第四話「深夜、窓も開けずに」
真夜中に近い時間だった。
眠れなかったわけじゃない。ただ、家に帰る理由が、どこにも見当たらなかった。
終電が終わったホームを通り抜け、シャッターの閉まった店を横目に歩く。
誰とも話さず、スマホも鳴らず、何かを考えているようで、たぶん何も考えていない。
そんな夜を、足が勝手に彼の家へと連れていく。
いつものように階段の下で足を止めた。
アパートの外灯はぼんやりと濁った光を落としていて、その下で私の傘から水滴がひとつ、またひとつと落ちる。
呼び鈴は今日も押さなかった。代わりに、そっとノックを二回だけ。
音は雨よりも小さくて、自分の心音のほうがよく聞こえる気がした。
しばらくして、内側から扉が開く。
「……遅いな」
声がかすれていた。眠っていたのか、それともずっと起きていたのか。
男は何も言わずに一歩だけ後ろへ下がって、私の通り道を空けた。
電気はつけられていなかった。
廊下の明かりも、リビングの照明も。代わりに、キッチンの奥で電気ポットのランプだけがぽつりと灯っている。
「起きてたの?」
「起きてたような、寝てたような」
彼はソファに座りなおして、膝を抱えるように身体を丸める。
私もその向かいに腰を下ろすと、沈黙が自然に間に入った。
今日はカレーの匂いはしなかった。代わりに、ほんの少しだけ洗剤の香りがする。さっきまで何かを洗っていたのかもしれない。
「ねえ」
しばらくして、私が言った。
「わたしさ、いつからここに通うようになったんだっけ」
「一週間くらい前?」
「そんなに経ってない気がする」
「時間って、たまに止まってるみたいに感じるよな」
彼の声は相変わらず抑揚がなくて、でも、なぜか安心する。
目を合わせるわけでもなく、身体を寄せるわけでもなく。ただ、同じ部屋にいて、同じように眠れないでいることが、なにかを共有しているように思えた。
「仕事、見つけた?」
「……見つかる気がしない。履歴書って、どこで売ってるっけ」
「コンビニ」
「面倒くさいな、なんか」
私はくすりとも笑わず、ただ小さくうなずいた。
「うん」――と。それだけなのに、彼は少しだけ息を抜いたように見えた。
たぶん、「どうするの?」とも「早く働け」とも言われないことで、少しは気が楽になったのかもしれない。
午前二時。
換気扇の回る音と、ポットの小さな加熱音。
光はあっても照らすものはない部屋で、わたしはふと思う。
この部屋には、未来の気配がない。
でもそれは、過去に縛られているわけでもないということだ。
時間が止まっていて、わたしがその止まった時間のなかに隠れている。彼もきっと、同じように。
「名前、まだ教えてくれないんだね」
ふと、そう言うと、彼はほんの少しだけ肩をすくめた。
「言ってないわけじゃなくて、名乗る意味がない気がして」
「そういうもんなの?」
「名前って、使われるためにあるもんだろ。呼ばないなら、知らなくてもよくない?」
その答えは、たぶん正論だった。
でも私は、名前を呼びたいから訊いたわけじゃない。ただ、“ここに誰がいるのか”を確認したかったのだと思う。
「じゃあ、わたしも……今日、なにもしないでいい?」
「ずっと、してないじゃん」
思わず小さく笑ってしまった。
彼も、それに応えるように目を細めた。やっぱり笑ってはいない。でも、たぶん、それがこの人のやさしさの形。
夜がゆっくりと進んでいく。
名を呼ばないまま、時間だけがふたりを包んでいく。
わたしはまたここにいる。誰にも見つけられない場所で、見つけてもらいたくない自分として。
ここにいたい理由なんて、ない。
でも、ここにいたいと、今は思った。