デスペラードその五 不幸をまといし絶世の美女③
◇◇
――いいかい、茶々。淡海を見てごらん。人々がどんなに争おうとも、天下の行方がどうなろうとも、いつも静かに堂々と水をたたえている。茶々もいつか淡海のようになるんだよ。誰よりも穏やかで、何にも動じない、そんな強いおなごになって、母上や妹たち、そしていつか生まれる茶々の子どもたちを守るんだ。いいね?
織田長益が和平の使者として小谷城に入った時のこと。
茶々の父であり、浅井家当主の浅井長政が、茶々の頭をなでながらそう言い聞かせていたのを、彼は鮮明に覚えていた。
わずか4歳の幼子に、父の言葉のすべてを理解できるとは思えない。
それでも彼女は無邪気な笑顔となって、父に対して何度も首を縦に振っていた。
――わらわは父上も母上もだいしゅき! だから淡海になるんだもん!
その言葉を聞いた浅井長政が、血で血を洗う戦場に身を置いている戦国大名とは思えないほどに優しい穏やかな顔を彼女に向け続けていたのが、とても印象的だったという。
そのわずか数カ月後だ……。
小谷城が炎に包まれたのは――
「嫌じゃ! 嫌じゃ! わらわは御父上のそばにいたいのじゃ! 離せ! 離しておくれよ! うわああああ!!」
城攻めの寸前で救出された茶々。
織田軍の本陣から抜けだして単身で城に戻ろうとする彼女を、織田長益は必死に止めた。
まるで嵐の日の湖面のように荒れ狂う彼女の様子に、見る者は涙を禁じ得なかったという。
そうして明け方になって城が完全に焼け落ちたところで、茶々は意識を失った。
その直後だ。
浅井長政の変わり果てた姿が発見されたのは――
目を覚ました茶々が父の死を聞かされたのは、近江から離れ、岐阜に入ってからのことだったらしい。
それから毎日、彼女は涙にくれた。
――なぜじゃ? なぜ、父上は信長殿に殺されたのじゃ!? わらわは父を殺した信長殿のいる城になどいたくない! ここから出しておくれ! 淡海のそばにいたいのじゃ!
朝から晩まで、通る人すべてにそう声をかけていたのを、織田長益はただ遠くから見つめるより他なかったそうだ。
そしてある日のこと。
それは茶々からの突然の申し出だった。
――わらわは『せんきじょー』に行くのじゃ! 行きたいのじゃ!
誰に吹き込まれたかは分からない。
しかし彼女が、千鬼城に行けば何かが変わると思いこんでいたのは、織田長益が見ても明らかだった。
そしてついに織田信長から許しが出た。
千鬼城へ見物に行ってよい、と――
………
……
港への道すがら。織田長益が俺と摩央ねえに語ってくれた顛末は、聞いているだけでも吐き気をもよおすほどに凄惨なものだった。
何よりも茶々の気持ちを想像すると、胸が締め付けられて苦しい。
その一方で、家族を愛してやまない彼女が母親が来ていたにも関わらず会えなかったと聞いたら、どれほど落胆するか、気がかりで仕方なかった。
俺の曇った顔をちらりと見た織田長益が、背中を押すような力強い口調で声をかけてくれた。
「大丈夫。それがしは誰よりも茶々殿のことを見ております。許してくれるに違いありません!」
俺は「それがしは誰よりも茶々殿のことを見ております」というくだりにロリコンの狂気を感じたが、そんな野暮なことは胸の奥にしまいこんで、素直に頭を下げた。
「ありがたいお言葉。感謝いたします」
そう固い口調で言った瞬間、背中に強烈な張り手が飛んできた。
――バシィィィィン!!
「ぐはあああっ!!」
あまりの衝撃に、一瞬だけ心臓が止まり、大きな川が見えたじゃねえか。
あれは絶対に三途の川だったぞ!
