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I was dreaming

作者: 北館由麻

2011年東日本大震災チャリティ電子書籍プロジェクト『One for All , All for One ……and We are the One~オンライン作家たちによるアンソロジー~』(VOL.4)に掲載されていた作品の再掲載となります。

 風が真正面から強く吹きつけてくる。それに時折砂粒も混じるが、騎乗の身であるため手綱を放すことはできない。目から大粒の涙があふれ、それが風にさらわれていくのを、私は他人事のように感じていた。

 首だけを後方に回し、その隙に大きく息を吸う。後方に追手の姿を見つけるなり、鞭を振り上げる。馬は短くいなないた。

 もうすぐこの道は険しい山道となる。ここまで詰め寄られてしまっては、逃げ切れるはずもない。馬も私のために懸命に駆けてくれたが、これ以上の全力疾走は無理だろう。

 複数の蹄の音が背後に迫る。そして私にも決断のときが迫っていた。

 思い切って手綱を拳で握りしめると、馬は従順に速度を緩め、やがて停止した。

 追手の数はちょうど10騎。馬首を巡らせながら、彼らを一人ずつ睨みつける。

 連中のうち、口髭をたくわえた眼光の鋭い男が前に出た。

「小娘のクセに逃げ出すとはいい度胸だ。しかしどこへ逃げる気だ? お前をかくまってくれる人間など、この世にはもう誰一人としていないはず」

「黙れ!」

 この薄汚い追手の隊長と思われる男を一喝する。だが相手は余裕の笑みを浮かべたまま、私を憐れむように言った。

「そういう勝気なところは嫌いじゃない」

「ふざけるな! 私の家族を返せ!」

「お前がお前の全てを差し出せばいい」

 怒りではらわたが煮えくり返る思いだ。しかし男の言葉に反論したくともできないでいた。私の家族の命がかかっている。だから逃げ切れるはずもないことは最初からわかっていたのだ。それでもあの城でただじっとしているのは我慢ならなかった。

 私は愛馬を歩かせた。今しがた駆けてきた道を戻る。追手の連中も私を包囲しながらついて来た。口髭の男が隣に馬を並べてくるのを目の端で確認し、大げさにため息をついてみせると、男は満足げな声で言った。

「観念したのか。いい心がけだ。難しいことじゃない。領主様の言うことを素直に聞けばいいのだから」

「無駄口を叩けぬよう、その唇を縫いつけてやる」

 感情を押し殺して吐き捨てる。男は私をバカにしたようにフッと笑った。

「なぁに、ほんの少し我慢すればいい。今、歯を食いしばれば後でいくらでも楽しい想いができる。俺の言うことが信じられないか?」

「黙れ」

「お前だって本当はわかっているはず。逃げ出したら後でもっとひどい目に遭う。いいや、取り返しのつかないことになる、と」

 私は口髭の男が視界に入らないように、頑なに目を背けていた。男が言っていることは正論だった。だから引き返すことにしたのだ。

「まぁ、たとえ地の果てまで逃げようと、俺は必ずお前を捕まえてみせる。逃げても無駄だとよく覚えておけ」

 男は自信たっぷりにそう言った。横目でその姿を確認すると、身に着けているものはみな思ったより上質で、こんな小隊の隊長にしては不釣合いにも見えた。そして口髭のせいでわからなかったが、意外に若い。

「領主様がお待ちかねだ。お前に大事な話があるようだぞ。楽しみだな」

 ニヤリと笑う男の顔から、それが朗報ではないと容易に察しがつく。もっとも脱走を試みた私に、よい知らせが飛び込んでくるはずもないのだが。

 そうとわかっていてもしばらくの間、濁ったおりのようなものが心の奥底に居座り続けた。


 ◇◆◇


 廊下には人だかりができていた。

 その人ごみから少し離れて、壁に貼り出された縦長の紙をぼんやりと見つめた。近づいて見なくとも、当然自分の順位は知っている。ただ私の今いる場所を確かめるために、わざわざ廊下に出てきたのだ。

