デスぺラードその五 不幸をまといし絶世の美女 ①
◇◇
佐久間信盛を総大将とした織田軍が攻め込んできてから、およそ1ヶ月が経過した頃。
俺は伊予丸と城主の間にこもり、戦で消費した物資の数や、不足分の調達などの事務処理に日々忙しくしていたのだった。
事務処理に1ヶ月も?
と疑われても仕方ない。
いかんせん大変だったのだ!
はじめは文字すらまともに読めなかったのだから……。
じいや伊予丸がいなかったら、何もできなかったのは間違いない。
彼らの助けもあって、ちょっとずつ文字も分かるようになってきたのは、かなり大きな進歩だと思う。
さらに、今が『天正元年11月』であることも知ることができた。
天正元年は西暦で直せば1573年のこと。
同年の9月に小谷城が落城し浅井長政がこの世を去っているから、それからおよそ2カ月後ということになる。
織田信長は、時の室町幕府の将軍、足利義昭によって築かれた『信長包囲網』による窮地を脱して、再び版図拡大に舵を切り始めた頃だ。
織田長益が言っていた通り、史実の通りであれば長島で蜂起した一向一揆の平定に忙しくしていることだろう。
そして2年後には長篠の戦いで武田軍に壊滅的な打撃を与え、その翌年には琵琶湖畔に雄大な城、安土城を建てるはずだ。
千鬼城や俺がこの時代にいることによって、歴史は変わっていくのか、それともまったく変わらないのか、俺には見当もつかない。
だから今は目の前に存在する人々と共に懸命に、そして楽しく生きていこう。
そう心に決めたのだ。
………
……
1573年11月中旬――
この日、千鬼城にとって新たな試練の始まりを告げる人物が、織田家の使者として訪れてきた。
もっとも直接会わずとも、彼らが要求してくる内容は火を見るより明らかというもの。
――今すぐ降伏して茶々を返せ。さもなくば徹底的に叩きつぶす。
だろう……。
織田信長が長島の一向一揆を鎮圧するために最終的に動員した兵数は7万と言われているらしい。
もし仮に、彼が本気で千鬼城をぶっ潰すためにそれだけの兵数を動かしてきたとしたら……。
ひとたまりもないな……。
そんな風に背筋を凍らせながら、織田長益と共に大広間へと入っていく。
すると、そこには小奇麗な格好をした小さな男が一人でポツンと座っていた。
彼が織田家の使者なのだろうか……。
その割にはずいぶんと貧相な感じが否めない。
俺が怪訝そうに彼に視線を向ける。
しかしその小男は、そんな俺の視線などものともせずに、織田長益の顔を見つけるなり、ぴょんと飛び跳ねてこちらへ駆け寄ってきたのだ。
「かかか! これは、これは織田長益殿! お久しぶりじゃのう!」
「げっ! お主は! それがしはお主が苦手なんだ! こっちへ近寄るでない!」
あからさまに織田長益が嫌そうな顔をしたにも関わらず、小男は彼の肩に自分の腕をかけてニタニタといやらしい笑みを浮かべている。
「そうつれないことを言いなさんな。お主は茶々殿、わしはお市様。『愛』のために、協力し合うと誓い合った仲ではございませんか」
「そ、それは酒の席でつい……!」
「かかか! 細かいことはどうでもよいではありませんか! 仲良くいきましょう! 皆が仲良くすれば、戦もなくなるっちゅうことじゃ! かかか!」
なんだ……? この男は?
城主である俺を置いておきながら、既に場の空気を我が物にしてしまっているではないか。
ただ者ではない……。
その予感はこの直後、みごとに的中することになる。
彼はようやく俺に視線を移すと、さっとその場でひざまずいた。
そして天井を震わせるような大声で名乗りを上げたのだった。
「申し遅れました! 城尾殿! それがしは羽柴藤吉郎秀吉と申します! 以後、お見知りおきを!」
「なに……!? 羽柴……秀吉だって……!?」
思わず腰が抜け、その場にへたりこんでしまった俺。
摩央ねえに見られでもしたら「あんたはいつまでたっても情けない男ねぇ」と鼻で笑われるだろうが、それも仕方ないというものだ。
だって、羽柴秀吉と言えば、あの『豊臣秀吉』のことなのだから……。
教科書でしか見たことがない人が現れたのは、言ってみればテレビの中のスーパースターが突然目の前にやって来たくらいに、あり得ないことだと思うのだ。
「かかかっ! 城尾殿は面白い御方じゃのう! 安心なされよ! わしは鬼じゃあない! 取って食ったりなどせんからのう! かかかっ!」
屈託のない笑顔を俺に向ける羽柴秀吉。
しかし天地がひっくり返ったほどの動揺から落ち着くまでは、相応の時間が必要だった――
………
……
――この城、織田家に譲ってはもらえぬかのう! なあに、悪いようにはせん! 城尾殿やご家族の無事も約束しよう! じゃから、お願いじゃ! この通り!
