頃は俺も、対応のしようがなくて困る場面が多々あった。
俺が自分でカウンターの内側に入り込んで作った方が良いかもしれない。7年半もこの店で働いていれば、この店のメニューは一通り、マスターがいなくても対応が出来るようにはなっている。
が、さすがに上原を差し置いてそんな真似をするわけにはいかない。
「……じゃあカレー」
「はーい」
少し考えて、俺は自分が昔『言われてほっとしたメニュー』を思い返した。カレーはマスターが前日の夜に仕込んでいるものが鍋に入っていて、基本的にそれを温めてよそうだけだ。大した手間じゃない。
少しだけほっとしたように明るい返事をする上原に、こちらも安心した。弄んだまま火をつけない煙草で無意味にテーブルを軽く叩きながら、カウンターの内側で鍋を火にかけている上原の背中を眺める。それからふっと今日の日付を考えた。
「あれ? 今日平日じゃないの? 何でいるの?」
「今日は創立記念日で学校休みなんですよー」
「へえ。そうなんだ」
相変わらず俺の他に客の姿はない。漂ってきたカレーの香りに空腹を感じながら、俺はようやく煙草を咥えた。
「上原、音楽って何やってんの?」
「え? あたし?」
冷蔵庫からサラダを取り出してドレッシングをかけながら、上原が顔を上げる。なぜだか少し、バツが悪そうな顔をしてもぞもぞと答えた。
「別に大したことやってるわけじゃないんだけど……ソロでね、アコースティックギターとピアノで、時々ライブハウスで歌ってるだけ」
「へえ。自分で曲作るんだ」
「一応……」
弾き語り、というやつだ。