「49って、不吉な数字だな」

 隣に人の気配を感じると同時にそのセリフが降ってきた。

 胸がドキッとしたけど、私はわざとゆっくり真横にいる男に目線を合わせる。首は最小限しか動かさないので自然と彼を睨む形になった。

「ラッキー7、おめでとう」

「別に嬉しくない。今回手ごたえあったのに」

 悔しいという感情がむき出しのセリフに私はイライラした。

「いいじゃない。どうせ数学はトップなんだし」

 隣の男はフンと鼻で笑う。

「当たり前だ。お前に負けたあの日以来、俺は誰にも負けていない」

 私も負けじとフンと笑ってやった。

「今思い出しても笑っちゃうわ。数学が苦手なこの私に負けた、あのときのアンタの顔」

「……お前、俺に口を塞がれたいんだな」

「そんなわけないし。それに……」

 言葉の途中で、男の向こう側をわざとらしく見る。

「アンタの嫁、ずっと見張ってるし。もう離れてよ。言いがかりつけられるのは迷惑なんだから」

 実際、人ごみの向こう側でふんわりとしたパーマ頭がこちらを窺っていた。隣の男は目の端で彼女の姿を確認したらしい。だけど立ち去るどころか、わざわざ私の顔を覗き込んでくる。

「……だから?」

「え?」

「俺にはお前と話をする自由もないわけ?」

 グッと言葉に詰まった。胸の中で様々な想いが交錯するが、結局口を開くことはおろか、どんな感情も表に出すことはできなかった。


 ◇◆◇


 劣化したプラスチック製のベンチに腰をおろして、読書をしながら電車を待っている。

 私は近頃、剣と魔法が出てくる異世界の物語にどっぷり浸かっていた。これはいわゆる現実逃避というヤツだ。でもどうしてもやめられない。だからあんな夢を見るのだと思う。

 深夜、受験勉強に行き詰まり、目が冴えたままベッドに入ると、決まって不思議な夢を見た。

 おそらく今読み進めている物語に影響されているのだろう。明らかにこの世界ではないどこかで、私は愛馬にまたがり疾走していた。もちろん、現実世界では愛馬どころか乗馬経験すらない。

 そしてその架空の世界で、私はなぜか過酷な運命を背負った姫としてふるまい、絶対的な権力を持つ領主とやらに自由を奪取されていた。

 急に視界が陰る。私の目の前に誰かが立っていた。

「アンタ、すごく目ざわりなんだけど」

 私は本から目を離した。ふわふわと柔らかそうな髪の毛が風に揺れる。私と同じ制服を着た見覚えのある女子が肩を怒らせていた。

 エイジの彼女、ナナだ。

「じゃあ、見なきゃいいじゃない」

「エイジのそばに寄らないでよ」

「向こうが勝手に寄ってきただけ。そんなに彼氏が心配なら鎖で繋いでおきなよ」

 私を見下ろすナナの眼光がいっそう鋭くなった。

「小学校から同じ学校だったってだけで、なにその態度? 生意気!」

「……すみませんね」

 どうして私が責められなければならないのだろう。

 怒りが私の体内を駆けめぐる。ナナの後ろ姿を睨みつけたくらいでは気が済まない。バンと乱暴に本を閉じて、ホームに滑り込んできた電車に飛び乗った。


 ◇◆◇


 エイジは私の通う小学校へ6年生のときに転校してきた。

 その頃からクラスメイトより頭ひとつ飛び抜けていて、おまけに成績もずば抜けてよかった。そして目つきは悪いが細面で綺麗な顔立ちだったため、それを妬んだ男子たちは彼に「宇宙人」とあだ名をつけた。

 転校してきたばかりのエイジの隣に座っていたのが私だった。ちやほやするクラスの女子には目もくれず、エイジはなぜか私にだけ話しかけてきた。

 そう、今日みたいにテストが終わった後、必ず私に身を寄せて、私にだけ聞こえるように。

 中学校に入ってもそれは続いた。

 だが、中学3年生になって、エイジは校内で一番人気のある女子と付き合い始めた。ショックではなかったと言いたいところだが、実際はひどく落ち込んだ。そこではじめて私は自分の気持ちに気がついた。しかし相手には彼女がいる。諦めて勉強に励んだ。

 そのおかげなのか、私はエイジと同じ進学校に合格することができた。エイジと中学時代の彼女は受験直前に別れてしまったらしく、エイジはまた私だけに話しかけるようになっていた。

