13
深呼吸をして、チャイムを押す。
1、2…と数を数えて、6になる前に扉が開いた。
「いらっしゃい」
「……はい」
その声を聞いただけで、胸が痛い。
いつも通りの笑顔、いつも通りの距離。
「寒かったでしょ」
マンションのドアが閉まる音が、妙に静かに響く。
その瞬間、胸の奥で何かが小さくきしんだ。
会いたかったはずなのに、泣きたくなるほど苦しかった。
ローテーブルの上には、いつものようにワインとボトルとおつまみがあった。
私が好きだと言ったチョコレートも。
私の定位置だったクッションも、ブランケットも。
何もかもが、泣いて帰ったあの日から何も変わっていないのに。
ソファに隣り合って座っても、ワインを飲んでも、肩を抱かれたり、触れられたりはしない。
キスもしない。
それだけが決定的に違っていて、もうあの頃の関係とは変わったのだと思い知らされる。
「……今日、どうして誘ってくれたんですか?」
「ん?、」
「最近ずっと……外だったのに」
不満げに聞こえてしまっただろうか。
遥さんは困ったように少しだけ眉根を下げて、ほんの少しワインのグラスを傾ける。
「私が、どうしても美咲ちゃんに会いたかっただけ」
「っ……」
私だって、会いたかった。
それでも駅前で見た“あの光景”がずっと頭から離れない。
“私の代わり”になる人は、いくらだっている。
「……ねぇ、遥さん」
口にしたらきっと、終わる。終わってしまう。
それでも、聞かずにはいられなかった。
この恋から、逃げ出してしまう方が楽だと思ったから。
「私は、もう……いらなくなった?」
「……え?」
遥さんの目が、予想外だって言うみたいに見開かれる。
初めて見る顔。
「今日、見たの…。遥さんが、仲良さそうに男の人と歩いてるところ。私はもう、いらない?キスする価値もない?」
だめだ。止まらない。
分かっているのに、喉の奥からどんどん言葉がこみ上げてきて、もう抑えられなかった。
あんなに、身体だけの関係が悲しかったのに。
いざ距離を置かれたら、もう私には遥さんにとって触れる価値すらなくなってしまったみたいで、つらくて、苦しくて。
だったらいっそ、傷つけて欲しかった。
もう要らないって、捨ててくれれば。
そうしたらきっと私だって、いい加減諦められるから。
「あの人が、私の代わり?」
問いかけながら、否定して欲しいのか肯定して欲しいのかも分からない。
何も言わない遥さん。
無言の時間に、私の方が耐えきれなくなる。
「っ……ごめん……」
視界が滲む、目の奥が熱を持つ。
逃げ出すように鞄を掴んで立ち上がる。
玄関で靴を履こうとして、腕を強く掴んで引き留められた。
「美咲ちゃん待って」
「やだ…離して…っ」
「待ってってば…!」
引き寄せられた体が、遥さんの胸にぶつかる。
驚いて息を呑む間もなく、背中に回された腕がきゅっと力を込めた。
「……お願いだから話、聞いて」
「離して…」
「嫌」
掠れた声で即答されて、息が止まる。
「あの人は仕事の関係で……向こうが勝手に距離を詰めてくるだけで、私からどうこうしたわけじゃないの」
「でも」
「でも、じゃない」
遥さんの声が少し震えている。
「そんなふうに泣かれたら、私、どうしたらいいか分かんないよ……」
抱きしめられたまま、何も言えなかった。
胸の奥で鳴る鼓動が、どっちのものか分からない。
「思わせぶりな態度とって、ごめん。いっぱい傷つけて、泣かせて、ごめん。自分勝手で、ごめん。
でも……」
遥さんが、私の頬に手を伸ばす。
久しぶりの彼女の体温だった。
指先が震えていて、いつもよりずっと冷たい。
「でも私は、美咲ちゃんがいい。
どうしても手放したくないの」
その言葉が、まっすぐ胸の奥にすとんと落ちる。
自分の息を呑む音が、小さく響く。
涙が止まる。
「……え、なに、それ……」
声が震える。
遥さんは何も言わずに、ただ抱きしめた腕の力を少しだけ強めた。
「遊びのつもりだったのに、美咲ちゃんが私以外のところに行くのは嫌なの。大事にしたいから触れられなくなったのに、傷つけてごめんね」
耳元で小さく、掠れた声が落ちる。
「……ずるい」
「うん。ずるいの、私」
「美咲ちゃんが、好きだよ」
世界が止まった気がした。
鼓動の音だけがやけに大きく響く。
「ほんとに…?」
「ほんとに」
「本気にするよ……?」
「本気にして」
「私、遥さんを好きでいていい……?」
しぼり出すような問いに、少しの間があって、それから、いつもの柔らかい遥さんの声が返ってきた。
「……うん。好きでいて」
その瞬間、堰を切ったみたいに涙が溢れた。
嗚咽まじりに泣きながら、遥さんの胸に顔を埋める。
「うう、やだ、もう……苦しい……」
「うん、ごめん」
遥さんの声も震えていた。
髪を撫でる指先が優しくて、その温もりが、ずっと欲しかったものだと気づく。
愛されたい、抱きしめられたい、特別でいたい――
全部が溶けていくみたいに、涙が止まらなかった。




