第4話(3)
鮮度の高さはかなりのものだ。何せダンボールのひとつも開けておらず、家具のひとつも買っていない。
「どこにしたんだい」
「また新宿。5丁目だから、前よりここに近くなりましたよ」
「5丁目って、亮くんもその辺じゃなかったっけ?」
「ええ。かなり近所になりました。でもあいつも引っ越すって話出てるみたいですよ」
「へえ? そうなの?」
「7丁目の方に」
「……何で交替してるんだい?」
「……そういうつもりじゃないんですけど」
仕事部屋を借りようかなーなどとぼやいていた遠野は結局4月頃に新宿の西側の方に部屋を借り、その勢いか何なのか、本来の居住空間の方も引越しを考えたらしい。
遠野が仕事部屋に行ったきりになってしまうと、妻子が心配なのかもしれない。何せ、親子3人で暮らすマンションは、マンションと言うにはやはりちょっとお粗末であったので。
まだ正式に決定はしていないみたいだけれど、どうも購入することまで考えているようだ。こっちは家具ひとつ購入することをためらっていると言うのに、何と言う違いなんだろうか。
『EXIT』を出て、新宿にある大型電器店と大型家具屋を回った俺は、結局洗濯機と冷蔵庫、それと、バスマットや何かの細かな物だけ購入してその日は家に帰った。もう日はすっかり落ちている。
前のアパートから持ってきた小型テレビをつけ、とりあえず冷蔵庫からビールを1本取り出すと、何もない床に座り込んで煙草に火をつける。灰皿を出していないことに気がつき、手近にあったダンボールを漁っていると、携帯電話が放り出した床の上で鳴っていた。仕方なく電話に手を伸ばし、通話ボタンを押しながらダンボールを漁る。
「はい」
煙草を咥えたままなので、多少変な発音になるがいいだろう。灰皿を見つけ出し、咥えたままの煙草をようやく口から外して灰皿に置く。
「何か今、食べてた?」
突然女の声で話し出されて、一瞬誰だろうと思った。
「……千夏?」
「ピンポーン!! さあっすがあー。やっぱ愛? 愛? ねえ、愛?」
「違うよ」
灰皿においた煙草に再び手を伸ばす。床に座り直して煙草を吸いながら、テレビのボリュームを絞った。
「ねえ、引っ越したんだって!?」
情報早すぎだろう? いくらなんでも。
「何で知ってんの」
「愛」
「……」
誰かこいつを殺してくれ。
「もしもーし」
突然男の声に相手が変わった。何だ。早く言えよ。
「何で一緒にいるの」
「しかも今どこにいると思う?」
おちょくってるような口調で遠野が言う。嫌な予感がした。何だか知りたくない現実がそこにあるような気がする。
「……どこ」
半ば諦めにも似た気持ちで尋ねると、ピンポンピンポンピンポンとチャイムが連打で鳴り響いた。……出たよ……。
このマンションは、マンションの出入り口がオートロックだ。部屋番号を入力してチャイムを鳴らし、住人に開けてもらうか、暗証番号または鍵で開けるかしないと建物の中にまず入れない。リビングのドアのすぐ脇にあるカメラ画像には、覗き込むように遠野のドアップとその後ろに小さく千夏の姿が写っていて、俺は思わず頭痛を起こしそうになった。
「あのなあ」
「早くあけてよ、ケイちゃーん」
携帯を放り出してインターフォンの通話をオンにする。
「事前に連絡くらいしろよ」
「したじゃん」
直前過ぎないか!?
反論する気をなくし、マンションのロックを解除すると、インターフォンをオフにしてテレビを消した。灰皿の上で短くなっている煙草の火を消して立ち上がったところで、部屋のチャイムが鳴った。面倒なので、インターフォンは無視して直接ドアを開ける。
「あのなあ。何しに来たの」
「激励」
両手に持ったビニル袋を示しながら、遠野が言う。激励の意味がわからんが。
「いやぁ〜ん。ここが千夏と彗介の愛の新居になるのねえ〜」
「馬鹿言ってんじゃないわよ」
俺が反論する前に、千夏が横合いからどつかれた。遠野の後ろ、千夏の他にまだ誰かいるらしい。
「いったーいッ」
「蓮池……」
「……よッ」
ちょっと照れ臭そうな顔で蓮池がそこに立っていた。
「うおー、いーじゃーん」
ずかずかと俺を押しのけて遠野が勝手に上がりこむ。その後ろをバタバタと千夏がついて行った。
「……ま、あがれば」
「いいの?」
「いいのも何も、あがる気で来てるんだろーが」
「そりゃそーだ」
蓮池が最後に中に入ると、俺はドアを閉めて3人の後を追った。遠野がなぜかリビングの入り口でしゃがみこんで腹を抱えている。何をしてるのかと思えば、笑いこけているのだった。
「すっげぇ。恐ろしいくらい何もない」
うるさい。
黙って通過しがてら、その背中に蹴りをくらわす。うおっと言って遠野が転がったが、知ったことではない。
「何しに来たんだよ」
「引っ越し祝い」
言って遠野は、床に置いたビニル袋を漁り始めた。
「とりあえずさあ、どうせお前、晩飯まだでしょ? でもって、そこのコンビニでノリ弁とマカロニサラダと缶ビール買って食うつもりだったでしょ」
なぜそんなに具体的に決めつける?
「なので、そんな寂しい彗介くんと鍋でもしようと思ってきたわけだよ」
このくそ暑い季節に、何を好き好んで鍋するんだ!?