 高校生になり、クラスが離れても、学年トップ50番までの氏名が廊下に張り出されると、エイジは決まって私の隣にやって来て、私の成績を確認するのだ。

 どうしてそんなことをするのだろう。彼の意図が私にはよくわからない。

 ただ、ここまでエイジに粘着される理由として、ひとつだけ心当たりがある。

 私は苦手な数学で一度だけ満点を取った。しかもそれは高校受験直前の模擬テストだった。

 黒板の前で当時の担任がなぜか得意げに私の名前を呼んだ。

 その瞬間、エイジが私を振り返った。

 あのときのエイジの顔は一生忘れないだろう。


 ◇◆◇


 それにしても彼女ができたのにわざわざ私に話しかけてくるなんて、エイジは何を考えているのだろう。

 電車に揺られて、ぼんやりとしながら今日の出来事を思い返していた。

 本当のことを言えば、すごく嬉しかった。

 だけど不甲斐ない成績のことを言われたのは悔しかった。

 高校でも常にトップ10入りしているエイジと、伸び悩む私との差は広がっていくばかり。50番からも転落しそうな私に、彼がライバル意識を燃やす必要などないとすれば、あれは単にからかっているのだろう。

 だって「俺に口を塞がれたいんだな」なんてセリフ、冗談じゃなかったらおかしいし、そんなこと言われても、私には聞き流すことしかできないのだから。

 もう、放っておいてくれないかな。

 きっとどんなに頑張ってもエイジのライバルには戻れない。そんな私がエイジの彼女に「目ざわり」と思われるのはまったくの筋違いなのだ。

 憂鬱だ。テスト、受験、就職……。

 立ち止まらず、駆け抜けなくては負けてしまう。なのに私は、幻想の世界へ逃げ出すことばかり考えている。

 現実は疲れることばかりだ。成長、成功、勝利……。それこそ幻想じゃないか。

 家に帰って早く寝てしまおう。夢の中なら、たとえ領主の城から脱走に失敗しても疲れたりはしないし、あの世界だったら、今よりもっと私らしく生きていける気がするから――。


 ◇◆◇


 領主の居城へ戻った私は、着替えを済ませると謁見の間へ連行された。その間に私の見張りは薄汚い連中から城の守衛へと交代し、私にあてがわれた侍女がおびえながら背後に控えていた。

「世話の焼ける娘だ」

 這いつくばった姿勢の私は大理石の床をじっと眺めていた。

「お前のような小娘が逃げ出したところで何ができる?」

 領主の落ち着いた声には怒りというより、むしろ慈悲深い響きがこもっていた。

「黙秘か。それもよい。だがお前の耳に入れておかねばならぬことがある。心して聞け」

 もったいぶった言い方につられて顔を上げると、領主は冷たい眼差しで私を見下ろしていた。今まで見た誰にも似ていないのだが、じっと観察しているとその顔に見覚えがあるような気もした。しかし思い出そうとすればするほど、記憶や映像があやふやになっていく。

「隣の国の王子が婚約した。南国の姫君が相手だそうな。残念であったな」

「……私には何の関係もないこと」

 喉の奥から言葉を押し出すのとほぼ同時に、内臓を引きちぎられるような痛みが襲ってきた。

「強がりだけは一人前か。お前がどうして囚われの身になったのか、少し頭を冷やして考えてみろ。この娘を西の塔へ連れて行け」

 私は目を閉じてうな垂れた。身体が鉛のように重く感じられたが、素早く両脇に跪いた衛兵たちにとって、私を担ぎ上げることなど雑作もないことだった。

 謁見の間から引きずり出された私は、西の塔と呼ばれる牢屋へ放り込まれた。


 ◇◆◇


 灰色の空を見上げてふうっと息を吐くと、白い煙が風に流された。雪を降らせる雲が頭上を覆う。もうすぐ受験生と呼ばれる学年になる私は、今日も色あせたプラスチック製のベンチに座って読書をしながら電車を待っていた。

