第7話(5)
それを聞いて、素性を告げるのをためらう。母親としては、娘の不倫相手の友人というのは、果たして許せるものなのだろうか。
だが、このまま黙っているわけにもいかない。これじゃあただの不審人物だ。ドアを閉められてしまうのがオチだろう。俺はあきらめて言った。
「美月さんの交際相手の……遠野の、友人です」
近藤の母親は目を見開いて、微かに強ばった表情のままドアを閉めた。ああやっぱり……とがっくり肩を落とす。が、カチャカチャという物音に続き、今度はドアが大きく開かれた。どうやらチェーンロックを外す為にドアを閉めたらしい。
「……お上がりになって下さい」
「あ、でも……」
躊躇していると、近藤の母親は疲れたように笑った。
「ご用がお有りなんでしょう。こんなところで立ち話では……人目につきますし」
それもそうだ。
彼女の言葉に従うことにして、招じ入れられるままにドアの内側に滑り込む。靴を脱いで部屋の中に入ると、6畳ほどのフローリングの部屋に小さなラブソファが置かれていた。部屋の奥には更にドアがある。多分寝室だろう。
遠野は、この部屋を幾度か訪れたりしたのだろうか。
「おかけ下さい」
「あ、すみません」
言われるままにソファに腰を下ろすと、近藤の母親は、自分は床に正座をして床にきっちり両手をつけると頭を下げた。
ええええ?
「ご苦労様です」
「ま、待って下さい、困ります」
勢いソファにひとりで座っていられず、思わず俺まで床に正座をしてしまった。
……一体なぜ、1度しか会ったことのないアイドルの母親と、その部屋で向かい合って正座などするハメになっているんだろう……。
「こちらこそ、遠野がご迷惑を……」
「今、あの子はいないんです」
見ればわかる。
「あの子は、青森に連れて帰ります」
どうやら近藤の出身は青森らしい。近藤の母親は遠い目をして続けた。
「あの子には、こういう仕事は向いてなかったんですよ……。元々、内気なくらい大人しい子でしたから」
「……」
返す言葉を持たず、正座したまま黙っていると、ふっと我に返ったように彼女が言った。
「それで、ご用件は……」
落ち着いているところを見ると、どうやら彼女は近藤が自殺未遂を図った挙げ句、病院から逃走したことを知らないらしい。
「あの、実は遠野の行方が今ちょっとわからなくて。もしかすると美月さんと一緒かもしれないと思って……」
俺の言葉に、近藤の母親は強張った顔をした。
「まさか、駆け落ち心中じゃ……」
滅多なことは言わないで欲しいんだが。
「それはないです。そんなことをするやつじゃない……」
それにあいつには守りたい大切な家族がいる、と言うのはさすがに憚られた。辛うじて飲みこむ。
「そうですか……」
「美月さんが行きそうなところとか、心当たりは何かありませんか」
俺の言葉に近藤の母親は力なく首を横に振った。
それもそうだよな。青森で暮らしてて、東京の娘の行動範囲や交際関係を知っているはずもない。
「アドレス帳とかそういうのは……」
これにも彼女は首を横に振った。打つ手がない。次に自分がどう行動すべきか考えあぐねていると、携帯がポケットで震えた。誰か、何かわかったのかもしれない。慌てて携帯を引っ張り出す。着信は事務所だった。広田さんだ。
「はい」
「如月くん」
「はい。何かわかりましたか」
「近藤が見つかった」
「え!! 本当ですか」
遠野は……遠野は一緒にいなかったんだろうか。
だが、広田さんが続けたセリフで、俺の期待は打ち砕かれた。
「北海道だ」
……。
「……北海道!?」
どうして近藤美月が北海道なんてところにいたのかはわからない。もしかすると、遠野なら何か心当たりがあるのかもしれないけれど。
