君の好きな本を買おう
図書館に行こうと思ったのはほんの気まぐれだった。
普段の私は図書館などとはさっぱり無縁なタイプだった。好きな教科は体育、嫌いな教科は五教科全部。部活は陸上競技で、身体を動かすのが快感でたまらない。典型的な脳筋である。
そんな私がどうして図書館に行こうと思ったのか。
理由は単純、故障したのだ。別に機械が壊れたわけではなく、スポーツマンの方だ。すなわち具体的に言えば、ハムストリングスが肉離れた。ストレッチを怠ったつもりもないし、変な動きもしていなかったはずだ。
それなのに。
まったく、やるせない。
これでは跳べないではないか。
肉離れの治療の基本はほっとくこと、イコール激しい運動は厳禁だ。今日も本来は一日中練習する予定だった。今の時期はシーズンオフだが、シーズンオフの練習が一番大切なことはスポーツをやってる人なら分かると思う。ここを頑張らないとシーズン中での伸びは見込めないし、調整も上手くいかない。一年のうちで一番キツいが、その分重要な時期だった。
しかし午前中に肉離れを起こした私は、帰宅して医者に診てもらうことを命じられ、しぶしぶそれに従った。
するとどうなるか。
練習もない。この時期の整形外科なんてがらっがらだ。つまり診察もさらっと終わる。
結果、時間が余る。
いつも一緒に遊ぶのは部活仲間ばっかりだからみんな練習中で忙しい。家でごろごろしようにも、母親の勉強しろビームが辛い。事実宿題すらやってないし、期末テストも近い。補修回避のためにちょっとでも勉強しとけば楽になるのは明らかだ。
私だって診察を受けていたときは、ちょっとだけ勉強しようかなぁ、なんて気にもなっていた。ほんとにちょっとだけ、ほんのちょっとだけだけどさ。
しかし、しかしだ。
母親に言われて、そんな気は消し飛んだ。世界の果てまでイッテQしてしまった。今からやろうと思ってたのに、なんて言うのもバカらしい。
勉強しなさい?はあ?言われてやるとでも思ってんの?そんなわけないじゃん?んん?
と、いうわけで勉強するのはなくなった。
運動もできず、友達とも遊べず、勉強もしない。
なんと、やることがない。そうは思うものの、家でごろごろしようにも母親の視線が不快だ。微妙に監視されてる感が気に入らない。
とりあえず私は家から出た。
さあ、どうしよう。
外は寒い。上は着込んでるし下は日頃から慣れてるから気にならない、と言えばそうなのだけど、やっぱり室内よりは断然寒い。となると、どっかに入りたい。が、一人で店に入るのは嫌だった。
休日の昼から女子中学生が一人でショッピングっていう状況は避けたかった。周りにどう映るのかは分かり切ってることだし、クラスの子と会ったりしたら最悪だ。冗談抜きで最悪だ。
そこで私は室内で一人で居ても不自然じゃなく、そこそこ楽しめる場所ということで、近所の図書館に行くことにしたのだった。確かあそこの図書館は漫画もちょっとだけ置いてたはず。もしそれがなくても陸上の本でも読めば有意義に過ごせるだろう。
私って天才!オー、アイムベリーワイズ!
図書館に入るとそこは案の定程よい室温で、一人の女の子も少なくない。テストが近いのも追い風だったのかもしれない。パッと見渡した感じだと知り合いもいない。とにかく、良環境だ。
漫画のコーナーを探したが、古臭いものばかりで特に読みたいものもなかったので、幅跳びの本を手に取って席に着く。
同年代が固まっているあたりを見つけたが、周りは勉強していて少しばかり居心地が悪いそうだ。でもこの辺以外だとおじさんおばさんが多くなってしまう。それはさすがにごめんだ。こっちの方がまだまし。仕方ない。
密集しすぎていなく、過疎りすぎてもいない席を取る。隣の女の子はよく見ると、クラスで虐められていた香川さんだった。ここ数日は収まってるみたいだけど、なんとなく近づき難い。
軽く会釈だけして席に着き、とりあえず本に目を通す。
私は結構な本嫌いで教科書を読んでいても眠くなってしまうのだが、幅跳びの本だからか、さくさくと読めた。
へえ、こんな練習法あるんだ、今度やってみようかな。あ、これなら今の私でもできるかも。うーん、やっぱり空中動作をもっと綺麗にできないとなぁ……。
身体を脳内でシミュレーションしてみたりして、かなり熱中して読んでいた。お尻がちょっと痛いと感じるくらいまで、ずっとだ。
んー!