 誰かが近づいてきて、私の手前で立ち止まった。知らないふりをしていたが、相手の視線を感じ、つい顔を上げてしまう。

 そして後悔した。

「お前、どうした?」

 細く切れ上がった目が私を睨んでいた。

 私は唇を固く閉ざしたまま、怪訝な表情でエイジを見返す。

「50番以内にお前の名前がなかった。何、手抜いてるんだよ」

 ああ、と納得した。今日は期末試験の結果発表があったのだ。わざわざ廊下まで見に行く必要がなかったからすっかり忘れていた。

「なんか言えよ」

「それが私の実力ってことじゃない?」

「お前、ふざけてるのか?」

 私を見下ろすエイジの顔が怒りに染まった。見ていられなくて目を逸らすと、エイジは踵を返しベンチから離れていく。

 無理矢理、本に目を戻す。だが何も頭に入ってこない。

 冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、ふうっとため息をつくと、私の視界は白く霞んだ。


 ◇◆◇


 この世界では、夜の帳が降りても星が見えない。漆黒の夜空は私の心と同様、入り口も出口も闇に塞がれていた。

「お前がおとなしいとつまらないぞ。何か喋ったらどうだ? ほら、隣の国の王子のことでも……」

「黙れ」

 西の塔は実質牢屋だが、私はその中でも最上級の部屋を与えられていた。しかし普通の部屋とは違い、扉に見張り用の窓がついていた。その外側からあの口髭をたくわえた目つきの鋭い男が私に話しかけてきた。

「本来ならお前が輿入れするはずだったんだろう? どんな男だ? 暇つぶしに話してみろ。聞いてやるぞ」

「お前に話すことなど何もない」

「なぁ、嘘をつくのはよくないぞ。好きだったんだろう? この国じゃ誰もがそのことを知っている」

 私は見張り用の小窓に背を向ける。

「……昔のことだ」

「そうか。もう諦めたのか。それも仕方がない。どこかの姫君と婚約してしまったんだから、何をするにももう手遅れさ。だが、お前はこの大陸で一番の美女になると言われていた。そして実際、お前は美しく育った」

「……私のことを笑いたいのなら、いくらでも気の済むまで笑えばいい」

「そうじゃない。お前だって思っているはずだ。お前の美しさに気がつかない男はバカだと。……違うか?」

「くだらないこと言うな。見た目の美しさなど何の価値もない」

「ほう。それが真実だとすれば、お前にあるのは鼻っ柱の強さだけか。それこそ何の役にも立たないとは思わないか?」

 口髭を生やした男に背を向けたまま、私は唇を噛んだ。

「お前は美人で利口なくせに、肝心なところは鈍感だな」

 男があきれたような声を出した。

「ここから脱走しようとしたお前は、少なくとも今のお前よりはマシだったぜ。だが、脱走に成功したところで結局、後はひたすら逃げ回るしかないんだ。そんな人生、俺ならごめんだな」

「私は……」

 何かを言おうと口を開いたつもりだった。振り返った瞬間、試すような男の鋭い視線が私に突き刺さる。言葉はどこかへ消えてしまった。


 ◇◆◇


 それ以来、しばらく異世界の夢は見ていない。

 読書もやめてしまった。あれほどのめり込んでいたファンタジーの世界が、急にただの絵空事にしか感じられなくなった。何よりのんきに読書などしていられる気分ではなかった。

 思い切って進路指導室を訪問したのは、春休みが間近に迫ったある日の放課後のことだ。先輩たちの合格報告に沸く校内だが、私の顔は悲壮感に満ちていたと思う。

「どうした? そんな顔して」

 進路指導室を仕切っている教師は、入学以来ずっと私のクラスの英語を担当していた。彼はパソコンに向かいながら、私に座るよう促した。

 近くにあった椅子に腰かけると、先生は私を一瞥し、ため息をつく。

「ついにお前も受験生だな」

「はい」

「もったいない、と近頃のお前を見ていると思うよ。今のままじゃ飛べない鳥になってしまうぞ。お前だって飛べるなら飛んでみたいだろう」

 先生が私の成績を気にかけていてくれたことに驚いた。

「ですが、私は一度もトップ10に入ったことがないですし……」

「今でも覚えているが、お前の高校入試の点数はトップクラスだった。英語は満点。だから強烈な印象があってな。お前のほかにもう一人いたぞ、英語で満点」

 思わず先生の顔をまじまじと見つめてしまう。

「ほら、お前と同じ中学出身のエイジ。アイツは数学も満点だった」

 唖然としていると、先生は私の目の前に一枚の紙を突き出した。

「これはな、ウチの学校で奇跡の逆転ホームランを打った先輩たちの資料だ。見てみろ。途中の成績はひどいもんだ。だが基礎のあるヤツはやっぱり強い。お前もまだ間に合う。当然、必死でやらないとダメだがな」

