第3話(1)
アレンジ作業がひと段落し、その日はファンクラブのイベントの打ち合わせがあるだけで夕方には時間が空いた。このところアレンジ作業にかかりっきりだったので、何だか久しぶりにゆっくりしている気がする。いや、本当は次の曲にも取り掛からなければいけないんだが。
遠野の言葉に背中を押され、俺は、一時期のノイローゼとも言える追い詰まった精神状態から、解放されつつあった。アレンジ作業がひと段落したと言うことも、大きいだろう。
ともかく、そんなわけで俺は久しぶりに『EXIT』に顔を出してみることにした。幸い土曜日だ。上原がいるんじゃないだろうか。
気がついてみれば、2月ももう終わろうとしている。
あれから上原はOpheriaのメンバーと顔合わせをしたらしく、このまま上原でいくことになりそうだと広田さんに聞いてはいるんだが、何だか時間もなくて上原とはそれっきりになっていた。ずっと、気になってはいたんだけど。
歩いて『EXIT』まで行くとドアを開ける。カラランというドアベルの音と共に中に入ると、上原とマスターがカウンターを挟んで紙を覗き込んでいるところだった。店には2組ほどの客がいる。
「いらっしゃい」
「あッ、如月さん」
「うす」
短く言ってカウンターに腰を下ろす。上原は「ごゆっくりー」と笑顔を残して、何だか慌しく店を飛び出して行った。買出しだろう。そんなに慌てる理由がわからないが、何となくその姿を見届けていると、マスターは俺が何も言う前にアイスコーヒーを準備しながら怨めしげに言った。
「ケイちゃん、ひどいじゃないか」
「へ?」
煙草をくわえていた俺は、思いがけないところから恨み言を言われて驚いた。アイスコーヒーのグラスを俺の前に差し出しながら、マスターが続ける。
「せっかくケイちゃんの後のコが見付かったって言うのに、そのコをさらってくなんて」
さらってくって……。
「上原、辞めるって?」
「うん。まあすぐではないけどね。とりあえず3月一杯で、辞めるそうだよ」
「ああ……」
そうか、辞めるのか。
ミルクをコーヒーに注ぎ込んで、ストローで軽くかき混ぜる。
上原は実家だし、バイトをしなくても生活出来るからだろう。もっとも、固定給料制をとっているウチの事務所は、最初の収入は恐らく『EXIT』のバイト代にも満たないだろうけれど。
「それは悪かったなあ……」
「ま、彼女が決めたことだから仕方がないがね。それよりどうだい? 仕事は。何だかまたCDを出すって飛鳥ちゃんに聞いたけど」
「ああ、うん」
もうサンプルはとっくに仕上がっていて、既にディストリビューターや各宣伝機関には手元に渡っているはずだ。俺もサンプルを聴いたけれど、良い出来だったと思う。これでそれなりの成績を残すことが出来れば、次のシングルへの足がかりとしては随分と楽になるはずだ。
30分ほどマスターと話し込んでいると、カラランと激しくドアベルが鳴り響き、上原が飛び込んできた。息を切らせている。まだ慌てているようだ。どうしたんだ?
「良かったッ、まだいたッ」
俺?
上原はにこにこしながらぜぇぜぇと店に入り込むと、どさりと買ってきた品物をカウンターに置いて中身を漁り始めた。ごそごそと冷蔵庫に牛乳のパックをしまったりしながら、俺を見上げる。
「あたし、やることに決まったの」
「ああ、うん。聞いた」
客の1組に呼ばれてマスターがカウンターを離れる。俺はカラカラとアイスコーヒーをかき混ぜながら、頷いた。
ひょっとして、それが言いたかったんだろうか。ちょっと首を傾げてにこにこと笑う上原を眺めながら、ふと、メシでも連れてってやったら喜ぶだろうか、と思った。
一応は……お祝い、と言うか。
「……上原、何時まで」
「6時」
あと1時間ほどだ。
「その後何か用事あるの」
「ないよ」
「じゃあ、お祝いにメシでも連れてってやろうか」
「え!? ホントー!?」
立ち上がってぱっと顔を輝かす。それにつられて、俺も少し笑った。上原は反応が可愛いな。
戻ってきたマスターまでが、つられたようににこにこと問う。
「何だ、盛り上がってるじゃないか」
「如月さんがゴハン連れてってくれるって」
「ほう。いいじゃないか。おいしいもん食べさせてもらいなさい」
「やったー」
それから上原は、窺うような視線を俺に向けた。
「……でも、いいの?」
「何が?」
「如月さん、ゲーノージンなのに、まずいんじゃないの?」
だからその言い方やめれって。
「別に、俺の顔なんか誰も知らないよ」
そっけなく返すと、上原は不満そうにエプロンを取り上げながら唸った。
「そうかなあ。だってあたしの周りとかでも最近『Blowin’かっこいい』って言ってるコ増え始めてるよ」
「Blowin’の名前が売れ始めても俺の顔は別なの。Blowin’が売れてきて知られ始めるのは遠野の顔なの。お前が思うほど俺の顔なんか誰も覚えちゃいないよ」
「そうかなあ」
「……じゃあ聞くが。CRYって知ってるだろ」
CRYと言えば、今日本国内で名前を聞いたこともないという若者は少ないだろう。上原も当然のように頷いた。
