第2話(4)
「……帰んないのか?」
「や、悪かったなと思ってさ」
皆が去っていった方へ視線を向けたまま岡村が言った。俺よりだいぶ低い位置にある頭を見下ろしながら、首を傾げる。
「何が?」
「無理矢理来てもらって、嫌な思いさせてさ。……あいつ、昔瀬戸村にフラれてるんだよな」
俺は思わず目を丸くした。
「初耳」
瀬戸村というのは俺と同期だった女性だ。当時、俺に好意を抱いてくれていたのは何となく覚えている。今日は姿がなく、前に岡村に、退職したと言う話だけは聞いたことがあった。
「それに……別に岡村が悪いわけじゃないだろ」
「それはそうだけど……」
「人前に出る仕事やってるんだから、いろんな人間がいろんな思いを持って見ることくらい覚悟してる。良い感情で見てくれる人ばかりじゃないことはわかってるさ。……別に気にしない」
俺の言葉に、岡村はおもむろに溜め息をついた。
「如月ってやっぱ大人だよな。昔から大人びてたけど」
その言葉に思わず笑った。
「まさか。大人なやつが、良い年して音楽なんかやってないよ。……岡村の方が大人だと思った、俺は」
「え?何で」
「あんなふうに誰のことも傷つけずに咄嗟にまとめるなんてさ。……凄いよ」
「そ、そう……?」
そんなふうに素直に照れるあたりも、素直な良い奴だと思う。鼻の頭を人差し指でぽりぽりと掻く岡村を眺めながら、俺は続けた。
「みんなも、大人だよ。スーツ着て、毎日仕事して。……何か俺だけ違うなって思った」
「でも……一生懸命仕事してるのは如月だって一緒だろ」
「うん。仕事の種類が違うだけってわかってる。けど、どう見ても俺は社会人って風采じゃないし、はたから見ていい加減に生きてるって思われても文句言えないのかなって思ったりした。みんな凄ぇなあって思った。……偉いよ」
「そんな」
「音楽なんて水商売やってくんなら、誰もが認めるくらいでかくなんなきゃ駄目なんだなって思った、俺」
「……そうかな、そんなことないと思うけど」
すぐそばの車道を走り抜けていく車のテールランプに目をやりながら、俺は首を横に振った。
「例えば、結婚したい女の子がいるとするだろ。親から見て、娘が連れて帰って喜ぶのは俺と岡村のどっちだと思う?」
「それは……」
「社会的信用って、そういうことだろ。みんな、俺と同じスタートで始めて今はちゃんと社会的信用を身につけている。俺だけ浮いてんだよな。……音楽でちゃんと誰からも認められるようになるには、それだけでかくなんなきゃ駄目なんだな……」
「如月……」
「卑下するわけじゃなくってさ。別に後悔してるわけじゃないし。ただ、改めて思っただけ。……俺、皆に負けないように頑張らなきゃな」
「……」
「そう、思ったから。思えたから。今日来て良かったよ、俺」
岡村がほっとしたような表情で俺を見上げる。
「そう?」
「うん」
やらなきゃいけない時期に来てる。
逃げられないところに来ている。
同じスタートをきった仲間に置いていかれていて、俺だって負けたくない。やらなきゃいけない。
そして。
――追い詰められていく。
◆ ◇ ◆
「ここ?」
「ここ」
新宿駅まで迎えに行った俺に、車を降りた上原は不安そうに尋ねた。今日は上原を広田さんに会わせる日である。10時からスタジオ入りする俺は、1時間早い9時に上原を伴って事務所へやってきた。上原は今日、学校を休んでしまったらしい。
駐車場から事務所へ足を向けると、ドアが開いて中から見知った顔が出てきた。MEDIA DRIVEのギタリスト日澄恭平だ。パサパサに脱色した長めの髪が、わさわさと揺れている。ほっそりとしているので、わさわさの髪とあわせるとまるでマッチ棒のようだ。切れ長の鋭い目をしていて色男風なのだが、口を開くと結構間が抜けていたりする。
MEDIA DRIVEはベースヴォーカルの二宮安奈とキーボーディスト西村隼人の3人で、デビューの時期はBlowin’とほぼ同じくらいだ。鳴かず飛ばすという感じだが、かなりかっこ良い曲を書くので嫌いではないし、日澄も西村も何だか俺のギターをひどく気に入ってくれていて懐いてくれるので、そこそこ仲が良い。