 私は資料の数字を見て、それから顔を上げた。

「先生、ありがとうございます」

「礼はまだ早い。勝負はこれからだ。期待しているぞ」

 たったこれだけのことだが、私の胸には俄然勇気とやる気が湧いてきた。

 進路指導室を出て廊下を歩きながら、そういえばあの先生は夢の中の領主に少し似ているかもしれない、と思った。


 ◇◆◇


 桜の季節が終わり、辺りはまぶしいほどの光で満ちあふれている。

 読書の代わりに面白い参考書を見つけた私は、電車を待つ間、いつもの古びたベンチに座ってその参考書を開いていた。

 予備校講師の授業を文章化した参考書はただ読み進めるだけでもずいぶん勉強になる。帰宅後もう一度読み返し、自分なりのノートを作るとだんだん自信がついてきた。

 春風に乗って、聞き覚えのある女子グループの声が切れぎれに耳に届く。何気なく顔を上げると少し離れた場所に同じ制服の集団を見つけた。

「それは彼がひどいよ!」

 うつむいて顔を手で覆っている女子を数人が取り囲んでいた。そのうちの一人が大声でそう言った。

「ナナは全然悪くない。受験勉強に専念するから別れるなんて一方的じゃない」

 私は驚いて女子グループを凝視する。どうやら輪の中心で泣いているのは、ふんわりとしたパーマ頭のナナらしい。仲間の女子は口々にナナを慰めている。

 だが、ナナは下を向いたまま首を横に振った。

 周囲の女子が「えっ?」とナナの言葉を訊き返す。

 嫌な予感がして、私は参考書へ目を戻した。横面に複数の視線を感じるが、素知らぬ顔で手元を睨み続ける。

 そもそも私には関係ないことだ。エイジが誰と付き合おうが、誰と別れようが――。


 ◇◆◇


 受験生になってはじめての入試模擬テストに臨むその日、少しの期待と大きな不安で私はガチガチに緊張していた。

 受験に全身全霊を傾けると決心してからは、不思議と迷うことも立ち止まることもない。しかしその覚悟を決めるまでに時間を浪費してしまったので、勉強はまだ不十分だ。だから余計に不安が膨らんだ。

 案の定、テストが終わってみれば、自信の持てる解答が半分くらいしかなかった。

 これではいけない。私はさらに受験勉強に打ち込んだ。

 ほどなく模擬テストの答案用紙と志望校の合否判定結果が戻ってくる。

「怒涛の追い上げを期待しているぞ」

 担任は私の目を見て不敵に笑った。受け取った紙切れに目を走らせる。

 校内順位、26位――。

 見間違いではないかと目を凝らして確認するが、間違いないようだ。思わず笑みがこぼれた。

 まず誰に報告しようか。そう考えて、最初に浮かんだのは母の顔だった。母は私が足踏みしている間も「勉強しなさい」とは言わなかった。おそらく辛抱していたのだと思う。

 成績が上向いたことで、きっと家族も喜んでくれるだろう。本当の受験はまだ先だけど、頑張れば成果が現れるとわかったのは大きな収穫だった。

 昼休み、頬を緩ませたまま教室の外へ出た。

 廊下に不機嫌な顔をした男子が突っ立っている。進路を塞がれた私は仕方なく立ち止まった。エイジがぼそっと言った。

「判定結果、見せろ」

「……なんで?」

「見たいから」

「私の成績なんか見てどうするの? ああ、笑いに来たんだ? いいよ、見せてあげるよ。そして笑えばいいよ」

 私はものすごく得意になっていた。だって26位なんてまさにゴボウ抜き。圏外から急にアンテナ3本エリアに返り咲いたのだから。

 スキップするような気持ちで自分の席まで戻り、飛ぶようにエイジの元へ帰ってきた。そして「はい」と二つ折りになった紙片を手渡す。

 次の瞬間、不可解なことが起こった。

 エイジはその紙切れを素早く制服のポケットにしまった。それからくるりと背を向けて歩き出す。

「ちょっと、待ってよ! それ、私の……」

 慌ててエイジを追いかける。肩越しに振り返ったエイジは、私と目が合った瞬間駆け出した。

 私は廊下を全速力で走った。

 突き当たりは階段だ。エイジは段飛ばしで上がっているのか、もう姿が見えない。手すりをつかんで駆け上がる。

 4階が最上階だが、校舎の端にあるこの階段だけは屋上へと通じていた。「立入禁止」と書かれた札と鎖は揺れていて、上のほうでギッとドアが開く音がする。鎖をまたぐか、くぐるか、一瞬迷い、結局くぐった。