心の中で声を出して背伸びする。図書館でもこれくらいは許されるだろう。たぶん。いや来ないから知らないけど。
出かけた涙を拭き取っていると、自分の前の方の席に男子が座っているのが見えた。本を読んでいる。
あれ、私の前って誰かいたっけ……後から来たのかな。
私服だから分からないが、たぶん同い年くらいだ。下手したら同級生かもしれない。
私もそういう年頃なので鑑定を開始する。
顔は整っている方で、どちらかというとイケメンに分類されると思う。でもすごくイケメンって感じでもない。微妙だ。微妙だが、黒縁の眼鏡をかけていて、本を読んでいるのも相まって賢そうだ。
どこかで見たことあるような気がするんだけどなー……。
きっと、同じ学校だと思う。学年は……どうだろう。うち人数多いし、同学年も把握できてないかも。でも見たことある気がする。でも名前も何も出てこない。もどかしい感じだ。
そのもどかしさを解消しようと凝視していたら、その男子が眼鏡をくいっと上げた。私はちょっとビクッとして本を開いて読んでいるフリをする。
びっくりした。ばれたのかと思った。
よく考えてみれば名前も会ったことがあるかも怪しい男子をジロジロと見るなんて、あまり褒められたことではない。相手も実は気づいていて、うざがられてるかもしれないし。
心の中で謝りつつ、本に目を落とす。
……。
…………。
集中できない。
さっきまではあんなにのめり込んで読めていたのに。どうしても前の男子をチラ見してしまう。気になる。
その後もチラチラとその男子の様子を伺っていたのだが、結局分からずじまいだった。
その男子が本に紐を挟んでパタンと閉じると、腕時計をさっと見た。時間になったのか、眼鏡を外し、ケースにしまってそれを鞄に入れた。
「あーー」
思わず声が出ていた。
香川さんにちょっと怪訝な顔をされるが、愛想笑いで受け流す。
わかった。
眼鏡かけてて分からなかったけど。
雰囲気違うくて分からなかったけど。
仲だ。仲雅也。
同じ学校どころじゃない。
もろ、クラスメイトだ。
仲雅也。二年D組。帰宅部。身長はたぶん高めで細め。顔はどちらかというとイケメン。クラスのムードメイカー的存在。言動がアホっぽい。山田とよく一緒にいる、気がする。
仲について私が知っている情報はこれくらいだった。普段からの接点はない。皆無だ。
それでも分かるのは、図書館で本を読むようなタイプじゃないということだ。休みの日は友達とカラオケとかボーリングとかで遊んでそう、そんなイメージだった。実際言動はアホそのもので、この前も体育の授業で裸足でテニスして怒られていた。しかも理由がその方が身軽になるから、というもので先生も呆れていた。
そんなやつがどうして図書館にいたんだろう。
眼鏡をかけていたし、パッと見た感じだと超インテリっぽかった。秀才くんみたいな雰囲気だった。仲だと気づけば違和感しかないのだが。
「……明日も図書館行こうかなぁ」
どうせやることもないし。
私はなぜかそんな気になっていた。
仲は今日もいた。
しかも昨日と全く同じ席だ。何か拘りでもあるんだろうか。
私はというと、二日連続で図書館に行く私を怪しがる母親を振り切り、今日も図書館に来ていた。昨日と同じ本を取り、同じ席に座る。香川さんはいなかった。
来たはいいものの、これといってやりたいことがないことに気づく。本を読もうにもやっぱり集中できない。
