デスペラードその五 不幸をまといし絶世の美女 ⑤
◇◇
羽柴秀吉はあまりの驚愕に飛び跳ねた。
それもそのはずだろう。
朝起きてみたら、いるはずの二千もの兵たちが、一切消えていたのだから――
「半兵衛! 半兵衛はおるか!?」
彼は寝間着のまま廊下を駆け抜け、転がるようにして半兵衛のいる部屋へと飛び込んでいった。
するとそこにはすでに身支度を終えた竹中半兵衛が、静かに座っていたのだった。
秀吉はその姿を見て、もう一度飛び跳ねたのである。
なんと、竹中半兵衛は『甲冑』に身を包んでいたのだから……。
「は、半兵衛? その格好はなんじゃ? 誰と戦をするつもりなのじゃ?」
その問いに対し、半兵衛は何でもないようにさらりと答えたのだった。
「無論、相手は城尾家。千鬼城を攻め落としに行って参ります」
「な、なんじゃとぉぉぉ!!?」
顔色一つ変えぬ竹中半兵衛に対し、天地がひっくり返ったかのように驚く秀吉。
わずか半歩の間に夜と昼が入り混じっているかのような光景だ。
そして竹中半兵衛は続けた。
「そこで秀吉様にお願いしたい儀がございます。」
「な、なんじゃ? わしでできることなら何でもいたそう」
「はい、一つ伝言を頼まれていただけますでしょうか?」
「伝言? 誰にじゃ?」
眉をひそめる秀吉に対し、冷たい微笑を浮かべた半兵衛は、驚くほど低い声で告げたのだった。
「お市の方でございます」
と――
………
……
昼過ぎ――
わずかに雨足が弱まったところで、茶々とお市の方の会談は始まった。
当然、門吉たちは会談の場には招かれず、部屋の外でじっと待機している。
そのうちの一人。茂助なる門吉と同い年の少年が、そっと門吉に耳打ちしてきた。
「いやに静かだと思いませぬか?」
雨の音ばかりに気を取られていた門吉。
茂助の言葉に、はっとした面持ちで周囲を見回した。
「確かに、人が少ないですね……」
目に入るのは武器も持たぬ小姓や侍女ばかり。
兵らしい兵はほとんど見当たらない。
「きっともう帰ってしまったのだろうよ。はじめから戦をする気などなかったんだろ。それより無駄口叩いていると、侍にどやされるぞ。もう黙ってろ」
茂助と門吉の二人をたしなめるように、5人の少年たちの中ではもっとも年長者の松右衛門が言う。
二人は弾けるように背筋をピンと伸ばして姿勢を正した。
そうしているうちに、部屋の襖が勢い良く開けられると、中から猿のような顔をした小さな男が、ゲラゲラと大笑いしながら出てきた。
「あとは親子水入らずでのう! カカカ!」
誰に聞かせるでもないのに、わざとらしく大声をあげながらその場を立ち去っていく小男。
その背中を門吉は不思議そうに見つめていた。
いつの間にか、雨が強くなり出している。
水たまりに降り注ぐ音があまりにも大きくて、門吉の中から小男の存在が薄れていった。
そして、小男が立ち去ってから四半刻(約30分)ほど経った時だった……。
――スッ。
と乾いた音とともに襖の開いたのだ。
退出を報せる一声がかけられなかったことを不審に思いながらも、門吉は慌てて平伏する。
すると目に入ってきたのは4人の足であった。
1人は茶々であるのは間違いない。
だが残りの3人分の足に、門吉は見覚えがなかった。
こっそりと視線を上げて、それが誰なのかを確かめてみる。
その瞬間。門吉は一人の女性に目が釘付けとなってしまった。
灰色の空の下、昼間なのにまるで夜に差し掛かったかのように暗い一帯に咲く光の大輪。
しかしその光は決して太陽のように白や橙ではなく、黒に似た紫色をしている。
この世の人とは思えぬ美しさもさることながら、門吉の心を奪ったのは、その女性の中にとある人物を見出したからだ……。
「母上……」
思わず言葉が漏れる。
だが、すぐに横で平伏していた松右衛門が小声で彼を叱った。
「これっ、門吉! 畏れ多くも、織田信長公の妹君であるお市様に向かって、『母上』とは何事か。頭を下げい!」
松右衛門から首筋あたりをぐいっと抑えつけられて、廊下にひたいをこすりつける門吉。
すると頭上から絹のような細い声がこだましてきたのだった。
「ふふふ。よいのですよ。確かにわらわは三人の子の母ですから」
慈愛に満ちた声に門吉の体が硬直する。自分でもどうなっているか分からない幸福な浮遊感に、平伏したまま浸っていた。
しかしそれも束の間、廊下をすり足でかけてくる音が近づいてきたかと思うと、女の小さな声が聞こえてきた。
「みなさまの雨具にございます」
――雨具? かような日に遠出でもなさるおつもりなのだろうか……?
