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猫を被る、猫になる

作者: 空宮海苔

 私は昔から猫をかぶるのが得意だった。もっと正確に言えば、自分というものを隠すのが得意だった。てきとーに猫撫で声で人の話に同意していれば、みんな『愛嬌がある』みたいなことを言って、なんとなく私のことを評価してくれる。評価されればそれなりの地位でそれなりのお給料をもらえる。それに愛想を振りまいておけばそれなりのコネもできるし、コネができたらまた新しい仕事を手に入れて、もっとたくさんのお給料をもらうこともできる。まあ、たまに男女関係がこじれることはあったけれど、そこだってうまく立ち回ってきた。


 でもだからって、そんな私が猫になるとは思っていなかった。


「にゃーん」


 そんなこの町は、都会とは言えないけど、田舎とも言えないような場所――いや、都会と言えない時点で田舎なのだろうか? ともかく、いい感じに人が少ないけど、地下鉄とかの交通機関は案外近くにあるし、カフェとかスーパーも多少歩けば辿り着けないことはない。街というより、町。そんな感じの場所だ。

 あと特徴と言えば、この町が海沿いにあるということだろうか。私の住んでいる場所で言えば、埠頭まで歩いて二十分くらいで辿り着くことができる。私もつい最近ここに越して来たばかりで、全てを把握しているわけではない。だが、今挙げたようなことと、あと野良猫が結構な数居ることはよく知っている。


 私が歩道の隅っこにある電柱の裏で小さくなってこの町を眺めてみると、その見え方はいつもとは大きく違っていた。視点はいつもよりずっと低いし、何より周囲からの目線も違う。

 道を歩く人間たちが凄く大きく感じて、それに威圧感があった。たまにこっちを見て手を振ってくる大人が居たり、やたらと目を合わせてくる通行人が居たりしたが、そのどれもが等しく怖かった。自分より何倍もデカい生物が近くに寄ってくるという体験は、想像を絶する恐怖だったのだ。

 普段なら私もそういうことをする側なのだが、まさか自分がされる側になるとは。


 こんな電柱の裏に居ることだって、さっき歩道の真ん中に居たときにあまりにも注目されたせいで、それが怖くて逃げてきたというのが理由だ。人間だった頃、私も野良猫を凝視したり、あるいは追いかけることがたまにあった。もちろんそんなことをすれば彼らはすぐに逃げてしまうのだが、彼らのそんなところを見た私は『そんなに怯えなくてもいいのに』と思っていた。でも、今なら彼らの気持ちが分かる。

 純粋に、自分より巨大な生物が自分に寄ってくるのが、怖いのだ。


「……うなー」


 くわー、と大きくあくびをすると、とっても猫らしい、情けない声が漏れた。


 しかしまあ、やることがない。こんなに小さい足で動くのは一苦労だし、水や食べ物を探しに行こうと思うほど私は今の状況を現実として飲み込めていない。どうしたものかなぁ、と私が立ち往生していると、横から声が掛かった。

 人間の声ではなく、猫の声で。


「にゃう」

『お前、見ない顔だな』


 振り返ってみると、そこには大きな体格の黒猫が居た。太っているわけでもないが、痩せているわけでもない。目つきはどこか鋭くて、猫らしい狩猟者の風格を醸し出していた。彼の耳はなぜか少し欠けており、自然に傷ついたというよりは意図的に切られたような形になっていた。

 というか、耳に入ってくる音は『にゃう』なのに、頭の中ではしっかりとした日本語で何を喋っているのか理解することができた。かなり妙な感覚だ。


 話しかけられていたけれど、どこか現実味がなくてしばらく反応しないで居ると、彼? 彼女? の目つきがより鋭くなった気がした。そこでようやく私は慌てて返答を考え始めた。

 いやしかし、ここは都合がいい。猫としての生き方を知っているであろうこの黒猫に取り入って、色々と教えてもらおう。


「……みゃー」

『ごめんなさい、気がついたらここに居たのでわからないことが多いんです。よかったら教えていただけませんか?』


 日本語で喋ろうとするが、どうしても口から出る音は猫の鳴き声だ。その言葉を聞いた目の前の黒猫は、唐突に身を翻した。私がどこへ行くのだろう、と思っていると、彼がこちらを振り向いて『着いてこい』とでも言いたげにもう一度歩き出した。どうやら、ついていった方がいいらしい。


 ◇


 たどり着いた先に居たのは、無数の猫であった。近くの路地の行き止まりになっている薄暗い通路のところに、十匹ほどの猫が座っていた。彼らはそれぞれ間隔を空けながら、全員行き止まりの方を向いて静かに座っていた。不思議だったのは、ここに居る全ての猫の耳が先ほどの黒猫と同じように欠けていたことだ。

 そして先ほどの黒猫は『ここに座れ』といいたげに腕でジェスチャーをすると、そのまま無数の猫たちの前に立った。もしかすると、彼はボス猫というやつだったのだろうか。

 とりあえず私は彼に言われた場所に座ることにした。


 さて、どうやら私は猫の集会というやつに連れてこられたらしい。何のためかは知らないけど、地域に居る猫が一箇所に集まって会議をするアレだ。この町はそれなりに野良猫が多いし、会議もしているとは聞いていたが、私も実際に目にするのは初めてだ。


 私は何が行われるのかと少しワクワクしながら、しばらくその場に座っていた。

 座っていた。

 座っている……

 他の猫も、同じように座っている。

 マジで、何も起きない。

 こんなに何も起きないことがあるのだろうか。

 一応、みんな好きに毛づくろいしたりして、多少の動きはあるのだが、一切誰も喋らない。

 えぇ、猫の集会ってこんな感じなの? 今日の縄張りパトロールの報告とかしないの?