私は本を読むことを諦め、何か他のことをすることにした。何しに図書館に来たんだろ、私は。仲に合うためか?いやいや、片想いでもあるまいし。ま、そりゃちょっとは気になるけど、好きってほどじゃない。ただいつも雰囲気違うクラスメイトがいたら気になるでしょ?普通。
私はむかしから周りのみんながいいって言ってる人が好きになる傾向があった。初恋は小学校のとき、クラスみんなの憧れだった渡辺くんだったし、中学に入ってからいいなと思ったのは陸上部の先輩の岡垣先輩だった。先輩を好きな子も多かった。
それに比べたら仲はおちゃらけてるし、ノリも軽くて女子のあいだでも友達止まりって子が多い。遊ぶにはいいけど、付き合いとなるとちょっとなぁ、みたいな。付き合いたいって子もちらほらいるけど、大人気にはほど遠い。
むしろ仲がいつも絡んでる山田の方が大人気って感じだ。すごいイケメンだし、サッカー部のエースだ。高三の先輩が引退したらキャプテンになるって話を聞いたこともある。
とにもかくにも、仲は私の好みじゃない。もっと落ち着いていて、知的な人の方がいい。まあ今の仲はそういうと好みなのかも……いや!いやいやいや!ないない。ないって。
……こほん。
一旦落ち着こう。
別に私は仲が好みかどうかを確認しに来たわけじゃないよね?
だけど、何をしに図書館に来たんだと言われると、困る。
困った私は、仕方なく仲を観察することにした。
なんか小さめの本を読んでる……。『若きウェルテルの悩み』って書いてある。当然のごとく聞いたことないタイトルだ。あ、左腕に腕時計をつけてる。耳の形はそこそこかなあ……。
などと観察を続けていると、仲が腕時計を確認したときにチラッと左を見た。本棚のある方だ。
何かあったのか、仲は本を閉じて、それを机に置いたまま席を立った。そしてすたすたと本棚に向かう。その先にいたのは、杖をついたおじいちゃんだった。
おじいちゃんは何やら上の方にある本を取りたいようだが、届かないみたいだった。仲はそのおじいちゃんと一言二言話すと、ひょいと本を取っておじいちゃんに渡してあげた。また少しだけ話して、仲は自分の席に戻った。
おじいちゃんは満足気にそれをカウンターに持っていった。
私はその一部始終を見て、惚けてしまった。
仲、めちゃくちゃいいやつじゃん……。
困っている人を見つけても、実際に手を貸してあげるのはとても難しい。見知らぬ人に話しかけていくというのはそこそこ緊張するものだし、自分の勘違いだったってパターンもある。
それをごく自然に、当たり前のようにやってのけた仲は尊敬するしーー
すごく、かっこよかった……。
今日の一件ではっきりと分かってしまった。
私は仲を意識してしまっている。クラスメイトとしてではなく、男の子として。好き……とまではいかないけど、ただの知り合いでなくなったのは確かだった。
見た目も雰囲気も声も耳の形もまったく好みじゃないのに。むしろああいうおちゃらけたタイプは苦手なのに。
ずっと見ていたいって思ってしまう。
考えるだけで、無性にドキドキする。
ドキドキするけど、なぜか幸せで。
心が温まっていく感じがする。
「明日からまた学校か……」
仲を見るのが、楽しみで……。
だけどちょっとだけ不安だった。
