30 別離の言葉
兄上と工夫たちが去ると、陛下が気を取り直すように咳払いをなさった。
「オリビア・テニエス並びにテニエス侯爵への罰は後日、改めて申し渡す。それまでの間、両者は屋敷で謹慎しているように」
それだけ仰ると陛下は玉座を下り、謁見の間を出て行かれた。
残っていた者たちも自然と散会になった。
オリビアとテニエス侯爵は、それぞれ周りを囲んだ騎士たちに促されて歩き出した。
「オリビア」
私の声にオリビアは振り向いたが、そこに私のよく知る淑女の笑みはなかった。
「オリビアが私をどう思っているのだとしても、私がオリビアに支えられてきたのは変えようのない事実だ」
オリビアは私を蔑むように見つめた。
「私はあなたなんか大嫌いですわ。昔も今も」
「それでも、私は心から感謝している。本当にありがとう」
オリビアがツンと私から顔を背けて再び歩き出すのを見送っていると、横から呆れ声がした。
「まったくお人好しですね」
「私もそう思うが、言わずに後悔するよりはいいだろう」
レオンハルトを見上げて続けた。
「私たちも戻ろう。まだ政務が残っている」
レオンハルトが当然の顔で手を出してきた。
「もう大丈夫ではないか?」
「別に彼らがいたからあなたの手を引いていたわけではありません。婚約者の特権です」
私はそれ以上逆らわずに自分の手を預けた。
私たちが歩き出すと、マティアスや側近たち、さらに私の護衛役の騎士たちも寄ってきた。
執務室に帰って机に向かったものの、仕事は捗らなかった。
しばらくして、その状況に見切りをつけたのはレオンハルトだった。
「殿下、やはり今日はもうやめましょう」
「だが……」
机の上は相変わらずだ。
「色々なことがあってお疲れなのでしょう。殿下だけでなく、皆も同じです。今夜はゆっくり休んでください。その代わり、明日はいつもより早く始めて、遅れを取り戻していただきますのでそのおつもりで」
「ああ、そうしよう」
他の者たちと分かれ、再びレオンハルトに手を取られ、騎士たちに守られて自室へと向かう。
「何をお考えで?」
そう訊いてくる時点で、レオンハルトはとっくにお見通しなのだろう。そう思い、正直に言った。
「本当は兄上こそこの地位に相応しかったのではないか。きちんと教育を受け、政務に関わっていれば……」
「そんなことは考えるだけ無駄です」
レオンハルトにきっぱり言われて、ムッとした。
「レオンハルトは先ほどの兄上を見て少しも考えなかったのか?」
「ええ、まったく」
「おまえと兄上は同じ歳だろう。もし、おまえが兄上の側近になっていたら、案外良い主従になっていたかもしれないぞ」
レオンハルトは大きな溜息を吐き出した。
「あなたがそんなことを考えたのは、フロリアン殿下に王宮の外も見ろと言われたからでしょう。よろしいですか? フロリアン殿下は王宮の中で責任を負っていなかったからこそ、外に出て行けたのです。あの方だって、もしも王太子になっていればそんな勝手なことはできませんでした」
「それでも兄上なら少しでも王宮の外も知ろうとなさったはずだ」
「だったら、これからあなたもそうすれば良いだけです。フロリアン殿下が言われたのはそういうことではありませんでしたか?」
「……私は兄上やクレメンスや、何よりすべての民に対して胸を張れるようもっと努力せねばならないな。時間を作って町に出て、いつか兄上のお仕事も見てみたい」
「あなたが何をしようとどこへ行こうと私が必ずご一緒いたしますのでご安心を」
「ああ、頼りにしている」
部屋までもう少しのところで廊下の角を曲がると、向こうからロジーナが急ぐ様子で歩いてくるのが見えた。
私に気づいたロジーナは、固い表情をしていた。
「どうした?」
「姫様、正妃様がお待ちにございます」
途端に、私の体も強張るのを感じた。
「母上は、どちらに?」
「クレメンス殿下のお部屋にございます」
「わかった。レオンハルト、おまえはもう帰れ」
そう言うと、私の手を握るレオンハルトの手の力が強くなった。
「いえ。あなたの部屋までお送りします」
その意味はすぐに理解できた。クレメンスの部屋ではなく、コルネリアの部屋まで。
私は素直に頷いた。
クレメンスの部屋へと重くなった足を運びながら、私は口を開いた。
「可笑しな話だが、私がクレメンスでないと気づかれることをもっとも怖れていたのは母上だ」
