表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/6

第一話「まばらな光の中で」

帰り道を選ばないと、決めていた。

それは逃げではなくて、せめてもの抵抗だった。

家のドアを開けてしまえば、私はまた、ひとつきりの存在になってしまう。言葉のない家。会話のない食卓。あの冷たく整ったリビングの空気を吸い込むたびに、何かが剥がれ落ちていく気がしてならなかった。


私は、夜の街を歩いていた。

スマホのバッテリーはもう赤く点滅していて、通知も音も、もう何も届かない。ポケットの中でそのぬくもりだけが頼りだったけど、それもあと少しで消える。


まばらな街灯に照らされて、細い道をひとつ曲がると、小さな公園があった。砂場とブランコ、滑り台だけの、あまり使われていない場所。

足元の落ち葉が湿っていた。雨が降ったのだろうか。空を見上げると、雲の向こうにかすかに月がある。けれど光は地面に届いてこない。


私はブランコのそばのベンチに腰を下ろした。

誰もいない公園。風の音。遠くの車の走行音。

そういうものだけが、この世界に自分がいることを保証してくれているような気がした。


そして、気づいた。

向かいのアパートの、二階の部屋にだけ灯りが点いている。

オレンジ色の、やわらかく滲んだような光。夜に慣れた目にはそれがやけに際立って見えた。


レースのカーテンが、少し揺れた。

人の気配。

まさかこちらを見ている――


そう思った瞬間、カーテンの向こうに誰かが立っていた。

男だった。年齢は、よくわからない。高校生よりも年上で、大人というには影が淡い。

不思議な顔だった。輪郭がぼやけている。はっきりしているのに、印象に残らない。


彼はそのまま、ベランダに出た。

手すりに両肘をかけて、こちらを見下ろしている。


私は目を逸らせなかった。

誰かと目が合うのは久しぶりだった。

スマホの画面ではない、“誰かの目”が、自分に向けられている。そのことに、怖さよりも先に、泣きそうになる。


彼は何も言わずに、ベランダから姿を消した。


私は、またひとりになった。


しばらくして。

公園の入り口の方から、足音が近づいてきた。

ふり返ると、さっきの男だった。手には、自販機で買ったらしい缶がふたつ。


「寒いだろ」


それだけ言って、片方の缶を私に差し出してくる。

コーンポタージュだった。まだ熱を持っている。缶を持つ手のひらがじんわりと温まる。


私は、受け取った。ありがとうとも、なぜくれるのかとも、言わなかった。

けれど、指先から、ほんの少しだけ、心が解けていくようだった。


「帰れないの?」


男が言った。優しい声ではなかった。ただ、宙に投げた言葉だった。

私は答えなかった。

彼もそれ以上は訊かなかった。


「うち、すぐそこ。飲み終わるまで、入っててもいい」


そんな誘いではなかった。ただ、選択肢として提示されただけだった。

私が行かなくても、彼は困らない。

私が行っても、きっと彼は変わらない。


でも私は、立ち上がっていた。


「……ちょっとだけなら」


言葉は勝手に出てきた。気づいたときには、彼の背中を追っていた。

灯りの漏れるアパートの階段。見上げると、二階の部屋の窓が、まだ開いていた。

そこに入るのは、怖くなかった。

というより、あの家に帰るよりも、よほどましだと思った。


玄関の鍵は、すでに開いていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