第3話(3)
「彗介くん、どおしてあたしと付き合ってくれないの?」
「何言ってるんだよ」
「……そのうちさあ、付き合ってくれるかなーってちょっと、ちょーーっとだけど、思ってた」
嫌だな、酔っ払いだよこれは……。何でこんな時間にこんだけ酔えるんだろう。
「ねえ、やっぱりまだ瀬名さん引き摺ってんの?」
「何言ってるんだよ。違うよ。ほらもう……何があったんだよ。家帰れるか?」
瀬名の名前に、ずきんと胸が微かに疼いた。
……このまま放り出すわけにはいかないよな、やっぱり。遠回りになるが、いったん蓮池を部屋に放り込んで、それから上原を送るしかない……んだろうなあ……。
何となしに気が重くなりながら、蓮池を引き離して自分の足で立たせる。
「ちゃんと立てって。送ってやるから車まで自分で歩けよ」
「あたし、結婚しちゃうかもよ」
「は?」
唐突に言われて面食らった。
俺の知る範囲ではそんな深い付き合いがありそうな人は思い当たらなかったので、単純にそういう話が出たことに驚いただけなんだけど。
「……付き合ってた人なんか、いないわよ」
俺の表情を読んで、蓮池がすねるように言う。
「そんな人、いないわよ。でもずっと好きだって言ってくれてたのよ。……結婚してくれって、頭下げられちゃったわよ」
蓮池は俺と同い年だ。目鼻立ちのはっきりした美人で、起伏の豊かな体のラインの持ち主で、加えて言えばアーパーで軽そうなルックスの割にはよく尽くす古風なところがある。好きになる男がいたって驚かないし、結婚してもおかしくない年齢だろう。
「……おめでとう」
他に何と言って良いかわからず、車に向かいかけた足を止めて振り返った姿勢でそう言った。途端、ハンドバッグが飛んできた。うわ。
「止めてよ!! 止めてくんないの!? 結婚しちゃうよ、あたし!!」
「……俺が決めることじゃないだろ。いいんじゃないか」
蓮池の気持ちはわかっている。残酷なことを言っているんだろうという自覚も、ないわけではない。
だけど、これ以上何を言えば良いんだ。止めれば良いのか? 責任も取れないのに?
冷たくても、蓮池自身の問題だろう。俺のことを忘れてその人と結婚して幸せになれればそれがベストだろうし、やっぱりその人じゃ嫌なんだと思えばしなければ良い。俺に言えるのはそれだけなのだし、そして俺にとって彼女はあくまでも恋愛対象にはならない。
「……馬鹿」
ハンドバッグを俺の足元に投げつけたまま、蓮池が走り出した。おいおい。そんな酔っ払いの状態で街を暴走するのはやっぱり危険だろう。
「蓮池!! 危ないって。待てよ」
何で俺はいきなりこんなところで酔っ払い相手にチェイスする羽目になっているんだろう。
ぼんやりとそんなふうに思いながら蓮池の腕を掴む。
「やーだ!! 離してよ」
暴れるな。俺が痴漢みたいじゃないか。俺は溜め息をついて、ハンドバッグを押し付けた。
「……蓮池」
「何よ」
ふてくされたようなその瞳には涙が浮かんでいる。
「俺、止められないよ」
「……」
「困らせないでくれよ。……瀬名が、忘れられないわけじゃない」
「何であたしじゃ駄目なの」
「もうわかってるんだろ。友達にしか思えないんだ」
「……」
俺の胸にぶつかったままで止まっていた腕が力なく落とされた。俯いたままで、呟くように言う。
「……わかった」
「……送るよ」
「いい。大丈夫。……ごめんね、迷惑かけて。……プロポーズされて、混乱して。彗介くんに会いたいって思ったらいたもんだから、取り乱しちゃった」
言って蓮池は顔を上げた。泣き笑いのような顔を見せる。
「酔いを醒ましながら、歩いて帰る。たいした距離じゃないし」
「……後で、行こうか?」
「平気。……また、ごはん食べに行こうね」
「ああ……うん」
ハンドバッグを受け取ると、蓮池は先ほどよりは幾分かしっかりした足取りで歩き出した。振り向くことなく角を曲がって消えていく。思わずその姿を見送り、俺も踵を返した。車に上原を待たせっ放しである。何だかとんでもないところを見せてしまったような気がするんだが……。
車が見えるところまで戻ってくると、上原が助手席の傍らに佇んでいた。俺の姿を認めると無言で車内に戻る。運転席のドアを開けて中に体を滑り込ませながら、俺は謝罪した。
「ごめん、待たせて。何か変なところ見せちゃったけど……」
「……別に。あたしには関係ないですけどー」
「そりゃそうだけど」
だから尚更、変なところを見せてしまったのが気まずいんじゃないか。
ため息をついて、車を出す。4年の付き合いの中で、あれほど取り乱す蓮池を見るのは初めてだ。……いや、俺には見せなかっただけ、なんだろうか。知らないところで、彼女を追い詰めてなかったとは言えない。
……誰も彼もが、俺の中に、瀬名がいることを知っている。もしかすると、俺以上に。
黙りこくったまま車を再び走らせていると、ぽつりと上原が問うた。
「……さっきの女の人は?」
「帰ったよ」
「大丈夫なの? ひとりで帰して」
「送るって言ったら、歩いて帰るって言った」
「ふうん……」
それきり黙る。……嫌な空気。何だか、怒っているみたいだ。
