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第二話「夜に濡れる音」

部屋のドアが、ゆっくりと閉まる。

かすかに軋む音。空気が変わる。外の冷たい夜が切り取られて、温度のある静けさに包まれた。


靴を脱いでいいのか迷った。けれど男は、こちらを振り返りもせず、奥の台所へと歩いていった。

私は、そっと靴を脱いで、玄関に並べる。


足音を殺すようにして進んだリビングには、家具がほとんどなかった。古いソファと、ローテーブル。テレビは壁際にあるが、電源は入っていない。カーテンは片方だけ開いていて、さっきまで私が座っていたベンチがちょうど見える位置だった。


「そこ、座ってて」


彼の声が、キッチンから聞こえた。

言葉の裏に何もない。心地いいとも、怖いとも思わなかった。ただ、どう反応すればいいのかわからず、小さく頷いてソファの端に腰を下ろす。


静かだった。水道の音だけが響いている。


部屋には、生活感があまりなかった。脱ぎ散らかした服もないし、写真や飾りもない。けれど、どこか無理に整えたような気配でもなかった。

まるで、“誰かに見られる”ことを前提にした暮らしのような。痕跡を、意図的に消しているような、そんな違和感があった。


机の上に、読みかけの文庫本が伏せられていた。タイトルはわからない。ページの端がくたびれていて、何度も読んだものなのかもしれない。私は指先でそっと触れてみた。


「読んでいいよ」


声に驚いて、顔を上げた。

男が、私の前に座っていた。コンビニのコーンポタージュの缶を片手に。自分のも空にしていたらしい。


「読んでたやつ?」


「そう。何度か」


私は本を開かず、ただそのまま手のひらに乗せていた。表紙のざらついた感触が、やけにしっくりきた。


「……ここに、ずっと住んでるの?」


「ん。三年くらい」


「仕事は?」


彼は少し笑って、首を振った。

質問を受け入れはするけど、深入りはさせない。そんな感じだった。


「じゃあ、暇なんだ」


「わりとね。眠くなるまで、なんとなく起きてる」


「……私も、似たようなもん」


何が似てるんだろう。

家に帰りたくないのも、夜の街を歩いてたのも、自分がここにいる理由も。

言葉にしてしまえば全部ちっぽけで、でも言わないと、自分のことさえ曖昧になる気がして。


「ねえ」


声が先に出た。彼が少しだけ、顔を向ける。


「名前、教えてくれないの?」


「……必要かな」


「どうだろ。なんて呼べばいいか、ちょっと困るだけ」


彼は短く笑って、それきりだった。

名前はくれなかったし、わたしもそれ以上は訊かなかった。なんとなく、それでよかった。


「私は……凛」


言わなくていいのに。そう思いながらも口にしていた。

彼が返してくれるとは思っていなかった。でも――


「凛か。似合ってる」


それだけ言って、彼はまたソファに腰を下ろした。


私は少し、息を吐いた。

名前を知っただけで、何かが変わるわけじゃない。

けれど、この夜の温度が、ほんの少しだけ肌に馴染んでいくのを感じた。


水道の音が、止んだ。

夜が、少し深くなっていく。


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