秀吉の要望は単純明快なものだった。
無論、俺が首を縦に振らないとふんでいたことは、その要求だけつきつけて、さっさと帰ってしまったことからも明らかだ。
しかし彼が『ただ』で帰るはずなかった……。
――明日、またここ参りましょう。その際にお返事を聞かせてくれれば、結構でございます。なお、茶々殿に会わせたい御方を連れてまいりますので、ご同席をお願いいたしたく。では!
さて……。
わずか4歳の茶々に会わせたい人物とは、いったい誰なのだろうか。
もはや考えるまでもない。
彼女の母親に違いない……。
「やり方がえげつないな」
秀吉が立ち去った後、織田長益と二人になった俺は顔をしかめた。
一方の織田長益は、ひょうひょうとした顔で言葉を返してきた。
「これが彼のやり方でございます。裏を返せば、まともな攻め方ではこの城は落とせないと判断したのでしょうな。していかがなさるのでしょう? 明日、茶々殿をこの場に同席させるおつもりか?」
「うむ……」
俺はあごに手を当てて考え込んだ。
もし茶々とお市の方が対面したとして、果たして何が起こるだろうか。
十中八九、お市の方は「織田信長のもとへ共に帰りましょう」と促してくるに違いない。
仮に茶々が母の願いを受け入れたなら、自然と織田長益もまた織田家へ戻ることになる。
そうなれば残されるのは、織田家に弓を引いたままの千鬼城のみ。
織田信長とすれば、何のしがらみもなく徹底的に攻め込めることが可能になるだけだ。
もしかしたら最初からこれも『想定内』だったのかもしれないな……。
だからあえて先の戦いで敗北した。
その事実さえあれば、茶々たちを手元に戻しても、千鬼城へ攻め込む大義名分は残り続けるからだ。
敗北をも己の策のうちの一つ。
だとすれば大勢の味方の『死』さえも、彼の術中だったと言える。
どこまで冷血に勝利のみを追求してくるのだろうか……。
恐怖と共にわずかな尊敬の念さえ覚えさせるあたり、英傑と称するに相応しい人なんだろうな……。
「城尾殿?」
ふと織田長益が声をかけてきた。
俺ははっとして、手をひらひらさせて「すまん、考え事をしていた」と謝る。
すると彼は意外なことを口にしはじめたのだった。
「茶々殿を同席させるのはおやめなされ」
「えっ? それはどういう……」
俺が目を丸くしたところで、織田長益はぐっと表情を引き締めて、膝を進めてきた。
「羽柴殿が茶々殿を同席させようとしている意味。城尾殿もお分かりであろう」
「ええ。茶々が織田信長の住む岐阜から離れたところで暮らせることを条件に、織田家へ戻るよう働きかけてくるでしょうな。彼女の母親を使って……」
「ならば、茶々殿を明日の会談に同席させれば、どういう結果になるか、それもお分かりでしょう」
「きっと彼女は母親の情に打たれて、ここを出ることを決めるでしょう」
「ではなぜ、羽柴殿は茶々殿とそれがしをこの城から出そうとしているのか、お分かりか?」
その問いに、パンと頬を張られたかのような衝撃が走った。
そうか……。
なぜだ?
なぜ茶々と織田長益の二人を城から引き離そうとしているのか?
もし彼女らが織田家にとって『厄介者』であったならば、容赦なく城へ攻めかかってくるはずだ。
それなのにどうしてこんなまどろっこしいことをしてきたのだ?
