08
ベッドの上、遥さんの腕の中で目を閉じる。
甘い気怠さと、お互いの乱れた呼吸。
遥さんがふ、と笑って、私の額に汗で張り付いた前髪を撫でる。
その指先が優しくて、苦しくて。
このまま時間が止まればいいのに、なんて、ありえないことを思う。
そのとき、テーブルの上でスマホが震えた。
静かな部屋に着信音が響く。
しばらくは無視していた遥さんも、一向に消えない振動音に観念したようにため息をつく。
「……ごめん、ちょっと出てもいい?」
「うん、いいよ」
ごめんね、と甘く私の額にキスをして。
身体を起こしてスマホを手に取る遥さん。
表示を見て一瞬顔をしかめたあと、通路ボタンを押す。
「はい、田島です。お世話になります」
スマホを耳に当てたその瞬間から、さっきまでの甘い響きから一瞬で切り替わる。
声も、表情も。
私を構うときとは違う、社会人の、大人の遥さん。
私はシーツの端を握りながら、その横顔をぼんやり見ていた。
自分の隣にいるのに、もう別の世界の人みたいだ。
「はい、……大丈夫ですよ、空いてます。……えー、ほんとですか?私、結構飲みますからね?」
楽しそうな笑い声と、どこか退屈そうな瞳。
きっと電話の相手には、遥さんが嬉しそうに誘いに乗っているように感じられるのだろう。
「(……私も、同じようなものだけど)」
気まぐれに届くメッセージに一喜一憂して、「可愛い」なんてリップサービスに縋ってる。
わかってる。最初から。
“恋人”じゃない。
“付き合ってる”なんて誰も言ってない。
それでも、少し期待してた自分が情けない。
私だけは、少し特別なんじゃないか――なんて。
「……」
遥さんが何かをメモしてる間に、私はそっとベッドを降りた。
下着をつけて、服を拾って着替える。
鏡の前で髪を整えながら、涙がにじんでるのを見つけて慌てて拭いた。
泣くのは違う。だって、そういう関係なんだから。
「……今日は帰るね」
振り向いた遥さんが、驚いた顔で私を見た。
スマホを耳に当てたまま、「え、ちょっと――」って言ったけど、もう足が止まらなかった。
玄関を出た瞬間、張り詰めてた何かがぷつんと切れる。
雨脚は一時よりは弱まったけど、それでも止む気配はない。
22時を過ぎて、人通りの少ない駅までの道を、傘も差さずに泣きながら歩いた。
鼻もぐしゃぐしゃで、ひどい顔。
でも止まらなかった。
これは恋じゃない、「好き」じゃない、それなのに――。
「(どうして、こんなに苦しいの)」
“遊び”って、自分で納得していたはずなのに。
私、何を期待してたんだろう。
バカみたい。
雨の冷たさが、火照った身体も浮かれた頭の中も、一気に現実に引き戻した。
***
翌朝。
職場の休憩室で、遥はコーヒーを手にしたまま、ぼんやりとスマホを眺める。
あの後慌てて美咲に連絡を入れたけれど、既読になるだけで返信はなかった。
電話もかけたけれど、電源も切られてしまったらしい。
「……はぁ…」
「おはよ、今日は辛気臭い顔してるね」
「六花……」
コーヒーを片手に休憩室に入ってくる六花に、遥は
苦笑する。年下の恋人には砂を吐きそうなほど甘いくせに、同期の自分には酷く辛辣だ。
「引き際が、わかんなくなっちゃった」
「……美咲ちゃん?」
咎めるような響きに、遥は頷く代わりに肩を竦めて見せる。
六花の呆れたような視線が突き刺さる。
「連絡返ってこなくなっちゃったし、このまま切れるかも」
苦笑と共にそんなことを言うと、返ってきたのは溜息だった。
「遥は、美咲ちゃんをどうしたいわけ?」
「どうしたいって……所有物じゃあるまいし」
ぬるくなってしまったブラックコーヒーに口をつける。
苦味の中に答えを探しているような気分になるのは何故なのか。
「……その気がなくなったら切れる関係だもの、あの子次第でしょ」
「じゃあ、言い方を変えるけど。遥は、美咲ちゃんとどうなりたいわけ?」
「……。」
別にどうとも。
少し前なら、間違いなくそう答えていたであろう質問に、即答出来ない。
そんな遥を見透かしたように、六花は苦笑する。
「遥のスタンスを否定はしないけど。いい加減、向き合ってみたら?他人にも、――自分にも」
先にコーヒーを飲み終えたらしい六花が、ゴミ箱へカップを捨てに行く。フロアに戻ろうとするその背中を呼び止めた。
「……六花は、七瀬ちゃんに嫌われたらとか思ったりしないわけ?」
「私?……別れたいなんて七瀬が思えないくらいに、愛して甘やかすだけだけど」
「……はは…六花らしいね」
六花らしくて、羨ましい。
じゃあまた、と休憩室から出ていく親友を見送って。
紙コップの底に残っていたコーヒーを飲み干して、ゴミ箱に投げ入れる。
「……向き合う、ねぇ」
簡単に言ってくれるわ、と小さく呟いたその声は、苦く笑っていた。