そんな風に不思議に思った直後、聞き慣れた声が聞こえてきた。
「皆の者。千鬼城へ帰るのじゃ!」
平伏していた門吉たち5人が一斉に顔を上げる。
しかし目の前の光景に、全員の顔が一様に青ざめた。
なんと茶々、お市の方、それにそれぞれ幼子を抱えた侍女2人の4人ともが、みな雨具を羽織っているではないか。
そして誰かが何か言い出す前に、お市の方からその理由が聞かされたのだった。
「茶々の気がすむまで、わらわたち家族全員で千鬼城で過ごすことにいたしました。これは羽柴殿から申しつけられたことでございます。つきましては、みなでここを出ますよ」
門吉の目が大きく見開かれ、自然とその視線は茶々へとそそがれた。
彼の視線を満面の笑みで受け取った茶々は弾けるような声で言ったのだった。
「これからは母上、お初、お江と一緒に暮らせるのじゃ!」
初と江というのは、侍女が抱えている二人の幼子のことで、茶々の妹のことだ。
門吉は彼女たちの話も何度か茶々の口から聞いたことがあった。
つまりここに揃っている三人は、いずれも茶々の家族であり、一家そろって千鬼城で暮らすことを許されたということになる。
――かようなことがあり得るのか……。
いかに世のことを知らぬ門吉であっても、最低限のならわしくらいはかじっているつもりだ。
わざわざ『敵の城』に、人質となる者たちを送るなど、正気の沙汰ではない。
強まる雨の音が余計に不安をかきたてる。
だが、門吉はそれを口には出来なかった。
できるはずもないではないか。
少女とその母親の、無邪気な喜びを表した無垢な笑顔を目の当たりにしてしまっては……。
行きに茶々が乗ってきた駕籠には、茶々と次女の初の二人が入る。
秀吉によって用意されたもう一つの駕籠には、お市の方と生まれたばかり江が入った。
そして千鬼城からやってきた5人の少年たちは二手に分かれて駕籠を持つことにしたのだった。
廊下を下りて、晩秋の冷たい雨に打たれるが、高鳴り続ける心臓に門吉の体は熱を帯びていく一方だ。
……と、その時。
なんと、彼の目の前にお市の方の白い手が差し出されたのだ。
「わらわもここから下りましょう。手伝ってもらえますか?」
目を丸くする門吉に対して、ニコリと微笑むお市の方。
ふいを突かれたかっこうとなった門吉が、どうしてよいのか戸惑っていると、隣の松右衛門がひじでつついてきた。
門吉は、はっと我にかえり、恐る恐る手を伸ばす。
わずかな距離なのに、すごく遠くに感じられたのは、極度の緊張の最中にあったからだ。
そしてついに彼女の手に触れた瞬間……。
門吉の腹の底から、得体の知れぬ何かがぶわっと頭のてっぺんまで昇ってきたのだ。
その『何か』は、鮮やかな色どりをもって記憶を呼び戻していく。
そうして遡った記憶がたどり着いたその場所は……。
「おっかあ……」
彼が物心つく前に触れた母の手のぬくもりであった……。
ひとりでに涙が溢れ出てくる。
しかし門吉の頬を濡らしているのは雨であると、その場の誰もが思っていたのだろう。
誰も何も門吉に声をかけることなく、お市の方がゆっくりと廊下から外へ出るのを見守っていた。
そうして彼女の両足が完全に大地に降り立った直後、彼女は再び門吉に声をかけたのだった。
「ありがとう……。えっと……名をうかがっておりませんでしたね」
「門吉でございます!」
「ふふふ、門吉殿。立派な手をしておりますね」
そこまで会話をしたところで、お市の方は侍女と松右衛門に連れられて前を進んでいく。
だが、門吉は茫然としたまま動けないでいたのだ。
まるで夢でも見ている心地であった。
