2 弟にはなれない
王宮のエントランスに出発の準備を整えた馬車が並び、国王陛下の側室と王子王女、主だった廷臣たちが揃った。
一週間の予定で王家直轄領の視察に出かける陛下をお見送りするためだ。
やがて陛下と、同行する母上が姿を現した。
陛下は集った面々をぐるりと見渡してから、私に視線を向けて口を開かれた。
「行ってくる。クレメンス、留守を頼んだ」
「畏まりました。陛下、母上、道中お気をつけください」
陛下は短い言葉を交わしただけでさっさと馬車に乗り込んだが、母上は周囲を憚らずに私をしっかりと抱きしめた。
「しっかりやるのですよ、クレメンス」
「はい」
陛下と母上を乗せた馬車が走り去ると、見送りの者たちもそれぞれに散会した。
こんな時にしか顔を合わせることのない異母兄弟たちと、挨拶以上の言葉を交わすことはなかった。
兄弟の仲が特別悪いというよりは、陛下の妃同士の関係が良くないためだ。だから生母が違うと距離ができる。
ヘレナ様と第三王子マティアス、第二王女、第四王子。マリアンネ様と第五王子。2組の母子たちはそれぞれに連れ立って王宮の中へと戻っていった。
マリアンネ様は第三王女も産んだが、やはりあの流行病で亡くしている。しかし、私とマリアンネ様が大切な人を失った悲しみを分かち合う機会はもちろんなかった。
第一王子であるフロリアン兄上の姿もいつの間にか見えなくなっていた。
平民出身の母を早くに亡くし、政務に関わっていない兄上が普段どこで何をしているのか、私は知らなかった。
私も少し離れて控えていた側近たちと自分の執務室に向かって歩き出した。
血の繋がった兄弟よりも、側近たちをずっと近く感じるのは仕方ないだろう。
だが、彼らの前でも死んだ弟の話をすることだけは決してできなかった。
素直で明るく、母上に愛されていたクレメンス。私にとってもクレメンスは大切な弟だったが、私たちが仲良くすることに母上は良い顔をしなかった。
母上が私にあまり関心がないことは聡いクレメンスも気づいていて、諌めてくれるようなこともあったが、それは余計に母上を頑なにするだけだった。
母上に省みられないことは辛かったし、クレメンスを羨む気持ちもあったが、それ以上に弟の存在は私の慰めだった。
しかし、流行病に倒れて高熱にうなされている間に、私の世界は変わっていた。
意識が戻った時、私はクレメンスの部屋でクレメンスの寝台に横たわりクレメンスの寝巻を着ていた。長かった髪は肩の上で切り揃えられていた。
最大の変化は母上が私の側にいて、私を見てくれることだった。
だが、それは勘違いだとすぐに気づいた。母上の目に映っているのは私ではなく、やはりクレメンスなのだ。
私にコルネリアの死を伝えて以降、母上がその名前を口にすることは一度もなかった。
私の身の回りの世話をするメイドたちは当然すべてを知っているうえで、あくまで私を王太子クレメンスとして扱った。元々コルネリア付きだった者も含めて。
私は母上に何も言えぬまま、必死にクレメンスの振りをして王太子の役目を果たしてきた。
いくら私たちの顔立ちが似ていてもまったく同じではないし、性格はかなり違う。それでも人々は病で寝込んだため、あるいは姉を亡くしたための変化と捉えたようだ。
そんな中で、私がクレメンスでないと気づいた人物がたったひとりだけいた。オリビアだ。
クレメンスとオリビアの婚約は、レオンハルトと私の婚約と同じ頃だった。
私がコルネリアだった時には、オリビアとは何度か顔を合わせて挨拶を交わしたことくらいしかなかった。
「もしかして、あなたはコルネリア殿下ではありませんか?」
クレメンスの私室の居間で、姿は見えずともすぐ側に控えているはずの者たちに聞こえぬよう囁いたオリビアの言葉を、私は否定できなかった。
父である陛下も、婚約者だったレオンハルトも気づかなかったのに、オリビアは私がコルネリアだと見破ってしまった。それがクレメンスとオリビアの睦まじさゆえだとしても、私は嬉しくて堪らなかった。
静かに涙を溢した私の手を、オリビアはそっと握った。
私は初めてクレメンスの死を悼み、その悲しみを誰かと共有することができたのだ。
それから、私はオリビアに他の誰にも言えないコルネリアとしての弱味を打ち明け、悩みを相談してきた。
王太子の婚約者に選ばれるだけあって私よりずっとしっかりしているオリビアに、すっかり甘えていたとも言える。
6年の間、オリビアは私の秘密を漏らすことなく、クレメンスの婚約者であり続けてくれた。私の前にはこのままオリビアを妃にするしか道はない。
だが、それは王太子クレメンスとしての私を守るための結婚であり、オリビアの幸せには繋がらないだろうことも理解している。
オリビアを想うなら婚約を解消して、彼女の望む男に嫁げるよう取り計らうべきだ。そんな相手がいないなら、レオンハルトに。
優しく聡明なオリビアは、きっとレオンハルトの良い妻になるに違いない。
それをわかっていながらやはり何も言わずにいるのは、本当は誰にもレオンハルトを奪われたくないという、醜い女の嫉妬心ゆえだった。