私の最大の懸念は、私が見ていたことが仲にばれていることだったのだが、それは杞憂に終わったらしい。仲はいつも通り、山田含めるグループで仲良く談笑している。私のことを気にかける様子は微塵もない。
私の席からはそのグループが見えるのだが、図書館でのように仲を凝視するわけにはいかない。周りの目もあるし、仲も気づきやすいだろう。
仲のアホっぽい態度を見ていると、図書館の仲は本当に仲なのか疑わしくなってくる。もしかしたら他人の空似だったんじゃないの、と。
でもその疑念もすぐに解消された。腕時計だ。全く同じ腕時計をしているのだ。さすがにここまで来れば偶然で済ませられることではない。ついでに耳の形も同じだ。でも眼鏡はかけていないから、普段はコンタクトなのかもしれない。眼鏡、似合ってるたのにな。ちょっと残念だ。それなのに、眼鏡をかけた仲を私だけが知っているというのは不思議と嬉しかった。
そうこうしているうちに授業が始まった。
私は成績はやばいが、別に不真面目というわけではない。きちんと授業は聞くし、ノートも取る。ときどき睡魔に負けそうになるけど、無防備な寝顔を晒すわけにもいかないため、必死に耐える。しかしその耐えているあいだのノートは、後から見返しても文字が汚すぎて読めない。あるある。
なのだけれど、今日に限っては眠くもないのによく手が止まる。恥ずかしいことに、理由は明白だった。無意識のうちに仲を見てしまっているのだ。いつもはユルい仲だけど、授業中はしっかり聞いているみたいで、その横顔が図書館にいた仲を彷彿させるのだ。
おかげで授業にさっぱり集中できなかった。また志保にノートを写させてもらうことになりそうだ……。
得意の体育でもそれは同じだった。
女子はバスケ男子はテニスだったのだが、バスケコートとテニスコートが隣接しているため、お互いにプレイしているのが見えてしまう。
つまり、仲がテニスをしているのが見えてしまうのだ。
帰宅部なはずなのに全体的にスラッとしていて、筋肉がついているのが服越しにも分かる。寒いのにいまだに半袖なのは仲らしいけど、そのせいで晒されている前腕は男らしく、動くたびドキドキしてしまう。ときどき袖がめくれて覗く上腕も綺麗に引き締まっているし、胸元の鎖骨や喉仏も男らしくて目が吸い寄せられてしまう。
一度見入ってしまうと、バスケなんて集中できるわけもない。周りに、調子悪いの?と心配されてしまうくらいには集中力が切れていた。
そんなこんなで午前中を終え、昼休みになった。
昼ご飯をさっさと済ませて志保にノート写させてもらおうと思い、無心にお弁当を食べていた。
「なんでそんなにがっついてんの、摩耶」
「ふ?」
顔を上げると、そこには志保の姿があった。
「たまには一緒に食べない?」
志保は手に持っていたお弁当をちょいと上げる。私は急いで口に頬張っていた卵焼きを飲み込んだ。
「いいよー」
私が返事をする前に志保は椅子を確保し、私の机にお弁当を並べていた。
志保は陸上部の友達だ。高跳びをやっていて、幅と同じ跳躍種目なので仲が良い。志保は山田のグループで食べていることが多いから、昼休みを一緒に食べるのは珍しい。
「なんかあったの?」
志保が一緒に食べようというときは、だいたい陸上部の恋バナを持ってくることが多いのだ。今回も誰か進展があったのだろうか。
「何かって……そりゃあ、あるでしょ」
志保は怪しげな笑みを浮かべる。
「摩耶と雅也のこととか」
「!」
ななななんでばれてっ……!?