「でねー、どうせ調理器具も何もないだろうと思ってねー、全部持ってきたの。ねー」
言って千夏が、手に持った紙袋から新聞紙にくるんだ取り皿だのさいばしだのおたまだのを取り出して、俺に見せる。ちなみに鍋は遠野が持っていた方の紙袋に入っているらしい。
「で、簡易式コンロは彗介が持ってるから……ああ、これこれ」
勝手にダンボール開けるなよ? 遠慮のないやつだな、まったく……。
「わー、綺麗なキッチンー。彗介くん、無駄じゃん?」
こっちも勝手にキッチンに入り込んで余計なことを言っている。
「あのなあ、蓮池」
「無駄じゃないよ、千夏が使うもん」
「使うなよ、俺ん家」
「え? あたしん家にもなるんでしょ」
「なるかよ」
ああ……ゆっくり過ごすはずの休日が、何だってこんな羽目になってるんだろう……。
「あ、すごーい。これ、システムキッチンって言うんじゃないの?」
「取り口、3つついてんだけど、彗介相手じゃ無駄じゃないの?」
「あ、馬鹿。だし作るんだよ、だし」
「何でよー。鍋の鍋に作らなきゃ意味ないじゃんー」
「後で足りなくなるだろー、だって」
誰かこいつらを黙らせろ。
キッチンでがたがた言ってる遠野たちを好きにさせて、諦めた俺はため息混じりに煙草に火をつけた。
「あー、もう、千夏、あっち行ってろ」
実は意外と言うかハマリと言うか、遠野は結構料理が得意だったりする。蓮池も、料理がうまい。千夏は……こっちもハマリつーかまんまっつーか、料理は到底駄目なタイプだ。案の定遠野と蓮池にキッチンを追い出された千夏は、ふてくされながら俺のそばに腰を下ろした。
「……ねぇねぇ」
「あ?」
ふわふわと上がる煙草の煙に目をやっていると、千夏が俺の服の裾をひっぱる。
「彗介、好きな人出来たってホント?」
「……」
……は!?
あまりに俺自身思いがけないことを言われて、数瞬反応が遅れる。
「……誰が?」
「だから彗介が」
誰のことだろう。
「どこでそんなネタ仕込んできたの?」
「どこでもいーじゃん」
って言ったって、遠野しかいないだろう。
俺は黙って立ち上がると、勝手に片手鍋を発掘してだしを煮出している遠野の背中に、足を上げて蹴りを入れた。
「ぐえ。……ケイちゃん。俺、心当たりないんですけど」
「ないのか?」
「ないでしょ」
「……どこでそんなネタを捏造してきたんだ?」
「……どんなネタ?」
「亮くん、こんぶ、ぬるぬるになっちゃうよ」
「わ」
煮えたぎった鍋に遠野があたふたしたので、とりあえず追及をあきらめて俺は千夏の方へ戻った。
「……彗介って、手より足が出るタイプだよね」
千夏がぼそりとそんなことを言う。俺はそれについてはコメントせずに続けた。
「どっちにしてもそんな話はガセだ」
「そうなのー? だって麗名も言ってたよー」
「はあ? 何て?」
「新宿で車の助手席に女の子乗っけてたって」
あの日のことだ。助手席には確かに上原を乗せてたが。
「俺は車に乗せた女の子に惚れなきゃいけないのか?」
「だって珍しいじゃん」
「お前だって蓮池だって乗っただろ」
「そりゃそうだけどさー」
「お待たせー」
遠野が土鍋を運んでくる。俺のそばに立ち止まり、深い溜め息をついた。
「ケイちゃん……せめて、テーブル出すとかコンロ用意するとかしてくれても良いような気がするのは俺だけなの? ねえ。俺だけ?」
「ああ、悪い」
そういや忘れてたな。
立ち上がって、寝室になる予定の部屋に縛られたまま放り込まれている、以前から使っている折り畳み式のローテーブルを持ってくる。脚を伸ばし、千夏が持ってきた布巾でテーブルの上を拭き、卓上コンロを設置した。遠野が鍋を置いたのを見届けて火をつける。
「サラダくらい食べるでしょ?」
遠野に続いて蓮池がサラダを盛った人数分の小鉢を運んできた。
「ドレッシング、わたしのオリジナルだよ。まじでうまいよ」
「ドレッシングなんて自分で作れるもんなの?」
「もんなの」
取り皿や箸、サラダがそれぞれに行き渡ると、千夏がビールを取り出して回した。各々プルリングを引き、缶のまま乾杯をする。
「引越しおめでとー」
……引越しおめでとうって何だろう。
「あと今日は麗名ちゃんの門出も祝して」
門出?
ビールを一口飲んで言った遠野の言葉に俺が目を瞬いていると、蓮池が苦笑いを浮かべてビールの缶をテーブルに置いた。
「わたしね……結婚、することに、決めました」
「え?」
……まじで?
「おめでとー」
思わず唖然と蓮池を見つめる。蓮池は困ったような表情で俺を見た。それからふっと視線を逸らす。
「……この前、言ってた人?」
蓮池は、俺の問いに静かに首を振った。
「違う人。昔……5年くらい付き合ってた人がいて。その人が時々連絡くれてたんだけど……。結婚しないかって言ってくれたから。昨日……することに決めたの」
「……そう」
なら、良かった。
さすがに、付き合ったこともない人と結婚するとなると、やけくそなんじゃないかと心配になる。
けれど、以前長く交際していた相手ならお互いのことを良く知っているのだろうし、俺なんかより遥かにふさわしい相手なのは間違いないだろう。そう思うと、心の中でほっとした。
反面、どこかで寂しくもあった。以前遠野が結婚した時も、複雑な気持ちになったのを覚えているが……何だろう。身近な人間が、欠けていくような感覚。
実際は欠けるわけではないのだろうけれど、これまでとは少しずつ何かが変わっていくと言うことだ。そういう、一抹の……季節の変わり目のような寂しさ。
「おめでとう」
「……ありがとう」