26 兄弟(フロリアン)
俺が13歳でメルケル様の弟子になったのと同じ頃、王宮では9歳の弟クレメンスが王太子の位に就いた。
だが、俺は王宮の中のことまで気にする余裕もなく、日々がむしゃらに学んでいた。土木技師になるために知らねばならないことはいくらでもあった。
王宮でそれなりに身につけてきた学問が役に立つこともあって、王子として生まれた自分はやはり恵まれた人間なのだと思った。
穏和そうに見えた師匠は仕事に関してはいっさい妥協を許さない厳しい人だった。
だが、そのおかげで師匠の携わる現場では事故や怪我人などが少なく、工夫たちは師匠を怖れながら慕ってもいた。
師匠は弟子たちにも厳しかった。俺も特別扱いされることなく時に怒鳴りつけられ、時にこき使われた。
様々な現場で顔を合わせる工夫たちは、見た目どおりの荒くれ者が多かったが、一度仲間として懐ろに入ってしまえば気の良い連中だった。
彼らや兄弟子たちに助けられながら、俺は徐々に土木技師の弟子らしくなっていった。
2年ほどたった頃、師匠について道路の改修工事現場にいると、貴族の子どもが見物にやって来た。
王宮の役人や工事のために寄付をした貴族などが現場を見に来ることは時々あって、そのたびに俺はそれとなく顔を隠していたのだが、子どもなら第一王子の顔など知らないだろうと気を抜いていた。
ところが、俺を見たその子どもは目を見開いた。相手の正体に気づいた俺も似たような表情をしていたかもしれない。
それでも、互いにここでは口を噤むくらいの頭は働いた。
その夜、俺の部屋を訪ねてきた者があった。
「兄上、あそこで何をしていらっしゃったのですか? あの格好は、お忍びで工事見学ではありませんよね?」
「おまえこそ、何で王太子があれだけの伴であんな場所まで来るんだよ」
「大人数ではお忍びになりませんから。本当なら兄上みたいな変装をしてひとりで行きたいくらいです」
悪びれる様子もないクレメンスに、俺は溜息を吐いた。
ほとんど交流のなかった弟が、こんなやつだったとは。顔立ちはコルネリアとそっくりなのに、中身が違いすぎる。
「絶対にやめておけ。おまえが変装したところで平民には見えない」
「それは理解していますが、私だって今のうちにできるだけ王宮の外の景色を見ておきたいのです。きっと政務に関わるようになってから役に立つはずですから」
言ってることは真っ当だが、周囲は大迷惑だろう。
「で、兄上はあそこで何を?」
少し迷ったが、正直に話すことにした。多分そのほうが面倒が少ない。
「あそこにいた土木技師のメルケル様のもとで勉強中だ」
「土木技師……?」
いつか師匠が俺にしてくれたような説明を、今度は俺がクレメンスにしてやった。
「なるほど、面白そうな仕事ですね。それを選べた兄上が羨ましい」
それは、選択肢など与えられなかったクレメンスの本音なのだろう。
「これからも兄上の仕事や平民の暮らしについての話を聞かせてもらえますか?」
断りたいところだが、母上の遺言に則れば、俺が土木技師を目指すのは父上とこの弟のためだった。
「時々ならな」
「ありがとうございます」
クレメンスはやけに大人びた笑みを浮かべた。
「コルネリアも一緒に連れて行けたら良いんですけど、さすがに難しいですよね。王宮の外には広い世界があると知れば、母上のことなんてどうでもよくなると思うんですが。やっぱりコルネリアのことはレオンハルトに頼むしかないのかな」
「ああ、コルネリアもおまえも婚約したんだったな」
「はい。レオンハルトなら大丈夫ですよ。ちゃんとコルネリアを大事にしてくれてますから。それに比べて、私の婚約者は最悪です。あんな女とは絶対に結婚したくありません」
「そんなこと言わずにおまえも大事にしてみたらどうだ?」
「無理です。兄上は結婚相手も自分で選ぶんですか?」
「さあ、まだ考えたこともないが」
その後もしばらくとりとめのない話をしてから、クレメンスは自分の部屋に帰っていった。
「また来ます。可能ならコルネリアと一緒に」
そう言い残して。
半月後、流行病でコルネリアが死んだ。
同じ病に罹りながらも生還したクレメンスは、何となく雰囲気が変わったように見えた。
流行病のせいで一時あらゆる工事が滞り、その後は師匠の仕事が一気に忙しくなった。
そのため、クレメンスの変化は大切な姉を亡くしたせいだろうと考えたくらいで、本人と話すこともしなかった。
結局、クレメンスが俺のもとに来たのはあれが最初で最後だった。
6年後。
クレメンスが王太子として有能だという声は俺のもとまで届いていた。
俺は俺で、師匠のもと土木技師見習いとして励んでいた。
そんな時になって、6年前に感じた違和感の理由を俺に教えたのは、クレメンスの婚約者オリビアだった。
あの時死んだのはクレメンス、今クレメンスを名乗っているのはコルネリアだと。
本当にあの大人しかったコルネリアが、クレメンスの代わりをしているのかと最初は疑った。
だが、考えてみれば、まだオリビアがクレメンスの婚約者であること自体おかしかった。
そのオリビアがなぜコルネリアの秘密を俺に打ち明けたかと言えば、俺を王太子に就けて、自分はその妃に収まりたいからだった。
そんなことのために自分が渡ろうとしているのが危険な橋であると、果たしてオリビアは気づいているのだろうか。
おそらくは母親のために、クレメンスの身代わりとして不向きな地位にいるコルネリア。どうにかして王太子妃という地位に上ろうとしているオリビア。
俺からすれば、ふたりとも狭い世界に囚われた哀れな人間だった。
あるいはふたりに広い世界を教えてやることが、兄から弟への弔いになるのかもしれない。