「あははっ、図星?だよねぇ」
「な、なんで?」
私たちは声のトーンを下げてこそこそと喋る。
「だって、摩耶ずっと雅也のこと見てるから。何かあんのかなーってだけ」
「……ひっかけられた」
「別にひっかけじゃないってー。分かりやすい摩耶が悪い」志保もご飯を食べ出す。「で、何かあったの?」
「む……いや、別に大したことはないんだけど」
「大したことじゃないことはあったわけね」
「いやそんな……」
恋バナのときの女の子のしつこさは半端ない。
特に志保はこういうのが大好きで、どこから仕入れてくるのか、あの子とあの子がどうとか、その子とその子はどうだとかいうのを知り尽くしている。とうとう私もその被害者になってしまったわけだ。
当の志保は美人だから告白されまくってるらしいが、全て断っているという。なぜなら志保は筋金入りのレズだから。曰く、自分が男と付き合うのはあり得ない、だそうだ。なかなか理解に苦しむ。
何はともあれ私と仲のことだ。
しかしこれが本当に大したことじゃない。図書館で会った、いや会ってすらいない。見ただけなのだから。
そのことを言うと志保はがっかりした様子で、
「なーんだ、それだけ?」
「それだけってなによ、言わせたくせに……」
「いやもっとすごいの想像してたから」
「なんでよ」
「それに摩耶って一目惚れするタイプじゃないし」
「ひっ……!?ちゃ、ちゃうわ!」
「なんで関西弁やねん」
「でも、仲はそういうのじゃないと思う……たぶん…………」
「絶対そんなことないでしょー」
「なんで?」
「そんなことないにしては摩耶の視線が熱すぎるから」
「あっ、熱くない!」
「いやいや、やばいよ。雅也の近くにいる私でも分かるもん。まさに野獣の眼光だよ」
「や、野獣て……」
「うん、確実に首取りにいってるね。仕留めにかかってるね」
「そ、そういうんじゃないからっ!」
「……ふーん?」
「なんかムカつくなその反応!」
「まあまあ、野獣摩耶落ち着いて」
「だから違うって!」
「はいはい」
「はいはいって……!」
「ほら、もうお昼休み終わるよ?お弁当早く食べたら?」
「あっ……」
気付けばもう昼休みが終わりそうで、机の上にはまだ四分の一くらい残ったお弁当が残されていた。当然、私のものだ。志保に振り回されて全然食べられてなかった。癪だけど志保の言う通り早く食べた方が良さそうだ。
「あ、そうだ」
私を言いくるめ、上機嫌で去ろうとしていた志保が声を上げる。
私は口にご飯を詰め込んでいるため返事ができない。視線だけ志保に向ける。
「雅也は今フリーだよ。というかいつでもフリー。趣味の合う子が好きって言ってたかな、たぶん。じゃ、がんばれ!」
「ゲホッゲホッ!」
ご飯が変なところに入ってむせる。咄嗟にお茶を流し込み、事無きを得る。
「だっ……だからそういうんじゃないって言ってるでしょ!」
志保は振り向いて、満面の笑みを浮かべて自分の席に戻っていった。
「もう……」
私は志保の言っていたことを思い返しながら、お弁当の処理を急いだ。
趣味の合う子、か……。
帰り道、私は駅の本屋に寄ることにした。
別に志保の言ったことが気になったわけじゃない。じゃないけど……仲の読んでいた本が気になったのだ。
タイトルを検索にかけ、出版社と著者などを確認する。もちろんのことながらよく分からないので、店員さんに頼り切りだ。
漫画以外の本を買うのなんて、いつ振りだろう。すぐには思い出せない。それくらい前だということだ。中学のときは……たぶん買ってない。小学校なら……買ったかもしれないが、もう覚えちゃいない。その頃から休み時間は男子と混ざってドッヂやらサッカーやらしてたから、まともに読んでいないと思う。我ながら脳筋すぎる。
店員さんにほいほいとついていくと、「これですか?」と本を差し出された。
『若きウェルテルの悩み』
その小さめの本の表紙にはそう書かれている。
「こ、これです!ありがとうございます」
「いえいえ、またご用があれば声をかけてください」
くたびれた感じの店員さんは、にこにことしてレジの方へ戻っていった。
本は手にちょうど収まるくらいだ。いわゆる文庫サイズというやつだろうか。
仲もこれを読んでたんだ……。
そう意識するだけで、なぜか心の奥がフワッと暖かくなる。ずっと感じていたいような暖かさだ。渡辺くんと一緒に遊んだときも、岡垣先輩に声をかけられたときも、こんな気持ちにはならなかった。もっと激しいものだった気がする。
これは何なんだろう……?
