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第六話「触れたわけじゃないのに」

行かないつもりだった。

昨日はそう思っていたし、今朝だって家を出るまでは、あの場所のことを思い出しもしなかった。

でも、気づけば私は、いつものコンビニを通り過ぎ、坂をのぼっていた。


理由はない。

ただ、足が向いた。それだけ。


夕方。空は薄い藍色で、風は少し冷たかった。

道すがら咲いていた花も、名前はわからないまま通り過ぎた。何も考えたくなかった。

考えてしまうと、立ち止まってしまいそうだった。


彼の部屋のドアの前に立つと、なんとなくノックをするのがためらわれた。

ドアノブに手をかけようとして、ふと指を止める。

行くって言ってなかった。

こんな時間に来るなんて、きっと迷惑だ。


――なのに。

なぜか、そのまま帰ることができなかった。


「……開いてるよ」


不意に、内側から声がした。


驚いて少しだけ後ずさった。けれど、そのままドアを押した。

鍵はかかっていなかった。まるで、来ることを知っていたみたいだった。


部屋の中は薄暗かった。

カーテンはまだ閉まっていて、テレビもついていない。

明かりを点けるか迷ったけれど、彼はそのままでいた。


「……起きてたの?」


「ちょっと前まで寝てた」


ソファの上、丸めた毛布の中から彼が顔を出す。

寝癖のついた髪。目の下のクマ。疲れているのか、それとも、いつも通りなのかはわからなかった。


「ごめん、急に来て」


「来ると思ってた」


「なんで」


「なんとなく」


曖昧な言葉だった。でも、それは責められている感じじゃなくて、むしろ肯定のように聞こえた。


私は靴を脱ぎ、ゆっくりと中に入った。

彼の部屋の匂い。昨日と同じ、ほんのり味噌の匂いが残っていた。

そんな空気の中にいると、自分が何かになったような気がした。

決まったかたちのない、曖昧な何か。


「……お腹、空いてない?」


私の問いかけに、彼は少し首をかしげた。


「そうでもないけど。何かある?」


「なんにも」


「じゃあ、今日は何しに来たの?」


答えられなかった。

理由なんて、なかったから。

けれど、何か言わなきゃいけない気がして、私はこう言った。


「なんか、話したかっただけ」


「話、するんだ」


少し笑った。

だけどその笑いも、どこかぼんやりしていた。


私は、彼のとなりに腰を下ろした。

ソファの端と端。間にクッションがひとつ。


言葉は、なかった。

けれど、沈黙は不快じゃなかった。

テレビの電源も点けず、ただ並んでいるだけで、少しだけ心が静かになった。


「……今日、学校は?」


「うん。行ってない」


「理由は?」


「ない。……でも、たぶん、行かなきゃいけないんだろうなとは思ってる」


彼はそれを聞いても何も言わなかった。

頷くことも、首を傾げることもなかった。


ただ静かに、視線を窓の外に向けていた。

ガラスに映った彼の横顔は、どこか遠くにいるみたいだった。


この部屋にいるのに、触れられない。

目の前にいるのに、どこか届かない。


けれど、そういう距離が、今はちょうどよかった。


触れたわけじゃないのに。

ただここにいるだけで、少しだけ、私は救われていた。


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