第一話 キンモクセイの香り
———ぼぅ。いつ遊んでくれるの?
その声はもう届かない。
———ぼぅ。なんでこっちを見てくれないの?
その姿はもう誰の目にも映らない。
———ぼぅ。今度一緒に遊ぼうっていってくれたじゃん
その手は空をかすめる。
* * *
キンモクセイの香りが鼻をかすめる。
ずいぶん過ごしやすくなった、と静かに遙果は秋空を見上げた。
「到着です」
「はい、ありがとう」
車を降りて大きな黒鞄をつかみ、目の前の家を見上げた。
「へぇ、立派だ」
空に映えるキンモクセイと古い日本家屋。
黄色い花は、その小柄さからは予想できないほどの香りを漂わせていた。
玄関の扉は、何度目かのガラガラという趣のある音を響かせる。
「こんにちはー、診療所ですー」
「はーい」
奥からパタパタと元気な足音、出てきたのはここの家主の娘さん。
「こんにちは、藤脇先生。こちらです」
「お邪魔します」
足下でぎしぎしと床がきしむ。
狭い廊下を進み、奥の一室に通された。
畳の部屋には似合わない、病院と同じベッド。
その上に横たわる老人に、遙は近寄った。
「こんにちは、久保さん。訪問診療の藤脇です」
「ああ…先生」
閉じられていた瞳が静かに開き、遙果をみる。
「寝てたのか」
「起こしてしまってすいません。ご様子をみにきました」
久保家には二週間に一回の程度で訪問診療をしている。
藤脇 遙果は在宅医。
通院できない患者を、自宅に訪問して診療するのが主な仕事だ。
手際よく黒鞄から血圧計や体温計を取り出し、簡単な診察をしていく。
「最近はどうですか?」
「なにもかわっちゃおらん。毎日がいっしょ」
「一緒ですか。痛いところは?」
「とくにない」
「お食事はどうですか?」
「それが、最近めっぽう減りました」
そばで見ていた娘さんが最近の様子を伝えてくれる。
昼間も寝ることが多くなった。
それでも声をかければ起きるし、食事を用意すれば、量は少ないが食べる。
熱は出ていないし、夜もよく寝ている。
血圧や聴診ではとくに異常はない。
「そういえば久保さん。玄関先のキンモクセイ、きれいですね」
「……」
「今日立派な花が咲いてましたよ」
「花が、さいたんか」
「ええ」
遙果がそう伝えると、うつろうつろしていた久保の瞳が見開く。
そして、何かを探すように部屋全体を見渡す。
「起こしてくれ!」
「え」
「はやく!」
これまでの様子とは違う言葉の強さに、遙果は慌ててベッドのリモコンをつかむ。
筋力が落ちた久保は、もう自分の力で起き上がることはできない。
ベッドの周囲に注意しながら、ボタンを押して、上体をおこす。
「お父さん、私はここにいるよ」
「ああ…」
娘が来てもそれ以外の何かを探している。
この家に住むのは久保一人。
妻はいたが、数年前に病死している。
「どこにいるんだ…キンモクセイが、咲いたんだろ?」
戸惑う娘と遙果をよそに、何かを探している。
視界の端で、何かが動いたが、何かは、わからない。
遙果は訝しげに眉をひそめた。