私はあえて考えないようにして急行に飛び乗った。
本自体はおもしろい。読書嫌いの私でもウェルテルの叶わない恋の行方が気になってページをめくってしまうし、ストーリー展開に引き込まれてすっと感情移入してしまう。
しかし、私は読むのが遅い。とにかく遅い。そして集中力もない。
家に帰って意気込んで読み進めるも、私の意識はページ下に五十の数字も見ないうちにフェードアウトしてしまったのだった。
その日から私の戦いは始まった。
家ではもちろんのこと、登下校の電車内、昼休み、果てには休み時間の十分休憩の時間までも読書につぎ込んだ。実際本の続きは気になるし、クラブも満足にできなければやりたいことも他にはあまりなかった。志保にニヤニヤされたり、他の陸上友達からは心配されたりもしたが、幸か不幸か仲に気づかれることはなかった。
とにもかくにも、読了しようと真剣に努力した。こんなに本を読んだのは生まれて初めてかもしれない。でもそれは苦痛ではなかった。いや、むしろ楽しかった。『ウェルテル』もおもしろいし、何かをやり遂げようとするのは心が満たされて心地いい。
でも、それ以上の何かがあったことも私は直感的に分かっていた。分かった上で、意図的に意識しないようにしていた。
あっという間に土曜日になった。
本に挟まれた栞は、真ん中よりちょっと進んだくらいだった。
敗因は睡魔の強さだった。これに尽きる。もはや睡眠薬よりも効果があるんじゃないの、ってくらい。いや私が弱いのか?とにかく、昨日の夜も本を読んでいたはずなのだが、いつの間にか眠りに落ちていたのだ。起きてから昨日読んだところを探して栞を挟むのが日課になりつつある。ちょっと楽しいのがなんか腹立つ。
私はとりあえず部活に顔を出した。ストレッチや体幹トレーニング、ベンチプレスなどできるメニューをこなした後、整形に向かう。所詮ただの肉離れだ。診てもらえますか、ああ順調ですね、はい終わり。そんなもんだ。
そして私は先週と同じくまた暇になる。だが一つ違うのが、今日は暇潰しに何をするのか決まっていることだ。
図書館に行くのだ。
どうせ本を読むのだから、図書館の方が睡魔も弱体化するだろうというのが二割。親の視線がないのが三割。残りの五割は仲と会えるかもしれないという期待だ。
私はやっぱり仲のことが好きなのかもしれない。でも今までのとは違う感覚に、確信することはできなかった。
そもそも好きって、こんなに不確かなものだったかな。なんだかもっとしっかりがっしりしてて、それがエンジンになって走り回れるような、そんなイメージだった。好きなのか、好きじゃないのかなんて分からない時点で好きではないんじゃないかと思ってしまう。
そもそも仲を好きになる理由がない。私の好みなわけでもなければ、個人的に付き合いがあるわけでもない。
でも私は仲に会えることを期待して、図書館に行っている。
どうして?
私自身にも分からない。
分からないけど……図書館に行くことが、私にとって心踊ることであるのは確かだった。
いたーー。
図書館に着き、いつものスペース辺りを覗くと、そこには先週と全く同じ席に眼鏡をかけた仲が座っていた。今日は香川はんもいた。
私は気づかれないように注意して自分の定位置に着き、鞄から『ウェルテル』を取り出す。栞が挟まれたページを開きつつ、仲を覗き見る。
今日も仲は本を読んでいた。ただその本のサイズがちょっと大きくて、先週読んでいた『ウェルテル』ではないようだった。というか私が言えたことではないが、期末の勉強はいいんだろうか。仲は補修で見かけたことはないし、日頃からやってるのかな。学校での仲しか知らなかったら絶対ないと言い切れるけど、図書館での姿を見ると賢そうに見えてくる。この『ウェルテル』だって書いてる人はドイツ人だし、私みたいな一般ピーポーが読む類の本じゃない。実はかなり賢かったりして。志保なら知ってるかなぁ。
周りは静かでみんな自分のやっていることに集中しているのに、私は相変わらず読書に集中できないでいた。原因は当然仲だ。無意識のうちにチラチラと見てしまう。
そうしていると、私の右の方で携帯が鳴った。私じゃない。さすがにマナーモードにしている。
パッと右の方を見ると、五十くらいのおっさんが大声で電話を始めていた。
はぁ……。
周りはみんなおっさんを盗み見ていた。香川さんも、私もその一人だった。
図書館は静かに本を読む場所だ。そんなことは常識だし、私たち学生だってちゃんと守ってる。でもときどき電車でこのおっさんみたいな大人を見かける。
こいつはここがどこだか分かってるのか?