言わずもがな無慈悲な殺人未遂犯は、摩央ねえだ。
彼女は何でもないような顔をして言った。
「そんな情けない顔しないの。堂々としなさい! 堂々と」
呼吸が変になったままの俺は、彼女を睨みつけることしかできない。
そうこうしているうちに、こちらに向かって大きく手を振っている茶々の姿が目に映ってきたのだった――
………
……
茶々の反応は意外すぎるほどに冷めていた。
「母上にお会いしたかったょ」
と、しみじみと言った彼女に対し、俺は頭を下げた。
「ごめんな。騙すようなことをしてしまって」
「おじちゃぁんは悪くないょ。大人がお話するところに、子どもはいてはならぬと父上も言ってたから」
「そうか……」
もしかしたら彼女の頭の中は俺が考えているよりも、ずっとシンプルなのかもしれないな。
いや、『純粋』と表現するのが、ぴたりと当てはまるだろう。
先程までの笑顔を一変させて、今にも泣き出しそうにうつむく彼女は、純粋に母親を求めているに違いない。
織田信長憎しで自分から飛び出してきたのはいいものの、1ヶ月も経てば、それは母親を求めるのは当然と言えば当然だ。
むしろ甘えたい盛りの4歳児が、1ヶ月もの間、家族と離れて暮らしていながら、寂しい顔色一つしなかったのだから、よほど強い芯の持ち主なのだろう。
「母上……。ううっ……。会いたいよぅ……」
ついにすすり泣きを始めた茶々。
だが、つい昨日決めたばかりだ。
彼女と織田長益の二人を『人質』として城に留め置くことを……。
俺は織田長益と目を合わせ、互いにその意志を無言のうちに確認した。
どうやら彼も昨日と考えは変わっていないようだ。
ならば彼女に告げねばならないことは、たった一つ……。
――今、茶々がこの城から去れば、俺たちは織田信長に殺されてしまう。だから、もう少しここにいてくれないか。
ということ。
俺は一歩彼女の方へ踏み出して口を開こうとした。
しかし……。
そんな俺の前に、一人の少年が躍り出てきた。
「城尾様! 畏れながら、この門吉の願いを聞いてはもらえませんでしょうか!?」
あまり自分から前に出てくるタイプではない門吉。
彼がぐいっと身を乗り出してきたので思わず面食らってしまい、生返事で返した。
「あ、ああ。どうした?」
門吉はペコリと一礼した後、ぐっと眼光を強めて願いを口にし始めた。
「茶々様を母上様に会わせてあげてくだされ! この通りです! お願いします!」
茶々が泣き止んでしまうほどの気迫のこもった大声に、賑やかな港が一瞬だけ時が止まったかのように静寂に包まれた。
その静寂を破ったのは居初 又次郎だった。
彼は門吉の肩を荒々しく掴むと、俺の前から彼を引き離した。
「門吉! てめえ! ちょっと城尾殿と仲良くしてもらっているからって調子に乗るんじゃねえ!」
まさに『赤鬼』の異名にふさわしい恐ろしい形相で門吉を叱りつける又次郎。
しかし門吉は口を真一文字に結び、変わらぬ強い意志を瞳にこめている。
「なんでえい!? なにか言いたそうじゃねえか! なら言ってみやがれ! もしろくでもないことなら、ここから追い出してやるからな!」
「居初殿……。そこまではしなくても……」
と俺が軽い気持ちでたしなめたその時。
門吉は目から大粒の涙を流しながら訴えてきたのだった。
「私はおっかあのことを何も覚えておりませぬ。おっかあがどんな顔だったのか。どんな格好をしてたのか。どんな子守唄を聞かせてくれたのか。ただ一つ覚えていることと言えば、この手を握ってくれた時の、優しいぬくもりだけでございます!」
再びしんとなる一同。
門吉は嗚咽をこらえながら続けた。
「母上様がすぐ近くまで来られている。ならお会いになるべきです!」
彼の親代わりの又次郎が、苦しい顔つきで彼をいさめようと試みる。
「もうやめよ! ここはお主のような者が出る幕ではない!」
