ある男のはなし
男が目を覚ますと、そこは一面の花畑でした。
心地よい風が吹き、温かい日差しが降り注ぐ、まるで楽園のような花畑です。
男はむくりと身を起こすと、すこしぼんやりしていたようでありましたが、意識がはっきりしてくるにつれて目が覚める前のことを思い出したのか、深いため息を吐きました。
「今度こそ、うまくいくと良いんだがなあ……」
男はそう独り言を言うと、歩き始めます。
一歩歩くごとに花びらが舞い、彼の周りにまとわりついたあと、風に流されていきました。
しばらく行くと、霧が深くなり、どこからかさらさらとせせらぎの音が聞こえてきました。
視界が悪くなっても、男の歩みは止まりません。
迷いのない足取りで進んでいくと、男の目の前にぼんやりとした人影が見えてきました。
せせらぎの音は、すぐ近くまで迫っています。
「よう、船番」
男は気安く人影に声をかけました。
人影は、男の方を向いたようですが、霧が分厚いのでよくわかりません。
男が近づくにつれ、人影がはっきりしてきました。
曲がった腰、しわくちゃの顔、白い髪、枯れ木のように細い手足。
老人が、嫌そうな顔で、男を見ていました。
「おまえさん、またきたのかい」
老人は、しわがれた声で男に話しかけます。
男はにこにこと笑いながら老人に答えました。
「ああ、今度こそいけるかと思ってね」
「残念だが、大王様はまだお怒りだ。向こう岸に渡すことはできないよ」
老人はそう言うと、深いため息をつきました。
「おまえさんを送り返すのも、何度目だろうね」
「諦めが悪い質なんでね」
男は肩をすくめ、それを見た老人はとても嫌そうに顔をしかめます。
そのまま、老人はゆっくり後ろを向き、言いました。
「まあ、とりあえず、おくるから乗ってけ」
老人は、少し先にぼんやりと浮かぶ船を指さします。
男は、疲れたように笑いました。
霧の中を、木造の船が揺れながら進みます。
霧が深いせいなのか、水面が全く見えません。
老人は時折古ぼけた櫂で霧の中をかいていましたが、水音は全くなりませんでした。
男も老人も、ずーっと黙っておりましたが、ぽつりと老人が口を開きました。
「……そーら、ついたぞ」
その声に、男はふうとため息をつき。
「……はあ、今度は、向こう岸につけるといいな」
と、呟きました。
そして、船から飛び降りたのです。
船は大きく揺れましたが、水音はしませんでした。
老人はしばらくそこに佇んでおりましたが、やがて、船を逆の方向へ漕ぎ始めました。
男が目を覚ますと、ホッとしたような顔をした救急隊員が目に入りました。
「気が付きましたか?」
「……ここは」
「救急車の中です。あなたは車に轢かれたんですよ。覚えていますか?」
「……あー」
男は、呻くと、誰にも聞こえないように呟きました。
「また、死ねなかった」