おっさんは長いこと喋り続ける。しかも大声で、ちょっとキレ気味だ。気持ち悪い。視線に気づいてないわけがないだろうに。その視線はおっさんから一番近い場所にいる私にも突き刺さる。
一番近い人が止めなさいよ、みたいなあの雰囲気だ。
私がその他大勢だったら、たぶんそうしてるだろう。他人に任せられることは任せる。触らぬ神に祟りなしとはまさにこの事だ。そして大抵はその任せられた人も何もできなくて、こういう無理が通るのだ。
……よし。
やるか。
ほぼ同じ立場の香川さんは怯えているのか顔色が悪くなっていて動けそうにないし、非常識なおっさんは気に食わない。
私は本を閉じながら静かに立ち上がる。おっさんは私のことを気に留める素振りも見せない。まだ電話を続けるおっさんに、私はできるだけ笑顔で近づく。
周りが私を見守っているのが分かる。見守っているというよりは、おもしろがっている感じだろうか。
「あの……静かにしてくれませんか?」
おっさんにギリギリ聞こえるくらいの声で話しかける。おっさんは私を見下し、手に持っていたガラケーを耳元から離した。
「黙っといてくれへんか、電話してるさかいに」
ピキッ。
「だから、図書館で電話してはいけませんよ」
「かかってきたんやからしゃーないやろうが」
ピキピキッ。
「出て行くとか、折り返しとかするべきだと思うんですけど」
「もう電話してねんから黙っとれや」
「……っ!」
そこそこ我慢強いと自負している私もさすがに限界が来そうだった。
なんなんだよこのおっさんっ……!信じられない!
思わず手が出そうになったその瞬間だった。
「周りに迷惑なんで、止めてもらえます?」
私の背後から聞き覚えのある声が聞こえた。
心臓が跳ね上がる。
咄嗟に振り返ると、そこには司書さんを連れた仲がいた。その表情は、見たことないくらい険しかった。
おっさんはイラっとした顔で通話をブチッと切り、二人を睨みつける。
「なんやねんな」
おっさんはとぼけた。
仲は大きく深く溜息をつく。
「ってことなんで、司書さんお願いします」
「分かりました。お客さん、ついてきてもらえます?」
「おい、なんやねん」
司書さんはそのおっさんの腕を強引に掴むと、カウンターの方に連れて行った。おっさんはずっと司書さんにぶちぶちと文句を言っていた。
私はその一連の出来事を、突っ立ったままぽけーっと眺めていた。おっさんが奥に連れて行かれたくらいだった。
「吉川、だよね?」
「えっ、ああ、うん、そうだよ」
「助かったよ。ああいうの困るよねー」
「わ、私こそありがとう……。仲が来てなかったらどうしたらいいか分からなかったし……」
「いやいや、俺は何もしてないからさ」
仲と話すのはほぼ初めてだからか、心臓がばくばく鳴って、柄にもなくどもってしまった。しどろもどろになってしまって、そのことがまた恥ずかして赤面してしまう。
そんな顔を見られたくなくて、うつむき気味で自分の席の近くに移動する。
「吉川も図書館とか来るんだね。先週もいたでしょ?」
「え、あ、うん。ときどき」
「ちょっと意外かも……って、あ、これ」
ちょうど私の席の隣に来た時だ。仲が『ウェルテル』に気づいた。
「あっ」
も、もしかしてばれた……?
