第三話「ひとさじの距離」
週の半ば、空は灰色に沈んでいた。
昼すぎには止むと予報で言っていた雨はいまだアスファルトに細い線を描き続けている。私はコンビニでビニール傘を買い、そのまま目的地に向かった。前よりはずっと自然に、足があの家へ向いていた。
「……また、来たんだ」
自分の口から出たその言葉が、予想以上に軽やかだったことに気づいて、少し戸惑う。そうして、また勝手に門扉を開ける。呼び鈴は押さない。あのときと同じように、黙って階段をのぼって、黙ってドアの前に立つ。
一度、手を止めた。濡れたままの髪から水が服に落ちて、それも冷たさになって皮膚に触れた。呼吸のタイミングをひとつずらして、ノックをする。
静寂が落ちて、そして――
「開いてる」
短く、やや掠れた声が、ドアの向こうから届いた。
中に入ると、カレーの匂いが、部屋の隅々まで染み込んでいた。前に漂っていた焦げの匂いは、まるで昨日の夢みたいに消えていた。
男はリビングの隅のソファに座っていた。手に持っていたのはレトルトのカレーのパウチ。足元には、電気ケトルと温め用のボウルが置かれている。
「……いい匂い。何味?」
「バターチキン。匂いだけでわかる。当たりの予感」
「予感、ね」
私も、濡れた傘を玄関に立てかけ、ためらいながら彼の向かいに腰を下ろす。テーブルには皿がひとつ。スプーンも――ひとつしか見当たらなかった。
彼は戸棚を開けて、しばらく探す素振りを見せたけれど、結局見つからなかったらしい。
「いいよ、交代で食べれば」
わたしがそう言うと、彼は少し驚いたように目を見開いた。
「……潔癖じゃないんだな」
「そういうの、気にする性格に見えた?」
「いや、ちょっと意外だっただけ」
交代で口にするカレー。ほんのり甘くて、少ししょっぱくて。
けれど、舌よりも喉よりも、胃がその温かさを真っ先に受け入れた気がした。
テレビも音楽もない。雨の音と、ケトルの沸騰する音だけが室内を満たしている。
黙々と、同じスプーンを手渡しながら、時間だけがゆっくり流れていった。
食べ終わると、彼は空いた皿を手に立ち上がる。私は何も言わず、座ったまま、それを見送った。
「名前、教えないの?」
スプーンを置いたタイミングで、ふと思い出したように口にした。
男は一瞬だけ私を見て、それから視線を逸らした。
「別に、必要ないだろ」
「呼びたいなって思っただけ」
「……呼ばないほうが楽だと思うけどな」
そう言って、彼はソファの背にもたれかかる。
私はそれ以上は訊かず、ただ「そうなんだ」と言って目を伏せた。
窓の外では、雨が少しだけ弱くなっていた。
静けさが戻ってきて、ケトルの音はもう止んでいる。代わりに、部屋の奥の換気扇が、かすかに回っていた。
私は自分の指先をじっと見つめながら、そっと思う。
この部屋はたぶん、檻だ。
彼の、誰にも踏み込ませない、小さな檻。
それでも。
今はその檻の中に、自分の居場所を見つけつつあるような気がした。