第6話(3)
「優等生みたいじゃん」
「優等生だよ。……本当に近いんだ。凄いね、あたし。探偵になれるかな」
「もう転職するのか?」
上原は俺の言葉に白い歯を見せて微笑んだ。その笑顔に、少しだけ……別に少しだけだけれど、心のどこかがほっとする。遠野を案じて、Blowin'の今後を思って張っていた気が、安堵に緩んだ気がした。
「お前、もう仕事終わったの?」
片手で前髪をかき上げながら尋ねると、上原は背中の後ろで腕を組んで意味深な笑顔を見せた。
「……あたし、『お前』って言葉、言われたらもっとむかつく言葉だと思ってた」
「は?」
「結構如月さんの『お前』って言い方、好きだったりする」
「はぁ? 何言ってんのお前……」
こんな時間に呼び出されて、そんな意味深なことを言われると……深い意味にとらえてしまいそうな自分が怖い。上原は構わずに、先ほどの俺の問いに答えた。
「仕事、終わったよ。今日はね、結構早く終わってて……如月さんが心配になったの」
「え?」
「如月さん……落ち込んでるんじゃないかなあって、思った」
街灯の光が反射して、上原の瞳がきらきらと光る。俺は言葉に詰まった。
「あたし、助けてもらってばっかりだから、如月さん落ち込んでたら、今度はあたしが何かしてあげたらいいなって……思ったよ」
その言葉に、思わず俺は上原の頭をくしゃりとなぜた。嬉しかった。そうやって気遣ってくれる……その気持ちが。
「……さんきゅ」
「まだ何もしてないんだけど」
「そうやって心配して来てくれただけで十分だよ。……あんまり遅くなると家族が心配するんじゃないか? 送るよ」
「え。何か送ってもらいに来たみたいじゃない、あたし」
「いいんじゃないか、それでも」
それでも俺は、その気持ちと笑顔に、十分……。
「そういえば上原って今いくつになったの?」
さっさと元来た道を歩き出す俺の背中に、上原が慌ててついてくる。
「19歳」
「ああ、もうなったんだ。誕生日っていつだったの?」
「あたし早いよ。5月なの」
「ふうん」
「如月さんは?」
「俺9月」
「え」
角を曲がりながら答えると、弾むように歩いていた上原の足が止まった。
「こないだじゃない」
「そうだよ」
「やだな、言ってよ。何かしてあげたのに」
「別にいいよ」
苦笑しながら上原を促す。ふくれっつらをした上原は再び歩き出しながら、空を仰いだ。新宿なんかでも、裏道に入ってしまえば少しは星空が見える。
「もうすぐクリスマスかあ」
「まだだよ。気が早いな」
「だって、街は来月にはクリスマスカラーになるよ。あたしの住んでる渋谷の街は特に気が早いから。道玄坂も文化村もがライトアップされてね……」
「ああ……」
そうか……女の子だし、まだ19歳だもんな。彼氏と過ごすクリスマスとかそういうの、憧れる年頃なんだろうか。
「如月さん、いろんな女の子とクリスマスしたでしょ」
「俺ぇ?」
クリスマスねえ……。
こうして思い返してみると、ろくにロマンティックなクリスマスってのをやったことがないんじゃないだろうか。東京に出てきてからこっち、クリスマスの日はバイトばかりしていた気がする。
あの日――上原が歩道橋から落ちてきた、あの日以外は。
……そうか。上原と『EXIT』で再会してから、いつの間にかほぼ1年経つのか。
「別にないなあ」
「そう? 今年はどんなクリスマスになるのかなあ」
「……」
上原の頭を軽く小突くと、あいて、と上原が頭を押さえた。
「こんな仕事してちゃ、彼氏と2人でロマンティックなクリスマスなんて到底無理だぜ」
「え、何で」
「ミュージシャンは年末は大忙しなの」
「……え〜……そっかあ」
いかにも残念そうに上原が溜め息をついた。それから再び頭上を振り仰ぐ。
「あたしねえ、クリスマスってあんまし良い思い出、ないんだぁ」
「そうなの?」
「うん。……ウチね、両親がちょっと変わってるでしょ? 愛されなかったとは思わなかったけど……他の子供たちがしてもらったようなことしてもらえなくて。クリスマス、いつもひとりだった」
「……」
「親からプレゼントなんてもらったこと、なかったの。いつもひとりで、お父さんとお母さんが帰って来るの、待ってたなあ……。だから、羨ましくてね。冬休みに友達と遊ぶと、クリスマスにこれもらったあれもらったって話してるの。一度で良いから、オモチャをもらってみたかったなあ……」
そうなんだ……。
少しだけ寂しそうな横顔に、胸が突かれた。
ウチは父親が子煩悩極めりって感じなので、「やめてくれよ」というくらいそういうイベントを大事にされたんだよな。中学生くらいまでは、クリスマスは家族と過ごすんだあなどと言われ、家に拉致されていた。
言葉もない俺の隣で、上原はリズムをとって俺より数歩先へ行くと、くるりと笑顔で振り返った。
「でもね」
「うん」
「小学校6年生の時かなあ。誰もいないクリスマスの日、ひとりでお家でお父さんとお母さんが帰って来るのを待ってて。友達のお家は家族でクリスマスして、プレゼントもらって……でもあたしは、真っ暗なお家でひとりで膝抱えてて」
「うん」