「そりゃ知ってるけど」
「CRYのメンバー全員の顔、的確に思い出せるか?」
「そりゃ……」
言って言葉に詰まる。
「だろ? セットじゃなくて単品でその辺ふらふら歩いてるのを偶然見かけて、CRYの誰々だとわかる自信があるか? 当然だが、ご丁寧にギターだのドラムだのしょっててはくれないぜ」
「……うううう」
「そういうもんなの。バンドなんて。バンドの顔はヴォーカルだろ。『この曲結構好き』って程度じゃ、メンバーの顔なんか覚えやしないんだから」
「けど、CRYのファンならわかると思うよ」
「そう。CRYの固定ファンならな。あいにくBlowin’は、メンバー全員の顔を完全に覚えているような固定ファンはまだそこまで多くはないし、その多いとは言い切れないファンの全てが今この瞬間東京の渋谷区に集結しているわけでもない」
「…………ううううううううう」
悔しそうに唸る上原に、俺はちらりと視線を注いだ。
「……行きたくないなら素直にそう言ってもらっても構わないんだけど」
「行くッ行きますッ。……まったく。如月さんのこと心配して言ってんのに」
それは気の回し過ぎだろう。
上原が勤務時間を終える6時近くまでそこでマスターと会話をしながら過ごし、俺はいったん車を取りに家に帰った。6時を回った頃、店の前に車を停めると折りよく上原が出てくる。
「じゃあ、マスター、また明日ッ」
「おお。おいしいもんたらふく食って来いよ」
「はーいッ」
まるで遠足に行く小学生と、それを見送る父親のようだ。それを眺めていて、何だか妙に和やかな気持ちになる。
助手席のロックを解除すると、上原が満面の笑顔で滑り込んで来た。こうも素直に「嬉しい」と顔に書かれると……誘った甲斐があるというものだ。
「何食いたい? どっか行きたいところあるか」
イグニッションキィを回しながら尋ねると、上原はんーとしばし沈黙し、おもむろに言った。
「……ハンバーグ」
「……」
ハンバーグねえ……。
俺の沈黙をどう受け止めたのか、上原が焦ったように言い募る。
「だだだって。あたし、ファミレスとかファーストフードしか行ったことないもん。わかんないよ」
そうか……。
何となく脱力した。そう言えば俺も高校生くらいの頃は、駅前のマックくらいしか行かなかった。高校時代に年上の女性と食事に行った時、ファミレスくらいしか連れて行けるところがなくて我ながら情けない思いをしたことを思い出して苦笑する。
「……焼肉とか好き?」
「好きッ」
「じゃ、焼肉でも行くか」
言って俺は車を発進させた。方向が逆なので少し行ったところでいったんUターンし、反対車線に入る。
「あたし、焼肉って子供の頃連れてってもらったことしかない」
「ああ、そう」
「嬉しいな、楽しみだな」
そう言えば確かに焼肉屋なんか高校生くらいの年代の集団って見かけないよな。何でだろう。一番肉とか食いそうな年代なのに。高校生が行くには高いのか。
10分ほどして目的の店の駐車場に車を停め、店に入る。混んでいることを危惧していたのだが、意外と席はあいていた。まだ時間が早いせいかもしれない。
奥の座敷に案内されて腰を落ち着けると、メニューを開く。
「とりあえず生ビールかな……」
「……如月さん。飲酒運転って言わないの?それ」
「一杯だけ」
それにどうせ俺は酔うためには、相当の酒量をこなさなければならない。そういう問題ではないとわかってはいるが。
呆れたように息をついた上原は、再びメニューに視線を落とすと店員にカルピスをオーダーした。
そうだよな……未成年なんだよな……。
「何食う?」
「んー……」
いったん店員がいなくなると、こちらも食事のメニューに視線を落として尋ねる。上原は困惑したような声を出していたが、やがて小さく言った。
「……ロース」
焼肉と言えばカルビだと思ってしまっている俺はオヤジなのだろうか。
そう言えば子供の頃は、ロース系の肉の方を好んだ気がする。カルビだと油っぽくて嫌だった。何だか上原といると……俺、どんどん自分が年寄りのような気がしてくるよな……。
「じゃあ上ロース、上カルビ、タンと野菜盛り……とりあえずそんなところか」
「うん」
「メシとかいる?」
「いらない」
「スープは?」
「食べきれるかなあ……」
「残ったら別に俺食うよ」
「え!?」
え?
激しく驚かれて俺も驚く。そんなに凄いことを言っただろうか。
俺の視線に上原はむぐむぐと何か口の中で呟き、はい、と頷いた。変な奴。
オーダーを済ませ、運ばれて来たドリンクでとりあえず乾杯すると、煙草を取り出して咥える。
「良かったのか何なのかよくわからないけど。デビュー決定おめでとうってことで」
「あ、ありがとう」
「まだ不安なの?」
もくもくと煙を吐き出しながら尋ねる。上原は何が気になるのか、しきりと睫毛を指でつつきながら僅かに首を傾げた。
「うん……不安は不安。でも何か、期待も大きくなってきた」
「あ、そう。ま、何か困ったことあったら言えば」
「ホント?」
「別に何もしてやんないけど」
「……何だそりゃ」
がくりと上原がテーブルに額を落とした。