第五話「ひとつの鍋、ふたつの音」
学校には行かなかった。
目が覚めたときにはもう一限が終わっていて、制服に袖を通す気力もなかった。
なんとなくスマホを見て、なんとなく窓の外を眺めて、気がつけば家を出ていた。
午前十一時。
初めて、昼間に彼の部屋に向かった。
昨日よりは雲の多い空。春の風はぬるくて、でもそれを心地よいとは思えなかった。
いつものように階段の下で足を止める。
インターホンは鳴らさず、ノックもせずにそっとドアノブに手をかけた。鍵は、かかっていなかった。
中に入ると、空気が夜とは違っていた。
光がカーテンの隙間から差し込んでいて、埃の粒がくるくると踊っていた。
誰かの気配はあった。だけど音がしない。
「……寝てるのかな」
小声でつぶやいて、リビングをそっと覗くと、彼は本当に寝ていた。
ソファの上に横たわって、毛布を半分だけ体にかけて、無防備な顔で呼吸していた。
その寝顔に見とれる、なんてことはなかった。
ただ少しだけ、びっくりした。
彼にも、ちゃんと人間らしい時間があるんだと思って。
私は音を立てないように台所に向かった。
食べ物を探すわけじゃなかった。
ただ、何かしていないと、ここにいる自分が落ち着かなかった。
戸棚を開けると、袋ラーメンが三つ並んでいた。
味はしょうゆと味噌と豚骨。一番余っていた味噌を選んで、湯を沸かす。
ケトルがカタカタと震える音が、寝息と重なって響いていた。
「起きてた?」
お湯を注いでいる最中、後ろから声がした。
彼は起きていた。というより、私の気配で目を覚ましたのかもしれない。
ボサボサの髪、まぶしそうに細めた目。それでも文句の一つも言わなかった。
「味噌、食べるよ」
「……勝手に作ったな」
「いいでしょ。余ってたし」
「そういう問題?」
「だって、食べたかったんだもん」
ケトルの蒸気が少し曇らせた空気のなか、私は鍋を火から下ろした。
キッチンペーパーで鍋のふちをさっと拭くと、彼はスプーンをひとつ差し出した。
「先、食べていいよ」
そのまま、鍋ごとテーブルの真ん中に置かれる。
湯気がゆらいで、ふたりの距離まで曖昧にした。
テーブルに並んで腰を下ろし、交代で麺をすすった。
言葉はなかったけれど、変な沈黙ではなかった。
ただ、口に運ぶリズムが似ていた。
「……同じ鍋で食べるのって、変かな」
私がぽつりと言うと、彼は少しだけ考えてから、
「お前が気にしなきゃ、いいんじゃない?」
と返した。
そういう言い方をする人だった。
押しつけず、放り出さず。ただ、選ばせるような。
だからたぶん私は、ここに来てしまうんだと思う。
「学校、行かなかったの?」
「うん」
それ以上、何も聞かれなかった。
責められることも、心配されることもない。
空っぽの返事が、空っぽのまま受け取られる。
それが妙に、安心だった。
「……また来れば?」
彼がふいにそう言った。
ラーメンの鍋を片づけながら、背中越しに投げるような声で。
私は答えなかった。
だけど、心の中で「また来る」と思った。
その理由が、まだ自分でもよくわからなかったとしても。
彼にとってそれが迷惑でも、そうじゃなくても。
昼間の光のなかで食べたラーメンの味は、なんでもないのに、妙に記憶に残りそうだった。