その直後、仲はそれを手にとって満面の笑みを浮かべた。無邪気な子どものような笑顔だった。
「これ、吉川のだよね!」
「う、うん」
「吉川もこういうの読むんだ!へぇ~!俺の周り話合うやつ居なくてさ」
「わ、私もあんまり読むわけじゃないんだけど……」
「よかったらさ、この後、空いてない?ちょっと喋りたいんだけど、いや無理なら無理で全然いいんだけど」
「だ、大丈夫!」
「そ、そう?じゃ、ここ出よ。目立ってるし」
驚きこそしたが、心中は嬉しすぎて逆に穏やかじゃなかった。今にも飛び出してしまいそうだった。
仲にお茶に誘われた。
そのことがあまりに幸せすぎて。
仲の言う通り目立ってはいたが、マナーの悪いおっさんを退治したカップルみたいなイメージなのか、暖かい視線が送られるばかりだった。ただそれはそれで恥ずかしいので、そそくさと撤退することにした。
その後近くのカフェに入った私たちは、本や学校について話をした。当の私は完全に舞い上がってしまって、勝手に暴走してしまったりもしたが、仲はずっと優しくしてくれた。途中、仲がやはり成績が良いことが判明して勉強を教えてもらえることになったり、中学のとき陸上をやっていたらしくその話題で盛り上がったりもした。
何はともあれ、私はこれをきっかけに明確に自覚することになった。
私は仲が好きなんだ、って。
付き合いたいとか、キスしたいとか、そんな幼稚な感情じゃない。
渡辺くんや、岡垣先輩のときとは違う。
激しくはないけど、もっと力強い感情。
心も揺り動かされるような想い。
ずっと一緒にいたい。
そう、思えた。
帰り道、私は本屋に寄った。
近くにいた店員さんに本のタイトルを告げ、探してもらう。先週と同じ、あのくたびれた感じの店員さんだった。
店員さんはパソコンにちょっと触ると、すぐに奥の方に行った。私はうきうきとした気持ちで店員さんに着いて行く。
棚の上の方から本を取り出して、私に渡した。
『アルト・ハイデルベルク』
これだ。
私は店員さんから受け取ったそれを、胸元で抱きしめる。
今日仲が読んでいた本だ。
『ウェルテル』を早く読み終わって、この本も読もう。
この本だけじゃなくて、仲の好きな本をたくさん読もう。
それで仲とその本の話をして、また次の本を教えてもらって。
本の話をするときの仲は本当に嬉しそうで幸せそうで、私まで嬉しくなるし、幸せになる。
だから私は。
君の好きな本を買おう。
君のことが、大好きだからーー。
*
その家のリビングには本棚があった。
二人の男女は、その本棚を眺めながらコーヒーをすすっている。二人は近所の図書館から帰ってきたところだった。夕日が、男のつけている腕時計で反射して、部屋にオレンジ色の丸が出来ていた。
「増えたなぁ、本」
「雅也が読みすぎなのよ」
「いやいや、そんなことないって。むかしに比べれば、読むスピードも落ちたし」
「それでも今の私より速いじゃん」
「摩耶が遅すぎるんだよ」
「これでも速くなったんだけど」
「別に速いほうがいいってわけでもないよ」
「速くならないと雅也と同じ本を読めないじゃない」
「まあね。でも俺の後に読んでもいいんじゃないの?」
「嫌よ」
「なんで?」
「だって、すぐに雅也と話したいもの」
「だからってなぁ……。そのせいですぐ本棚が埋まっちゃうんじゃないか」
「やっぱり雅也が読みすぎなのよ」
「……そういうことにしとこうか」
二人は同時に微笑んで本棚を眺める。
その本棚には、二冊ずつ同じ本が並べられていた。
ご覧いただきありがとうございました!
『回らない地球』シリーズ二作目になります。
恋に恋していた女の子が、本当の恋を知るお話でした。
この作品もタイトルを思いついて後からストーリーを考えていったもので、普段本を読まない女の子が想い人の好きな本を読んで気を惹こうとして……というのが大筋でした。
他にも眼鏡のギャップ男子を出せたり、陸上を絡められたりして満足です。
私は陸上部に所属していたのですが、陸上部に入っていると微妙に筋肉の名称に詳しくなったのは私だけなんでしょうか……。
とまあそんな感じの恋愛ものでした。
この話を読んで、キャラクターがかわいいと思ったり、ほんわかしたりしてくださったなら嬉しいです。
それでは最後までありがとうございました!