しばらく考え込んだ後、ふと一つの答えが浮かび上がってきた。
「茶々と長益殿の二人を巻き込みたくない……。そういうことか……」
その理由は分からない。
もしかしたら信長の妹であるお市の方に対して、信長自身が後ろめいたものを感じていて、これ以上彼女を苦しめたくない、という温情なのかもしれない。
それとも茶々と織田長益の二人は、この先も天下布武への『道具』として利用価値があると踏んでいるのかもしれない。
どちらにしても、織田信長が全力で千鬼城を攻められない理由が、「彼らがこの城に存在しているから」というのはありえなくもないのだ。
織田長益はそのことを俺に思い起こさせた。
……となれば、彼の考えがおのずと導かれてくる。
俺は顔を青くして彼を見つめていた。
その視線を真正面から受け止めた織田長益は、かすかに口元を緩め、さらに顔を近付けてきた。
「そこまでお分かりならば、話は早い。城尾殿。もう覚悟を決めねばなりませぬ」
「覚悟?」
「ええ、茶々殿と城を守る覚悟でございます!」
彼の『覚悟』という言葉が胸の奥にズンと響き、思わずゴクリと唾を飲み込んでしまった。
俺が何か口に出す暇さえ与えない織田長益は、俺の耳元まで顔を近付けると、低い声で締めくくった。
「城を守るため、茶々殿とそれがしの身を利用なされよ。それがしらが城にいる限り、兄上は全力で城攻めをしてくることはないでしょう」
それは端的に言ってしまえば、こういうことだ。
「茶々と長益殿の二人を『人質』として、この城に留めおけ……。そういうことですか……」
俺から少し離れた織田長益は、小さくうなずいた。
ドックン、ドックンと心臓の鼓動が大きくなっていく。
しかし、もはや迷う余地など残されていなかった。
相手はかの『天下人』羽柴秀吉なのだ。
生半可な覚悟では、あっという間に腹の内を見透かされてしまうに違いない。
俺はぐっと腹に力を込めると、織田長益に深々と一礼したのだった。
「千鬼城と城尾家、そして茶々殿のため。ご協力くだされ」
と――
………
……
城尾護と織田長益が、明日の会談に向けて協議を重ねていた頃。
千鬼城からほど近い小さな城に羽柴秀吉が帰ってきた。
今、彼はここを『千鬼城攻略』の拠点としているのである。
そこには彼の腹心、竹中半兵衛の姿もあった。
まるで平時のように穏やかな表情で書を読む半兵衛に対して、秀吉は大きな声をかけた。
「さてさて、『城尾護』殿は、どう出てくるかのう? 正直に茶々殿を出してくるかのう!?」
まるで勝負事を楽しむかのような秀吉の嬉々とした口調をたしなめるように、半兵衛は冷ややかな調子で返した。
「出してくれば儲けもの、くらいにお考えいただくのが良いかと」
「なーんじゃ! 半兵衛! つまらんのう! では初めから『茶々殿は出てこない』とふんで、わしに『茶々殿に会わせたい者がいる』と言わせたというのか!?」
「ええ、もちろん。『不意打ち』は卑怯でございますゆえ」
「かーっ! お主は甘い! 甘すぎる! それではこっちの手の内を明かしているのも同じではないか!」
「ふふ、手の内を明かしたからこそ意味があるのです」
「どういうことじゃ?」
「事前に手の内を明かしていたにも関わらず、ご母堂に会わせてもらえなかった。そのことを、本人が後から知ったら、果たしてどうなるでしょうな」
微笑を浮かべる半兵衛の顔を穴が空くほど見つめていた秀吉の顔がみるみるうちに真っ赤に染まる。
そして、大きな口を開けて大笑いをはじめた。
「かかか!! そういうことか!! 茶々殿と城尾殿の間を引き離すには手段を選ばぬか! お主も悪よのぅ! 半兵衛!! かかか!!」
いつまでも続く秀吉の笑い声。
彼に合わせるように半兵衛の口元も緩んでいる。
しかしその目は決して笑っていなかった……。
なぜなら秀吉さえも気付かぬ『おぞましい未来』を見据えていたからだ。
半兵衛は秀吉の耳に届かないくらい小さな声でつぶやいたのだった。
「千鬼城の大手門……。これで破れたも同然でしょう」
と――