ともかく、北海道にある某国定公園で意識不明の状態で倒れているのを公園の警備員が発見し通報、駆けつけた警察によって身元が判明し、近藤の家に連絡をもちろんしたそうだが、誰も出なかったのでナイトクルーズに連絡が入ったらしい。現在北海道の病院に収容されているとの話だが、意識は相変わらず戻っていないようだった。
北海道なら遠野と一緒にいたはずはなく、相変わらず遠野は行方不明のままで、とにかく手当たり次第探すしかないかと思い切って近藤宅を出、雨の街を車で心当たりを求めて移動中、尚香ちゃんから遠野が見つかったとの連絡が入った。
場所は渋谷区――尚香ちゃんの実家のそばだった。場所を聞いて、以前遠野が話していたことがある、とすぐに気が付く。
そこは、俺が知る限り……遠野と尚香ちゃんにとっての思い出の場所だ。その場所で遠野は、何を思っていたのだろうか。
たまたま近くを走っていたので、俺は急遽そちらに車を回した。向かいながら北条に連絡を取り、一旦帰ってもらうことにする。
遠野が見つかったことに安心しながら、俺は遠野と近藤に思いを馳せていた。
……遠野が、近藤との恋愛沙汰を仕事に激しく影響させたことは腹立たしく思う気持ちはある。
けれど……。
その反面、それが遠野なんだとわかってもいた。
家庭を引き摺りながらもあきらめきれないほど惚れた女が、自殺を図り、尚且つ行方不明になったというのに平静を保って仕事に打ち込めるなど、遠野じゃない。そういう男だと知りながらこれまで歩いて来たし、これからも歩いて行くことを決めているのだから、もうあきらめるしかないのだろう。
俺がすべきことは、遠野を怒り責めることじゃない。安心させ、いつもの遠野を取り戻させることだった。――いつか、俺がプレッシャーに負けそうになっていた時に、遠野がそうしてくれたように。
近くまで来て、車を停める。一見して廃墟とわかるビル。2人の思い出の場所であるはずのそこは、フェンスが周囲に張り巡らされ、更に鉄条網で覆われて決して中には入れないようになっていた。そのフェンスの前に、遠野と尚香ちゃんが並んで立っていた。
「遠野」
車を降りる。雨に濡れるのも構わずに俺は走り寄った。
「彗介……。また、心配かけたみたいで……ごめん」
遠野は頭から足の先までずぶ濡れだった。尚香ちゃんが見つけるまで、傘もなくそこに佇んでいたのだろうか。武道館を去って行ったその後から……今まで。
「……風邪引く」
尚香ちゃんが無言で俺の方に傘をさしかける。いくらなんでも3人は入れまい。俺はそれを断って車の方へ促した。
「とりあえず車、乗れ」
「でも、俺全身びしょ濡れだし」
「いいから!! ……殴るぞ」
「ふわ〜い……」
情けない声を出し、遠野は俺に従った。
シルビアは一応4人乗りということにはなっているが、仕様としては大嘘でどう見ても2人乗りである。後ろのシートなど狭すぎて乗れたものではない。
とは言え、『4人乗り』を謳っている以上座席はあるので、ほとんど荷物置きと化している後ろのシートに急いで空間を作り遠野を放り込んだ。可哀想なので尚香ちゃんは助手席に乗せてあげることにする。
情けない顔をして後部シートに潜り込んだ遠野に、仕事終わりに使用すべく持って来たタオルの中から未使用のものを選び取って、叩き付ける。遠野が黙々とあちこち拭いている間に、俺は車のヒーターを強めた。
「お前、自分の車は?」
「渋谷の地下駐車場」
「取りに行くか?」
「……うん。置きっ放しってわけにいかないし」
「わかった」