「ここ『立入禁止』になってるんだよ」

 屋上に出た私は、エイジの姿を見つけると大声で苦情を言った。

 エイジは柵に寄りかかり、大きく息を吐く。

「誰も来なくてちょうどいい」

「そうじゃなくて『怒られるよ』って言ってるの」

 私はエイジに少し近づいて、中途半端な距離で立ち止まった。彼は私の言葉など聞こえないような素振りで、ポケットから紙切れを取り出した。

 胸がドキッと鳴る。

 エイジはチラッと私を見た。

「へぇ」

「頑張ったでしょ」

「まだまだ、だな」

「あのね、宇宙人のアンタと一緒にしないでよ。これでも私、頑張って……」

 ハッとして息をのむ。一気に間合いをつめたエイジが、私の肩を乱暴につかんだ。

 次の瞬間、唇が塞がれる。

 頭の中が真っ白になった。何が起こっているのか、なぜこうなったのか、全くわけがわからない。

 わかるのは、エイジが私にキスをしている、ということだけ――。

 数回瞬きをした後、エイジのまぶたが閉じられていることにようやく気がついた。こういうときは目をつぶるのだな、と慌てて了解する。

 しかもエイジの唇はなかなか離れてくれない。肩をつかむ手の力が抜けたかと思うと、彼は口づけたまま少しだけ首を傾げるようにした。角度が変わり戸惑う私の唇の隙間を、柔らかなものがこじ開けて侵入してくる。

 エイジの舌は私の唇をゆっくりと舐め取り、そして私の内側の湿った部分をじれったいほどの動きでなぞり上げた。くすぐったいような感覚は次第に甘美な刺激に変わり、ぼんやりとする頭の中はエイジのことでいっぱいになっていく。

 それは、まだ誰も踏み込んできたことのない心の内側をなぞられるような不思議な感覚だった。最初は遠慮がちだったエイジの舌が、いつの間にか私のそれに絡み、どこからどこまでがエイジで、どこからどこまでが私なのか、だんだんわからなくなる。ただ夢中で彼の求めに応えたくて、彼を追いかけて、彼を感じようとした――。


 ◇◆◇


「お前、この第3志望の大学……」

「あ、それは冗談で書いてみただけ!」

 長い長いキスの後、エイジは突然真顔で私のテスト結果をもう一度覗き込んだ。私は第3志望として記入した超難関校の悲惨な判定結果を思い出し、慌てて言い訳する。恥ずかしさで急に顔が熱くなった。

「冗談?」

「だってE判定なんて受験するだけ無駄でしょ」

 エイジは私の顔を正面から見つめてくる。

「今度から第1志望にしろよ」

「……は?」

 私はエイジが何を言っているのか理解できず、その切れ上がった目を茫然と見つめ返した。

「お前ならやれるよ」

「無謀だよ。それになんで?」

「俺の志望大学だから」

「……はい?」

「お前がいたから俺はここまで来たんだぜ? 同じところを目指さないと張り合いがないだろ?」

「ちょっと待ってよ! そんな勝手な……」

「それから」

 怒ったような声でエイジは言った。肩がビクッと震える。

「なに?」

「俺を『宇宙人』って言ったら、その場でお前の口を塞ぐからな。どこであろうと誰が見ていようと、関係なく」

 私は慌てて抗議しようと口を開いたが、ニヤリと笑うエイジの顔を見た途端、思わず言葉を呑み込んでしまった。気のせいだと思うが、この場面を前にも見たことがあるような……?

「逃げても無駄。俺は必ずお前を捕まえるから」

 クスッと笑ってエイジは私に背を向けた。

「お前、かわいいけどホント鈍感」

 デジャヴュに囚われ、まだぼんやりとしている私の耳にあきれたような声が届いた。思わず「あ!」と小さく叫ぶ。

 そうか。あの男――。

 考えたこともなかったが、もし口髭を取ったら意外に彼は美男子だったのかもしれない。それにしても王子とやらは暇を持て余す厄介な身分のようで、少し気の毒になる。

 こみ上げてくる笑いを必死で噛み殺しながら、私はエイジの背中の向こうへと目をやった。



◇ END ◇


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― 新着の感想 ―
[一言] こんにちは、早速拝見させていただきました。 主人公が現実の世界と本の世界に意識が行ったり戻ったり…ここで「エイジ」が鍵になっているようですね。 こっちでもあっちでも、エイジは主人公に好意を…
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