 あっ、他の猫と目があった。

 でもすぐに目を逸らされた。


 よく周囲を見渡してみれば、他の猫は一応私のことは認識しているようだし、何より結構こちらに目線を向けてくる猫がそこそこ居た。その視線が全く怖くないと言ったら嘘になるが、私は猫としては新入りだ。逆に知らん猫がいきなり集会に来たというのに、何も視線が来ないのもそれはそれで怖い。認識されているだけまだいいと言えるだろうか。


 それにしても、周囲の視線といいこの猫の雰囲気といい、妙にリアルな空気感だ。もしかすると、これは夢なんかじゃないのだろうか。本当に、私は猫になってしまったんじゃないか。

 『いやいや、そんなことはあり得ない』と否定したい気持ちは強かったが、猫として生活していかなければならないという状況が、現実味を帯びてきてしまっているのも確かだった。とりあえず、この集会のどこかのタイミングで、他の猫――例えばあのボス猫に、猫としての生活ノウハウを教えてもらおう。


 そうして私がしばらくその場に座っていると、間もなく猫たちが解散し始めた。一体なんだったのだろう。いやたぶん猫の集会であるのは間違いないんだけど。

 私の想像していた猫の集会とは、随分様子が違うようだった。


 私はしばらくボス猫の方を眺めていたのだけれど、彼は私に見向きもしないまま路地から出ていってしまった。

 えっまって、これ私どうしたらいいんだ。てっきりここから何かしらのコミュニケーションが発生するものだと思っていたのだけど、それらが全く起こらないとは。

 これでは予定が狂う。


 私はそう思って急いで路地から出て、先ほどのボス猫を探した。

 道に出てキョロキョロと辺りを見渡すと、無数の猫に混じってあの猫が歩いているのが見つかった。


 私は急いでボス猫の方に駆け寄り、声を掛けた。


「にゃーん」


 私の言葉? にボス猫は振り返り『なんだ』とでも言いたげな表情でこちらを見る。最初に名乗りをしようと思ったのだが、人間時代の名前をそのまま使うのは変だろうか、と思い一瞬言葉に詰まる。

 えっと、本名が『愛園(あいその)夏鈴(かりん)』だから……カリンでいいか。


「みゃおん。にゃーん」

『すみません。私カリンって言うんですが、ここに来たばかりでまだ何も分かっていなくて。色々と教えていただけませんか? もちろん、お礼はたっぷりしますよ?』


 あえて色々、と濁すことで生き延び方からいい餌場まで、あらゆることを教えてもらおうという算段だ。それに私の勘が『コイツはオスだ』と囁いている。なら、きっといける。


「にゃん」

『色々ってなんだ。そんなもの知らん』


 しかし、彼は私の予想に反してそんな冷たい言葉を口にした。私は思わずぽかんとしてしまうが、彼はそれすらお構いなしに歩き出そうとした。

 私は慌てて後をついていき、さらに声を掛ける。


「みゃおん」

『そんなこと言わずに〜。餌場の一つや二つくらい、いいじゃないですか』


 なるべく猫撫で声を意識しながらそう言った。もともと猫なんだから関係がない気もするが、しないよりはマシだろう。


「うー……」

『俺の餌場を奪おうってのか?』


 しかし、彼の返事は芳しくなかった。どうやら、かなり怒っているらしい。

 別に、お願いしてるだけなんだからそんなに怒らなくてもいいじゃん。


「……みーん」

『……そういうわけでは』


 私が小さく鳴くと、彼はそのまま振り返ってどこかへ歩いていってしまった。

 クソッ、ケチな猫だ。餌場はともかく、作法を教えるくらいなら減るもんじゃないし別にいいだろうに。


 しかしまあ、どうやら私は猫の生活について、一から百まで自分で学ばなくてはいけなくなったらしい。


 ◇


 ボス猫と別れ一人で行動し始めたあと。

 やはりというべきか、喉が渇きお腹が減り始めた。私は夢の中でもたまにお腹が減ったりするタイプなので、これを根拠に夢ではないと断言できるわけではないが、逆に夢でなかった場合がかなりマズい。


 とりあえず泥水ではない水と、それなりの食料を見つけたい。


 先ほどの集会のときはまだ夕方くらいだったが、しばらく散策を続けているうちにすっかり暗くなってしまった。

 そうして夜の静けさが包む町の中を、私はてくてくと歩く。そこまでの都会でもないため街頭の数もそう多くなく、この住宅地も深い闇の中に包まれていた。ただ、猫になったせいか妙に目が冴えていて、道にどんなゴミが落ちているのかまで鮮明に見分けることができた。