私をクレメンスにしたのは母上だということくらい、レオンハルトもわかっているだろう。
それ以前は母上の視線も言葉も愛も、クレメンスだけに向けられていたことも。
「子どもの頃は、何でもいいから母上に与えてほしかった」
ごくたまに、クレメンスと私が一緒にいる部屋に母上がやって来ると、今日こそ私を見てくれるかもしれない、今日こそ話しかけてくれるかもしれないとドキドキした。
だが、いつも母上は私の存在を無視し、クレメンスだけに関心を向けた。
クレメンスが私に気を遣って話しかけてくれ、私がそれに答えを返そうと声を発した途端、遮られた。
「ロジーナ、騒がしくて堪らないわ。それをここから出してちょうだい」
クレメンスに話しかける時とはまったく異なる冷たい声。それさえも、母上は私に直接向けてはくれなかった。
辛そうな表情のロジーナに手を引かれて私が部屋を出るまで、一瞥もされなかった。
「私のほしかったものは今もクレメンスだけに向けられている」
「コルネリア」
レオンハルトに柔らかい声で呼びかけられて、私は笑みを返した。
「大丈夫だ、わかっている」
クレメンスの部屋の前に立つと、改めてレオンハルトを見上げた。
「すぐに済むだろうから、ここで待っていてくれ」
レオンハルトはしばらく私を見つめてから、頷いた。
ロジーナとともに部屋の中に入ると、ソファに座っていた母上が立ち上がった。
「母上、お帰りなさいませ。ご無事で何よりにございます」
私の言葉で、母上がにっこりと微笑んだ。この6年、見慣れた表情だが、私の緊張は高まった。
「ええ。ところでクレメンス、なぜドレスなどを着ているのです? そんな格好をして、恥ずかしくないのですか?」
私は一度深呼吸したが、声が震えるのを抑えきれなかった。
「母上、私はコルネリアです。クレメンスは6年前に亡くなりました。母上も本当はご存知ですよね」
母上の顔からスッと笑みが消え、私を見つめていた視線が逸らされた。
「ロジーナ、それをここから連れ出してちょうだい」
「母上、私がコルネリアでも、私を必要としてくれる者たちがいます。それがわかったので、私はクレメンスとしてではなくコルネリアとしてこの国の王太子になります」
「ロジーナ、早くなさい」
「母上には不本意かもしれませんが、私がこの道を選べるのは母上のおかげです。私にクレメンスとしての6年をくださって、ありがとうございました」
私は母上に深く頭を下げた。そこに、氷のように冷たい声が浴びせられた。
「誰が必要としようが、王太子になろうが、私はクレメンスでないおまえなんか要らないわ。さっさと私の前から消えてちょうだい」
私は顔を上げた。母上の射るような視線を受け、微笑む。
「やっと私を見て、言葉をかけてくださいましたね」
体が打ち震えた。ずっと欲しかったものを与えられた悦びで。
「もはや心残りはありません。私は自らの意思でここを去ります。さようなら、母上」
頭の中にオリビアを思い浮かべ、彼女のように美しく見える礼をした。
再び母上を見た時には、すでにその顔は背けられていた。
水滴を床に落としながら踵を返し、クレメンスの部屋を後にした。
約束どおり扉の外で待っていてくれたレオンハルトを見て、ようやく肩の力を抜けた。
何も訊かずに頬を拭ってくれたレオンハルトに、私から手を差し出した。
「待たせたな。今度こそ私の部屋に帰るぞ」
レオンハルトはしっかりと私の手を握った。
クレメンスの部屋から私の部屋まではあっという間だ。だが、部屋の前に着いてしまうと、レオンハルトの手をすぐには放せなかった。
色々あって長い1日だった。いくら側近とはいえ、こんなに長い時間レオンハルトが側にいたことなど今までなかったはずだ。
だが、明日は早朝から政務だと思い出して手を引こうとすると、今度はレオンハルトのほうが放さなかった。
「コルネリア、今夜はあなたが望んでも一緒に部屋で過ごすつもりはありません。ですが、騎士とともに一晩扉の外に立つなら構いませんよ」
私が慌てて振り払おうとしても、レオンハルトの手は外れなかった。
「そんなこと望むわけないだろう。おまえも今夜は早く自分の家に帰って休め」
レオンハルトは私の手を引き寄せて甲に口づけてから、ようやく放した。
「承知いたしました」
最後に仏頂面を崩したレオンハルトに背を向けて、私は部屋へと入った。