「あ、如月さん、はよーっす。早いっすね」
「うん、ちょっと。日澄こそ早いな」
足を止めると、日澄も俺のすぐそばで足を止めて大きな欠伸をした。
「どっちかっつーと俺の場合は、遅いって感じです」
「……今まで?」
「うす」
どうやら仕事明けらしい。
「レコーディング? シングル?」
「シングル。や、音録りそのものは別のスタジオで先週終わってたんですけどね。オーバーダブやるつって昨日の7時頃入ったんですけど。なーんか機械トラブルとか起きちゃって」
「機械トラブル? こっち? あっち?」
「あっち。キーボードのLchがレベル低いつってもめてて」
あっちとはエンジニアサイドの問題で、こっちとはアーティストサイドの問題だ。
「ふうん。何だったの」
「俺にはよくわかんないんですけどね。結局はLchに使ってたDIの接触不良みたいっすよ」
DIというのは、エレキ楽器の音をアンプにつないでアンプの音をマイクで拾うのではなく、楽器の出力を直接録音する際に使用するダイレクトボックスという機材のことだ。ベースやキーボード、アコギなんかを録る時によく使う。
「ふうん」
「隼人は隼人で、何か音色にハマりこんじゃって……あれ?」
不意に日澄は、俺の後ろに隠れるようにしている上原に気が付いた。
「やだなー、如月さん。彼女連れてきちゃったんすか」
「馬鹿。違うよ。ちょっと広田さんに紹介しようと思って」
「アーティストに女の子紹介させるとは広田さんもやるなー」
……。
「上原。MEDIA DRIVEのギタリスト。日澄恭平」
「どもー。日澄です」
「こっち、上原飛鳥」
「あ、はじめまして」
あたふたと上原が挨拶を終えると、日澄と別れて事務所の中へ入る。上原の為にドアを開けておいてやりながら、ふと思いついて尋ねてみた。
「そう言えば上原、MEDIA DRIVEは知らないの?」
「は? 何で? 知らないよ」
「や、別に……」
Blowin’なんて知ってたから、もしかすると知ってんのかと思っただけなんだけど。
事務室の受付をノックして、事務員の女性を呼ぶ。顎のあたりで揃えたストレートの髪を揺らしながら、事務員の山根さんがくりっとした目で俺を見上げた。
「おはよーございます、如月さん」
「はよーございます。広田さん、呼んでもらえますか」
「はーい。……広田さーんッ如月さんですよおー」
ほーい、という返事が事務室の奥で聞こえ、ややしてドアが開いた。年齢不詳の爽やかな笑顔を浮かべて、広田さんが立っている。
「おはようございます」
「おはよう。すまないね。如月くん」
「いえ。こっちが上原です」
「ああああああの、上原飛鳥です」
めちゃめちゃ肩肘に力の入りまくっている上原に、広田さんが苦笑をした。
「そんなに緊張しなくて良いよ。別に食べやしないから。……ええと、曲の話は?」
「しました」
「じゃあ、上行こうか、とりあえず」
「はい。……行くぞ、上原」
実は広田さんに会わせるにあたって、上原は宿題が出ていた。アップテンポの曲とスローバラードの2曲だ。この2曲を上のリハスタで歌わせて、上原がモノになるかどうか判断すると言うわけだ。言わば簡易オーディションである。とにかく歌わせてみないことには話にならない。この2曲は、俺が年明けに広田さんから預って『EXIT』経由で上原に渡しておいたのだ。
「う、うん……」
階段を上り、リハーサルスタジオのドアを開ける。先ほどまでMEDIA DRIVEがいたせいか、奇妙に空気が生暖かい。
「もうね、簡単にセッティングはさせてもらったんだけど」
言って広田さんはドアから入って上手、レコーディングスタジオを背にするような形で置かれた折り畳み式の簡易テーブルに乗せた小さなミキサーを、指でポンポンと叩いた。ミキサーの横にはCDプレイヤーが置かれ、結線されている。
そこから少し離れた正面の位置に、どこにでもあるSHUREのヴォーカルマイクがマイクスタンドに設置されていた。ヴォーカルマイクから2メートル弱の距離を置いたサイドに小さなスピーカがセッティングされ、ご丁寧にヴォーカルマイクの足元には小型のモニタースピーカまで置かれている。ここまでやるか?