「そしたらね、雪が、降ってきたの。いくつもいくつも、細かな雪が降ってきて、あたし、それ見て思ったんだ。神様が代わりにプレゼントをくれたんだって……」
嬉しかったなあ……と上原は俺に背を向けて、手を後ろに組んだまま空を仰いだ。
上原が12歳の頃と言えば、俺は21歳だ。その日も俺は赤坂でバイトをしていた覚えがある。確かにあの日、東京はホワイトクリスマスになった。
「それまでクリスマスなんか大嫌いだったけど、今は大好きだなあ」
「ふうん? どうして?」
俺の住むマンションが見えてきた。上原が少し考え込むようにして、今度は顔だけで振り返る。
「……幸せな奇跡が一度だけあったからかな」
「幸せな奇跡?」
「教えてあげない。もったいないから」
何だそりゃ。
「だから、いつか必ず来る幸せなクリスマスを信じられるから」
「ふうん……あ、俺ん家、そこ」
指差すと、上原は足を止めて小さくげぇ、と呟いた。……何だよ? げぇって。
「何か立派ー」
「……別に俺の持ち物じゃないんだけど」
「知ってますー。……如月さん、最近引っ越したんでしょ?」
キーを使ってマンションの出入り口を操作し、ドアを開ける。10月も半ば近くなれば夜の風は冷たくなっているが、マンションの中は適度に暖かかった。
「何で知ってんの?」
面倒なので、エレベーターを待たずにその脇にある地下駐車場への階段に足を向ける。俺の後をちょこちょことくっついてきた上原に顔だけ向けて尋ねた。
「マスターに聞いた」
「ああ。マスター、元気?」
「ケイちゃんが最近顔を見せてくれないんだよー、やっぱ売れると忙しいのかねえ……ってボヤいてました」
「……あ、そう」
階段を降りながら、上原は名残り惜しそうにロビーを振り返った。
「えー、でも凄いなあ……如月さんって何気に稼いでるんだね、ちゃんと」
「あのな……何気にってのは何だ? 何気にってのは」
「何か貧乏性が板についてそうだから」
余計なお世話だ。
「ま、上原よりは稼いでるな」
「言ったなー」
ぽかりと俺の頭を上から殴っといて、上原が偉そうに腕を組む。
「いつかBlowin’を追い抜かしてやる」
「楽しみに待ってるよ」
地下駐車場に足を踏み入れたところで、上原がぐいっと俺のジャケットの裾を引っ張った。勢い足が止まる。
「ねえ、やっぱし如月さんの部屋、見てみたいなあー」
「はあ!?」
おねだりするように上目遣いで小首を傾げる。文句なしに可愛いのは確かだけど。いや、確かだからこそ。
「駄目だってば」
部屋につれて帰るのは、ちょっと……。
上原は尚も食い下がるように俺のジャケットをつかんだまま、小さく飛び跳ねた。
「だってこんなマンションの部屋、見たことないんだもん。見たい。見るだけ。見たらすぐ帰るから」
「あのなあ。見てどうするんだよ」
「後学の為に」
「……どこで生かすの?」
「まあまあ」
意地で、隅に停まっている黒のシルビアに足を向けようとすると、全体重をかけて上原が引っ張った。
「おい〜……」
「お願い。お願いします。すぐ帰るから」
「……」
「ね」
「……」
「ね」
……負けた。
「茶の一杯も出さないぞ」
「ええー。けち」
「……見てすぐ帰るんだろ」
「うん」
「大体お前、俺を励ましに来たんじゃないのか?」
「まあまあ」
仕方なく、階段のすぐ隣にあるエレベーターのボタンを押した。元々大して物があるわけじゃないから、散らかってるわけではないし、見せられない部屋というわけじゃないのだが。
ちらりと腕時計に目を走らせる。11時になろうとしていた。それを見て、思わず盛大なため息を落とす。
微かな機械音がして、エレベーターが降りて来た。乗り込んでボタンを押すと、隣であどけない顔をしている上原を見下ろす。……まったくなぁ。そんな無邪気な顔、してるなよな……。
「お前、あちこちでやんなよ、こんなこと」
「え?」
「セクハラどころじゃ済まなくなるぞ」
「……如月さんがあたしにセクハラするの?」
「……何の話をしてるの? 君は」
エレベーターが8階に到着したので、廊下に出る。すたすたと廊下の奥へ向けて歩き出しながらジャケットの中の鍵を引っ張り出した。……正直言って、困惑していると言うか動揺していると言うか。
どうしてこんな時間に上原を自分の部屋に連れ込む羽目になってるんだろう……。
心の中でそんなふうに思い悩みながら、ドアの鍵を開ける。上原は物珍しそうに辺りをきょろきょろとしていた。一足先に中に入り、置いてあるスリッパに足を突っ込みながら振り返る。
「スリッパ使う?」
「あ、はい」
「……何いきなり敬語になってんの。気持ち悪い」
「……気持ち悪いってことないじゃないの」
上原の為にスリッパを出してやると、俺は廊下の電気をつけた。これまでは畳のボロアパートなので、スリッパを履くなどと言う高尚な趣味はなかったのだが、フローリングになったので何となく習慣づいている。
「うわ。何か綺麗」
「そうか?」
とことこと俺の後をついてきた上原は、リビングを見回して目を丸くした。ライトブラウンのフローリングで、ダークブラウンがところどころに使われている程度なので、部屋の雰囲気は比較的明るく見える。