「名を覚えてもらえてよかったな、門吉!」
バシッと茂吉に肩を叩かれ、我に返る。
そして彼は茂吉と共に茶々たちが乗る駕籠のそばまでやって来た。
駕籠の片棒を担ぐ。
ずしりと肩にのしかかってくる重さにも、彼はどこか宙に浮いているような心地であった。
思えばこのわずか一カ月の間に、門吉は様々な幸運に巡り合ってきた。
初めて誰かに頼られ、自分の料理に皆が喜んでくれた。
時間も忘れて、夜が更けるまで誰かと一つのことに没頭したのも初めてのことだ。
自分とは天と地ほど離れた身分の人に「友達でいてくれ」と声をかけられた時は、思わず涙が出てきてしまったくらいに嬉しかった。
異性の友人もでき、親友とその友人の恋の行方が気になって仕方ないことも幸せの一つ。
そして今、母の温もりを感じる人に名前を呼んでもらえた。
身寄りもなく、何も持たぬ自分が、こんなに幸せでよいのだろうか。
自然と足が軽くなり、前方の茂吉が「早すぎるって!」と悲鳴をあげている。
それを聞いて、心の底から愉快そうに笑えることが、もったいない気すらしてしまう。
――生きるとは、かくも美しいものなのでしょうか。
灰色の空を見上げ、心の中で亡き母へそうたずねてみた。
返事はない。
でも、母もまた幸せそうに微笑んでいてくれている気がして、胸がまた熱くなる。
「見えたぞー! 第一の橋だ!」
前を行く駕籠を担いでいる松右衛門の大声がした。
門吉は駕籠から少し顔をそらすと、霞がかった雄大な千鬼城が目に入ってくる。
城の中にいる人は見えぬが、きっとみな自分たちの帰りを待っていてくれているのだろう。
そう思えただけで、体から疲れが吹き飛んでいった。
人生は確かに美しい。
だが……。
同時に儚い――
――わあああああっ!!
突然沸き上がった喊声に、全員の足がぴたりと止まる。
――ドドドドドドドッ!
地響きのような足音が四方八方から聞こえてきた。
「な、なにごとだ!?」
橋の手前まできていた松右衛門が悲鳴にも近い声をあげた。
門吉は駕籠を担いだまま、ちらりと背後に目線をやった。
その瞬間だった――
目に飛び込んできたのは、無数の旗。
明らかに『城尾家』のものではない。
頭で考えるより、口が勝手に動いていた。
「てきしゅううううううう!!」
急いで駕籠を下ろす。
未だに状況がつかめていない茂吉に対して、門吉は鋭い口調で命じた。
「茂吉!! 背負うぞ!!」
「お、おう!!」
「茶々殿! ごめん!!」
――バッ!
駕籠の前垂れを素早く上げる。
怯えて言葉を失っている初を、口を真一文字に引き締めて抱きかかえている茶々。
門吉が一つうなずくと、茶々は力強い口調で言った。
「わらわは自分の足で走れる! お初を頼んだぞ!」
「はいっ!」
茂吉が初を背負い、門吉は茶々の手を取った。
汗ばんだ小さな手。しかし絶望はまだ感じられない。
その理由は門吉でも分かっていた。
『希望の城』が茶々の大きな瞳にも映っていたからだ。
前方ではお市の方も駕籠から下りていた。
彼女は心配そうに茶々の方を振り向く。
茶々は母の視線を感じたところで、大声をあげた。
「母上!! 茶々とお初は平気でございます!! とにかく前だけ向いて走ってくだされ!!」
――強い御方だ……。
門吉が感心していると、茶々は手を強く握ってきた。
「おじちゃぁんのとこに帰るのじゃ!」
微かに震えているのが彼女の手から伝わってくる。
門吉は一つ深呼吸をすると、茶々を引っ張り走り出した。
「絶対に帰りましょう!!」
「うん!!」
降りしきる雨を切り裂く大声とともに、二人は風となって城へと向かっていったのだった――