なぜ怒っているのかがわからず、俺は黙って車を走らせ続けた。幸い道はそれほど混んではいない。
「……オトモダチ?」
また、ぽつりと上原が尋ねる。ぼーっと蓮池のことを思い出していた俺はふっと我に返った。
「ああ、うん……まあ。隣に住んでる人」
「は? 隣?」
「うん」
ふうん……と呟いた上原は、短い沈黙の後続けた。
「さっきの、ひどいよ、如月さん」
「……何が」
「あの人、如月さんのこと、好きなんじゃないの?」
「……」
そこまで答える義理はないだろう。
沈黙で応じる俺に、上原が構わず続ける。
「あんな言い方しなくても……」
「じゃあどうすればいいんだよ」
思わずむっとして遮るように答えた。上原が口を噤む。
どこまで上原の耳に届いていたのかわからない。けれど、そう言うということは、蓮池が結婚するだの何だのって言っていたあたりは、聞こえているんだろう。
そう判断して、言葉を続けた。
「結婚するなって言ったって、別に俺はあいつに何してやれるわけじゃない。あいつが決めることで俺が決めることじゃないし、止める理由はどこにもない」
「……してもいいの?」
「何で俺が反対する理由があるんだよ」
「だって……」
俺を見つめていた上原は視線を外して俯いた。
「あんなに綺麗な人なのに……」
「綺麗でも何でも、俺自身が好きじゃないんだったらどうなるものでもない。大体、上原には関係ないだろ」
「……」
それきり上原は黙りこくった。俺もかける言葉はなく、車の中はひたすら気まずい沈黙だった。
どうして上原にそんなことを言われなければならないのかがわからない。俺と蓮池の問題で、いや、俺と蓮池の問題ですらなく蓮池個人の問題で、上原にはこれっぽっちも関係なんかないはずじゃないか。
そうは思うものの、反面、心のどこかで、上原に悪かったなと言う思いが過ぎる。
上原を激励すべく食事に誘ったのに、何だかひどく嫌な終わり方をしている。それこそ上原は何も悪くないのに俺と蓮池のトラブルに巻き込まれて。
そう思ってみれば、上原に申し訳ないような気がした。
「ごめん」
「……え?」
「何か、結果として上原に嫌な思いさせちゃったみたいで」
いつもの場所に車を停めて、ため息混じりに謝罪を口にする。言葉もなく俺を見た上原は、やがて視線を膝に落とした。
「ううん……あたし、余計なこと言っちゃって、ごめんね。あたし、関係ないのに」
「……」
「……あ、でもそうか」
言葉に詰まっていると、上原はひとりごちるように呟いた。思いがけず笑顔を見せる。
「お兄ちゃんとられちゃったみたいで、ちょっとヤキモチはやいたかもしんないッ」
「は!?」
「なんてねッ。どきっとした?」
悪戯っぽい笑みを見せる。上原の笑顔を見れたことで内心安堵しながら、俺は大きく息をついた。
「するかよ、馬鹿」
「あは。ごちそうさま。ありがとう」
言って上原は助手席のドアを開けた。道路に降り立ち、開けたままのドアから中を覗くように続ける。
「事務所、時々行くから……会ったらよろしくね」
「ああ……頑張れよ」
「如月さんもね」
勢い良くドアを閉めて、上原は弾むように走り出した。途中で一度振り返って、俺に向かって大きく手を振る。
その姿を見て、俺はほっとしながら、思わず小さな笑みを浮かべた。
◆ ◇ ◆
3月に入ると、すっかり気候が穏やかになった。柔かい日差しが眠気を誘う。まだ風に冷たさを残してはいるが、それが却って心地良い。
アルバムの企画会議を終えて俺は伸びをしながら欠伸をした。その頭を遠野がどつく。
「ってぇ……」
「欠伸なんかのんびりしてるからでっしょー」
このところ遠野はやけに機嫌が良い。何か良いことでもあったんだろうか。
「3月中にはいける?」
「はみ出そう……4月頭までにはなんとか……」
アルバムに収録するのは11曲と決定した。そのうち3曲はかつてのストックからアレンジをすることに決まり、うち3曲は昨年から今年の10月までに出すシングルの曲が収録される。
新たに捻出しなければならない5曲のうち2曲は遠野が出すことになったので、俺自身はアルバムに向けては新たに3曲作るわけだが、うち1曲はほぼ形になっているし、1曲は構想が固まりかけている。のたうち回っていたシングル曲も、あれほど詰まっていたのが嘘のようにこの2週間ほどで綺麗に仕上げることが出来たので、年末年始に比べて俺の精神状態も大分通常の状態に戻っていた。ただ、現時点のみを言えば新たなストレスが俺を襲ってはいるんだけど。
「そっちいつ頃あげられそう」
「どうかな……そっちが4月頭まで粘るつもりならこっちは3月であげとかないと、お前んとこで詰まるんじゃないの」
「……そういう説もあるよねえ」
「つーか、いくらレコーディング始めるのが5月の終わりつったって、やっぱ4月の半ばまでには最低あげとかないと困るんじゃないの」
って言うか、その時点で既に相当ぎりぎりなんだが。
この後、芝浦のゲネスタに移動することになっている。その前に俺と遠野は、ロビーのソファに座り込んで煙草に火をつけた。
「だーよねー。最悪レコーディングしながら歌詞つけてくか」
「……お前の場合、どんどん変わっていきそうだからやめてくれ」