車を発進させながら、俺は遠野が恐らく一番気にかかっていて、そして多分今はまだ知らないだろうことを伝えるべく口を開いた。尚香ちゃんがいる場所で、と言う気もしたが、尚香ちゃんは既に覚悟を決めている。いろんな意味で。却ってこそこそしない方が良いだろう。
「近藤は、無事だよ」
「……」
バックミラー越しに遠野が俺を見た。尚香ちゃんは何も言わずにじっと助手席に座ったまま、外の風景に目をやっていた。
「彗介……どうして、それ……」
尚香ちゃんはことの経緯まではまだ話していないらしかった。
「広田さんから連絡が来た」
「……広田さんから」
「ナイトクルーズが、近藤を探してるって。……探してたんだろ、昨夜から」
「……」
信号待ちで車を止め、バックミラーに映る遠野に視線を向けた。
「聞いたよ」
「……」
「自殺未遂で、入院してた先の病院から行方不明になってたって」
「……」
「……お前が悪いわけじゃない」
信号が青に変わる。相変わらず雨はパラパラと激しい音を立ててフロントグラスを叩いていた。ギアを切り替え、ワイパーの動きを視界の隅に収めながら言葉を続ける。
「遠野が悪いわけじゃないんだ」
「けどッ……」
「何で、ひとりで抱え込んでんだよ」
「……」
「……言えよ。俺に」
「……けど」
「あれだけ仕事に影響させてりゃ、遠野が抱え込んでる問題はもう立派にBlowin’の問題だ」
「……」
遠野が車を駐車したと思われる地下駐車場が見えてきた。そのすぐそばまで車を走らせ、適当な場所で駐車すると、俺は後部シートを振り返った。
「何の為に他のメンバーがいるんだよ」
「……ごめん」
「お前のごめんはもう聞き飽きた。最近安売りしすぎだ。何か違う言葉ないのか」
「……」
思わず黙った遠野に、尚香ちゃんが俺の隣で小さく吹き出した。
「……尚香」
「やっぱ、如月くんの方が上手ね。明日から、ますます頭が上がらないわね」
微笑み振り返る尚香ちゃんに、ようやく……数日振りに、遠野の顔に笑顔が浮かんだ。
「精進します。……ありがとう」
◆ ◇ ◆
一連の騒ぎがようやく解決しそうな方向へ向き、精神的に安定した遠野は翌日のリハは無事こなして、Blowin'は何とか日本武道館公演の本番を迎えることが出来た。
日本武道館の後、次の大阪公演まで3日空いている。遠野は、尚香ちゃん了承の元で武道館を終えたその翌日、決着をつける為に、北海道へ行き近藤と会ってきたらしい。
ツアーの合間に遠野はぽつりぽつりと近藤とのことを俺に話してくれた。病室には彼女の母親がついていて、遠野に丁寧に頭を下げたという。さすがに病室では正座はしていなかったようだが。
近藤は母親がそばについていたせいか、ひどく安定した様子で、退院出来次第ナイトクルーズをやめて実家の家業である果樹園を手伝うことにしたのだと微笑んだ。
遠野自身まだ近藤に気持ちを残していないとは言わないが、それでももう終わったんだと言うケジメがこれでついたと言う。
なぜ近藤が北海道に行ったのか尋ねてみると、やはり遠野は心当たりがあったようでこう語った。
「8月にPV撮影で北海道に行った時、俺、帰り別行動とったじゃん。あの日、美月と待ち合わせてたんだ。俺が帰る日を1日ずらして、美月が北海道に来て……人の少ないところを2人でドライブして。……美月が見つかった国定公園も行った。2人で誰の目も気にせずに手をつないで外を歩いたのなんて初めてだったからさ……凄く嬉しそうで」
いろいろな意味で制限された恋愛の中、近藤は近藤できっと、苦しんでいたんだろう。
もちろん、遠野も……知っていた、尚香ちゃんも。
「あの時だけ……俺と美月は、普通の恋人同士でいられたんだ……」
近藤は、病院を抜け出したその体で、遠野と過ごした日々を思っていたのかもしれない……。