つきのまぶた
おつきさまがみている。
やさしそうなめで みんなをみている。
まどのそとから あなたをみている。
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「はぁ……はぁ……はぁ……」
夥しい揺れを起こす視界を両手で支え、押しつけた圧力で両耳を塞いで、胸を圧迫する浅い呼吸によって明滅する目眩にぐったりと身を預ける。慌てて飛び込んだ戸棚の中は硬く、全身に食い込んでいるはずの痛みは、今や恐怖と緊張による興奮からその僅かな片鱗さえも芯に届きはしなかった。
「あぁ……うあぁ……」
暗闇に浮かび上がる糸のような隙間から漏れ出した声にどきりとして咄嗟に口を塞ぐ。一瞬、もしや無意識のうち喉が喘いだのかとばかり思ったが、果たしてそうではなかった。精気のない苦しげな呻き声に紛れて歯が鳴らぬよう、しっかりと食い縛ったその隙間から呼吸を繰り返して懸命に身を縮こめる。
遥か彼方、悠久の時を重ねて地球を見守ってきたもの。代わる代わるに顔を出し、暗闇を照らして心の安らぎを生んでくれていたもの。────「月が目覚めた」。誰かがそう言っていたような気がして、そんなわけはない妄想に首を振る。ほんの少し前までベッドの上で眠っていた事実すらまるで夢のようで、両腕で全身の震えを押さえると冷えた吐息に瞼をぎゅっと瞑った。
あの時……声が聞こえて、目を覚ましたのだ。原因はすぐに分かった。次に、ガラスの割れる音と母さんの悲鳴。父さんはカーテンを閉めて寝る人ではなかった。取り憑かれたように暴れる父さんのベッドには、悍ましい月明かりがきっと降り注いでいたのだ。
ベッドから跳ね起き一階に降りた先のリビングで、薄暗がりの中にぼんやりと立ち尽くす父さんを見つけ、その手に持たれた包丁を目にした時、息を飲んだ僕は父さんが振り返るよりも早く踵を返すと、家から飛び出していた。母さんが倒れていることには気が付いたのに。本当なら、助けにいかなければならなかったのに。嗚咽を漏らし涙に滲んだ視界を痛いほどに見開きながら、僕は陰った寒空の下を靴下一枚で走り抜けた。一歩間違えれば僕もまた呑まれていたというのに、幸か不幸か僕はまだ意識を保つことができていた。
街中のあちこちから物が壊れる音、何かが倒れ割れる音、そして絶えることのない悲鳴が響いている。とにかくどこかに身を隠そうとして咄嗟に目についた家の敷地内に飛び込むと、剥ぎ取った自転車カバーを頭から被って壁に寄り添い蹲った。するとやがて雲がちらつき、溢れた静かなる光が辺りを覆う。遮蔽物のない眼光を受けて、まるで操られたようになった人々はふらふらとしながら表の通りへ出てくると、皆一様に言葉にならない呻き声を上げのたうったり倒れ込んだりしていた。
────月。呆然とした脳で全ての元凶を理解して、屋外にいる自分に総毛立つ。震えながらも力を込めてカバーの下に身を縮こめ、再び翳ったところで動き出そうとして────突然、鼓膜を打ち震わせる絶叫と共に視界の端から何かが飛び出し、驚きから動きを止めて息を潜める。勢いよく開かれた扉が耳障りな音を立てて柱にぶつかり、肌色を全身に纏う“ソレ”はそのままどこかへと走り去っていく。
その物音に釣られてか、それとも気配に釣られてか、のろのろと動き始めた人々を前に気配を殺した僕はカバーの下から素早く這い出ると、ぽっかりと口を開いた玄関の内側を恐る恐る覗き込んだ。風に乗り漂ってくる異臭に思わず口元を覆い人気のない暗闇を用心深く窺うも、再び開き始めた瞼に選択肢を奪われ慌てて家の中へと駆け込む。
カーテンが閉められているのだろう、室内にも関わらず足元の見えない闇の中、玄関で足を突っ込んだ靴裏にはぐちゅりとした感触が伝わり、なるべく吸い込まないよう息を止めながら隠れ場所を探す。
と────不意に蠢いた気配に、心臓からの痺れを全身の震えに変えて跳ねるようにその場から飛び退く。ガツン、と脳を殴られるような衝撃に堪らずふらつき、壁へと強かに頭を打ちつけたのだと気付くよりも早く、咄嗟に目を凝らすと進路と退路を値踏みする。
最も明るくこちらを誘っているのは今し方入ってきた玄関……だが、それが罠だということは分かっている。後戻りができないのなら、進むしかない。意を決して闇の中に飛び込んだ、その時────しかし何か柔らかなものを踏みつけて足元が絡れ、前のめりに倒れ込んだ体が不意に何かに支えられる。咄嗟に突き出した手で受け止めたそれを見上げ、項垂れる顔と服に包まれ硬くなった皮膚に気がついて────。
「はぁ……はぁ……」
僕は、まだこの家にいる。本当なら今すぐにでも出ていきたい。本当は怖くてたまらない。なのに、もうここから一歩だって外には出たくないのだ。何も考えたくない。死にたくない。怖い思いをしたくない。死にたくない……。
悪夢のような夜更けは永遠のような時間を保って僕の理性をじりじりと削ってきた。早く、早く……朝に、朝にさえなれば、この地獄から抜け出して家に帰れる。家、家に……あれ? そうだ、家から逃げ出してきたのに。違う、そうじゃない、こんなの……誰か、明日は学校だから……誰かと会って話したい────。
やがて極度の緊張に限界を迎えたのか、いつしか僕は狭い箱の中に閉じ籠りながら意識を飛ばしていた。次に目を覚ましたのは、寝惚けた頭が壁面にぶつかるその痛みから。
「う……」
じんじんとした頭痛に顔を顰め凝り固まった全身に息を吐きながら重い瞼をどうにか開く。窮屈だった目の前の扉を無意識のうち押すと、ギィ、と大きな音を立てて開いたその奥に聳えた冷蔵庫は、ぼんやりと茜色に染まっていた。
「え……っ」
瞬時に目が冴えると同時に動悸が高まり、恐る恐る顔を出すとキッチンのカウンター越しにリビングへと目を向ける。床には物が散乱し、戸棚は倒れ、吊り下がった物言わぬ人影の下には薄汚い汚れが溜まっている。それら全てをカーテン越しに照らすのは、リビングの壁を抜いた大きな大きな窓。
朝が来た。夕焼けのような赤さに涙ぐみ、ぎこちない動きで手足を伸ばしながらリビングを横断すると両手でカーテンを開け放つ。清々しい朝日、目覚めの────。
「あ」
おおきな、おおきな。赤いお月様と、目が合った。