「これね、良いでしょ。簡単なリバーヴも内蔵されてるから、エフェクター繋がなくてもこういう場合は楽で良いよね」
嬉しそうに俺に言われても。
それから広田さんは、俺の背後でカチコチになっている上原に、ヴォーカルマイクの位置に立って高さを適当に調整するよう言った。俺は特にすることもないので、広田さんの後ろの壁際に寄りかかって腕を組む。
「バックはこっちで適当に出すからそれに合わせて歌ってくれる? 覚えてるよね」
「あ、はい」
「じゃあとりあえず、アップも兼ねて適当に声出ししてくれる? レベルも適当に合わせるから。今日はEQなんかはバイパスしちゃうけどいいよね」
「いいんじゃないですか」
そんなことは俺に相談されても困る。適当に答えて顔を逸らすと、今度は困ったようにまごまごと俺に視線を投げかける上原が目に入った。……だから。俺に頼られても。
「ライブ前とかにアップするだろ。同じようにやれば良いんだよ」
「あ、うん……」
上原はストレッチのつもりか体を軽く動かし、それからマイクの高さを調整すると声出しを始めた。広田さんがコンパクトミキサーを操作し、スピーカから上原の声が出る。ライブの時も思ったけれど、上原の声はマイク乗りが良い。広田さんがかけたらしいリバーヴが、柔かく上原の声を広げていく。リバーヴ乗りもかなり良く、上原の声とリバーヴが綺麗に溶け合っていた。
「いい声してるねえ……」
広田さんが嬉しそうに呟く。
「アンニュイな感じの歌とか得意かな」
「どうでしょうね。俺も1度しか聞いてないんでよくわかんないですけど」
上原が満足するまで声出しに時間を裂き、適当なところで広田さんが片手を挙げた。
「ちょっと音流すよ。足元のスピーカから音出すから、声出しながら聞いてもらえる?」
「あ、はい」
スピーカから音が流れる。上原に曲を渡したのが俺とは言え、曲を聴くのは初めてだ。誰の作詞作曲なのだろう。演奏そのものはデモ段階のせいかかなり粗いが、良い曲だと思う。
「どうかな」
「ええと、CDも少し下げ目で、声を気持ち上げてもらえますか」
「ほい」
「はい。大丈夫です」
「じゃあ始めようか」
「はい。宜しくお願いします」
声出ししたせいか、最初より随分落ち着いたようだ。上原がぺこりと頭を下げ、顔を上げると同時に音が流れ始めた。
スタンドから外したマイクを持った左手とは逆の、空いた右手でリズムを取る。
イントロが切れ、静寂になる瞬間。
滑り込んだキーボードに乗せるように、上原が歌を滑り込ませた。
結論を言えば、広田さんはひどく上原の声を気に入ったようだ。
リハスタで2曲上原に歌わせた後、レコスタがあいているのを良いことに録音するなどと言い出し、上原にブースで歌わせている間、俺に向かって満足げに笑顔を見せた。
「歌そのものはまだまだだけどね。若いからどんどん伸びるだろうし、声はよく伸びるからデビューまでにボイトレしっかり受けてもらえば問題はないだろう。何にしても良い声をしてるよ。最初はバラードかな、とも思ったけど、アップテンポも全然いけるね。バラードとアップテンポの聞かせ方のギャップがまた良いよ。ルックスも問題ないし、あとは彼女の意志と他のメンバーとの折り合いだけど、これは今の段階では何とも言えないからねえ……。他のメンバーとの折り合いが良くないようだったら、ソロで企画しても良いなあ」
そこまで気に入ってもらえれば、俺としても紹介した甲斐があるというものだ。40分ほどかけて上原のテストを終えた広田さんは、俺を伴って上原を応接室へと連れて行った。
――ブレインはほぼCRYとともに立ち上げたばかりの、新しい事務所である。一応バンド形態の少数精鋭を中心にアーティストを育ててきて、少しずつではあるが着実に柱となるようなアーティストも育ってきて、事務所としても力をつけ始めている。ただ、現段階ではこの事務所は女性アーティストが弱く、これと言えるのは移籍してきたアイドル大倉千晶くらいだ。この辺りで、バンド路線を崩すことなく女性アーティストを育てる試みとして現在女性バンドを売り出すことが決定しているのだが、未だヴォーカリストにふさわしい女性が決まっておらず、アイドル的要素を含んで売り出しても文句のない人材を探していたところなのだ。
広田さんの話は、要約するとそんなところだ。この先は残念ながら俺は、時間が来てしまったので聞いていない。
10時になると俺は上原と広田さんを応接に残して、先ほどテストが行われたリハスタへと戻って来た。ミキサーやスピーカは設置されたままだったので、とりあえずケーブルだけ外して隅に寄せる。ギターを取り出してチューニングをしながら、俺は深い溜め息をついた。
そう。他人の心配をしている場合じゃないんだ、俺は。
次のシングルの曲として決まった『FAKE』は、夜もギターに齧りついて途中さまざまにフレーズに変更を加え、何とか、かなり気に入る形にまで整えることが出来ていた。
問題はアレンジだ。思うように進んでいない。と言うよりは、俺のイメージする形が、明確に自分で見えて来ない。