第一話「まばらな光の中で」
帰り道を選ばないと、決めていた。
それは逃げではなくて、せめてもの抵抗だった。
家のドアを開けてしまえば、私はまた、ひとつきりの存在になってしまう。言葉のない家。会話のない食卓。あの冷たく整ったリビングの空気を吸い込むたびに、何かが剥がれ落ちていく気がしてならなかった。
私は、夜の街を歩いていた。
スマホのバッテリーはもう赤く点滅していて、通知も音も、もう何も届かない。ポケットの中でそのぬくもりだけが頼りだったけど、それもあと少しで消える。
まばらな街灯に照らされて、細い道をひとつ曲がると、小さな公園があった。砂場とブランコ、滑り台だけの、あまり使われていない場所。
足元の落ち葉が湿っていた。雨が降ったのだろうか。空を見上げると、雲の向こうにかすかに月がある。けれど光は地面に届いてこない。
私はブランコのそばのベンチに腰を下ろした。
誰もいない公園。風の音。遠くの車の走行音。
そういうものだけが、この世界に自分がいることを保証してくれているような気がした。
そして、気づいた。
向かいのアパートの、二階の部屋にだけ灯りが点いている。
オレンジ色の、やわらかく滲んだような光。夜に慣れた目にはそれがやけに際立って見えた。
レースのカーテンが、少し揺れた。
人の気配。
まさかこちらを見ている――
そう思った瞬間、カーテンの向こうに誰かが立っていた。
男だった。年齢は、よくわからない。高校生よりも年上で、大人というには影が淡い。
不思議な顔だった。輪郭がぼやけている。はっきりしているのに、印象に残らない。
彼はそのまま、ベランダに出た。
手すりに両肘をかけて、こちらを見下ろしている。
私は目を逸らせなかった。
誰かと目が合うのは久しぶりだった。
スマホの画面ではない、“誰かの目”が、自分に向けられている。そのことに、怖さよりも先に、泣きそうになる。
彼は何も言わずに、ベランダから姿を消した。
私は、またひとりになった。
しばらくして。
公園の入り口の方から、足音が近づいてきた。
ふり返ると、さっきの男だった。手には、自販機で買ったらしい缶がふたつ。
「寒いだろ」
それだけ言って、片方の缶を私に差し出してくる。
コーンポタージュだった。まだ熱を持っている。缶を持つ手のひらがじんわりと温まる。
私は、受け取った。ありがとうとも、なぜくれるのかとも、言わなかった。
けれど、指先から、ほんの少しだけ、心が解けていくようだった。
「帰れないの?」
男が言った。優しい声ではなかった。ただ、宙に投げた言葉だった。
私は答えなかった。
彼もそれ以上は訊かなかった。
「うち、すぐそこ。飲み終わるまで、入っててもいい」
そんな誘いではなかった。ただ、選択肢として提示されただけだった。
私が行かなくても、彼は困らない。
私が行っても、きっと彼は変わらない。
でも私は、立ち上がっていた。
「……ちょっとだけなら」
言葉は勝手に出てきた。気づいたときには、彼の背中を追っていた。
灯りの漏れるアパートの階段。見上げると、二階の部屋の窓が、まだ開いていた。
そこに入るのは、怖くなかった。
というより、あの家に帰るよりも、よほどましだと思った。
玄関の鍵は、すでに開いていた。