しかし門吉は首を横に振り、てこでも動かぬと強い意志を示しているではないか。
俺は又次郎を片手で制しつつ、門吉に問いかけた。
「門吉。聞かせてくれ。どうしてお主がそう思うのか」
門吉は流れる涙を止めようともせず、声を一層張り上げて答えた。
「母親というものは、いついなくなってしまうのか、分からないからです! どんなことがあっても絶対に忘れないように、目に、耳に、全身に母上様のことを焼き付けてくだされ! この通りです!」
最後はなんと、泣き崩れながら茶々に頭を下げた門吉。
その痛々しいほど真っ直ぐな姿に、俺たちはみな言葉を失っていた。
そして俺の気持ちは大きくゆらいでいたのだ。
つまり、たとえ城や俺たちが危うくなろうとも、彼女を母親と引き合わせてあげたいと、思い始めていたのである。
だが……。
「甘すぎる。今、茶々殿がお市の方に会えば、あの猿みたいな顔をした小男の思うつぼ。千鬼城を燃やし、護たちに腹を切らせたいなら、会わせればいいさ」
と、場に冷水を浴びせたのは摩央ねえだった。
茶々がさっと顔を青くして俺に大きな瞳を向けてくる。
「わらわが母上にお会いしたら、おじちゃぁんは死んじゃうの? お城は燃えちゃうの?」
「そんなことはない。安心してく……」
「綺麗事言ってんじゃないよ。茶々殿と長益殿がこの城から出た直後には、この城は数万の大軍で囲まれるだろう」
俺の言葉を遮ってくる摩央ねえ。
俺はとっさに言い返した。
「でもそんなのわかんないじゃないか!」
「そういうヤツなんだよ。織田信長って男は。お前も知っているだろう? 護。又次郎殿の話を聞いたお前なら」
淡々とした彼女の言葉に、又次郎の顔つきが険しくなった。
俺もまた彼の話を思い起こし、言葉を失う。
すると摩央ねえは、茶々のもとまで足を運ぶと、彼女に目線をあわせるように低くかがんだ。
そして優しい口調で問いかけ始めたのだった。
「茶々殿は母上のことが好きかい?」
茶々がコクリとうなずく、
その様子を見てから、摩央ねえは続けた。
「では、護のことは好きかい?」
茶々がちらりと俺を見る。そして頬をわずかに赤らめて、大きくうなずいた。
その瞬間。隣の織田長益から「無念じゃ……ハァハァ」と聞こえた気がしたのだが無視しておこう。
そして摩央ねえはさらに続けた。
「もし茶々殿が母上と会って、そのまま城を出ていったなら、護が困ってしまう。でも、逆に茶々殿が母上と会ってから、この城に戻ってきたなら、母上は今よりもっと悲しむだろう。それでも母上に会いたいと言うのだな?」
茶々の顔がくしゃくしゃと歪み始めた。
俺は彼女の肩に手を置いて、摩央ねえを見上げながら口を尖らせた。
「これ以上、茶々を苦しませないでくれ!」
「護は黙ってな! これは茶々殿がつけなきゃならない『けじめ』なんだ! この城に逃げ込んできた限りは、彼女が選ばねばならない道なんだよ!」
摩央ねえは唇を噛み締めながら涙を流す茶々の頭にそっと手を置くと、これまでで一番優しい言葉で告げた。
「茶々殿は強いお方だ。あの織田信長に喧嘩売って、ここに駆け込んできたんだからね。だからきっと選べるはずさ。自分の意志でね。私もここにいる護も、茶々殿が自分で選んだ選択を責めはしない。だから、後悔だけはしない選択をするんだよ。いいね」
そして彼女は俺の方へ視線を移すと、有無を言わせぬ強い口調で締めくくったのだった。
「護。これは姉ちゃんからの命令だ。茶々殿がどんな選択を取ろうとも。この先ずっと彼女の味方であり続けること。いいね」
……そんなの命じられるまでもねえだろ。
摩央ねえもまだまだ俺のことを分かってないようだ。
俺は茶々と顔を見合わせると、彼女の小さな頬に手を当てて、そっと涙を拭った。
そしてゆっくりと、心を込めて伝えたのだった。
「茶々。好きなように生きるんだ。俺も千鬼城も、いつでも茶々の味方だから。思いっきり生きてくれ!」
と――




