10
風邪は2日ほどで落ち着いた。
まだ少し体がだるかったけど、熱も下がって、ようやく普通に起き上がれるようになった。
七瀬が心配して何度も連絡をくれたけど、「もう平気だよ」と笑って返すと、彼女は「ほんと?」と念を押しながらも、それ以上は聞かなかった。
遥さんとは、あれっきりだった。
連絡もない。こちらからもしない。
スマホの中には、まだあの人の名前が残っているけど、開くことも、消すこともできないまま。
「まぁ、そうだよね……」
そんな独り言が口からこぼれるたびに、少しずつ胸の中の熱が冷めていく気がした。
このまま完全に、冷めて、固まってしまえばいい。
そうすれば、いつかはきっと捨てられる――。
***
金曜日の夜。
同じゼミの子に誘われて、軽い飲み会に顔を出した。合コンってほどでもないけど、男女半々でわいわい騒いでるような、そんな集まり。
「美咲ちゃん、もっと飲みなよ〜!」
差し出された缶チューハイを受け取りながら笑ってみせる。
だけど、騒ぐ声も、軽口も、どこか遠く感じた。
みんな、子供っぽい。
それが悪いわけじゃないのに、無意識に、遥さんと比べている。
声も、話題も、距離感も。
あの人と話している時間が好きだった。
自分を見透かされている気がして、でも嫌じゃなかった。
「どうしたの、美咲ちゃん? 元気ないじゃん」
隣の男子に肩を叩かれて、「ううん、平気」と笑う。
まだ、チューハイもほとんど空いていないのに。
笑いながら、帰りたくなっていた。
***
駅前に着くと、ちょうど終電が近くて人が多い。
人混みの中を抜けようとしたとき、「ねぇねぇ、今からもう一軒どう?」と声をかけられた。
見知らぬ男の子たち。
年は同じくらいか、少し上か。
悪気はなさそうだけど、近い。距離が。
「いや、私もう帰るから」
そう言って笑いながらかわす。
けれど、片方が腕をつかんだ。
「いいじゃん、送ってくよ」
「やめてください」って言えばいいのに、声が出なかった。
判断が出来ない、何も考えたくない。
このまま流されてもいいかも、なんて、ほんの一瞬——
「……美咲ちゃん?」
背後から名前を呼ばれて、体がびくりと跳ねた。
振り向くと、少し離れたところに遥さんが立っていた。ジャケットに、パソコンの入ったトートバック。連絡を取っていないのもたかが1週間程度なのに、やけに久しぶりな気がした。
表情は穏やかなのに、その瞳は笑っていない。
「遥さん…?」
「おいで」
「っ、」
その一言で、掴まれた腕を振りほどいて駆け寄る。
「ごめんね、私の知り合いなの」
にっこりと笑う遥さんは綺麗で、大人っぽくて、それでいて相手と明確に距離を取る。
男の子たちは顔を見合わせると、そのままつまらなさそうに人混みに消えていく。
それを見てようやく肩の力が抜いた。
「……ありがとうございます…」
それしか言えなかった。
情けなくて、恥ずかしくて、泣きそうだった。
「どうしてここに……?」
「たまたま。客先から駅に向かってたら見かけたの」
そう言いながら、少し眉を寄せる。
「ついて行くつもりだった?」
その声に、叱られているような、でもどこか優しい響きがあって、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
「……ごめんなさい」
かすれた声で返すのが精一杯だった。
遥さんは困ったように微笑んで、「心配だから送ってく」とだけ言って歩き出す。
自然と手を繋ぐには遠くて、だけど手を伸ばせば届く距離。
酔いがまだ少し残っていて、頭がぼんやりする。
隣を歩く遥さんは、何も言わない。
責められたり、問い詰められたりすると思っていたのに——
本当に、何も。
「……ありがと。助けてくれて」
「酔ってた?」
「ちょっとだけ」
「そういうの、美咲ちゃんは向いてないでしょ」
「……うん」
短いやり取りの中に、いつもの空気が戻ってくる。
それが嬉しくて、でもどこか虚しかった。
遥さんにとって、私が泣いて帰った夜も、連絡を返さなかった数日も、取るに足らない“些細なこと”。
私のアパートに向かう遥さんの足取りに迷いはない。何度も来ているのだから当然だ。
玄関先で、いつもならキスをされるのに、今日は軽く頭を撫でられるだけ。
「じゃあ、またね」
それで終わる。
終わるはず、だった。
扉を閉めて一人になってから、胸の奥がきゅっと痛む。
「“またね”なんて言われたら、まだ期待しちゃうよ……」
消せずに残っている連絡先も、未だに思い出してしまう遥さんのキスも。
冷たいまま、忘れさせてくれれば良かったのに。
始まりは、あんなに曖昧だったのに。
どうして終わらせるのはこんなに難しいんだろう。