 私は引き続き食料を探して散策する。たまに塀の上なんかに乗ったりして、辺りを見渡す。そうして歩みを進めるが、歩けど歩けど落ちているのはゴミばかりだった。食料になりそうなものなんて、一つもない。

 まあそりゃそうか。私が人間の頃だって、道端に落ちてる食べられそうなものなんてなかったし。いやそもそも落ちたものを食べれそうなんて判断基準で見たことなんてないけどさ。


 しかし、だとすると他の野良猫はどうやって生き延びているのだろう? しばらく考えてみて、最初に浮かんだのは昆虫やネズミだったが、それらはどうしても食べたくなかった。汚いし、そんなことをするほど落ちぶれたくない。小鳥や人間の残飯がまだマシな部類だろうか。残飯に関しては状態にもよるが、探せば多少食えなくはない程度のものが見つかるかも知れない。


 そうして私は住宅地の中にある塀の上を歩いていたのだが、その時ある民家の庭に人が出てきているのが見えた。こんな深夜に何を、と思ったのだが、何やら飼い猫用の食器のようなものを庭に置き、そこに何かパラパラしたものを入れているところのようだった。たぶん、キャットフードだ。夜目が利くのにやけに視界がぼやけているせいで具体的に何を入れているのかは分からないが、ああいう食器に入れるのはドッグフードかキャットフードくらいだろう。

 私はチャンスだと思った。


 あれが野良のために入れているものなのか、それとも庭で飼っている自分の猫のためのものなのかは定かではないが、ともかく昆虫やネズミを食べるよりかはペット用のカリカリを食べた方がマシだと思った。


 その人間は、食器にキャットフードらしきものを入れ終えると、そのまま家の中に戻っていった。

 これはますますありがたい。これなら気づかれないままキャットフードだけをもらうことができる。


 私は塀から降りて、その民家の庭に侵入した。

 丁寧に手入れされた芝生の上をとてとてと猫の足で歩き、金属製の食器の前まで行く。食器の中に入っているのは、予想通りキャットフードだ。

 人間の頃は当然食べたことなんてないもので、しかし猫の状態ならこれ以上に良い食べ物なんてそうそう見つからないだろう。

 私は意を決してそれに口をつけた。


 硬い食感のキャットフードを歯で噛み砕き、飲み込む。

 ボリボリと独特の食感がするが、食べている感じはそう悪くない。味もめちゃくちゃ美味しいとまではいかずとも、普通に食べられる味だ。


 隣には水飲み器も置いてあり、そこで私は水分補給も行う。大抵の猫がやっている舌で水をすくって飲むやつも、なぜか感覚的にできてしまう。


 しかし、そんな風にして飢えをしのいでいた私の後ろから、恐ろしい唸り声が聞こえてきた。


「うー……」

『またお前か』


 振り返ったときそこに居たのは、夜の闇に紛れて威嚇している、あのボス猫だった。

 まずい、どうやらここは彼の餌場だったらしい。いや、冷静に考えてみれば分かることだった。外で餌をやった人間がわざわざ家の中に戻ったということは、これは野良用の餌だ。そしてそんなことをするということはつまり、毎日のようにここに来て食事をしている野良猫が居るということだ。空腹のせいで焦ったのがいけなかった、もう少し冷静に考えるべきだった。

 しかし、そんな風に思ってももう遅い。今の私は彼の餌場を奪った文字通りの泥棒猫であり、集会の後でのいざこざも含めて、彼からの好感度は地に落ちてしまっただろう。


「みゃ、みゃー……」

『そんなつもりじゃ……』

「にゃあ゛!」

『出てけ!』


 ボス猫はどすの効いた声を出しながら、私に強烈な猫パンチを放った。爪が食い込んで痛い、熱い。ボス猫は未だにうーと唸っており、完全に戦闘態勢だ。このままここに居ては、私は彼にズタズタにされてしまうだろう。そう考えると背筋が凍った。ボス猫の目が異様に怖くて、私は急いでその場から逃げた。

 塀の上に飛び乗って、民家の敷地から出て、歩道を走って、追いかけられないように逃げ続けた。


 私が一心不乱に走っているうちに、見たことがないような場所まで来てしまった。そこでようやく私はハッとして、猫に引っ掻かれたくらいで何をこんな大げさに逃げてしまったのかと、勝手に一人で恥ずかしくなっていた。

 でも引っ掻かれたところはまだ少し痛んでいた。見たところあまり血が出ているようには見えないけど、痛みが引く様子はない。私は猫らしく傷の辺りをぺろぺろと自分の舌で舐めることにした。それから少し辺りを見渡して、目立ってしまわないように近くの路地裏に入り込んだ。

 暗い路地裏の地面をよく見てみると、汚い水たまりや汚れで溢れている。さすがにこれを飲みたいとは微塵も思わなかった。今までは全く目を向けてこなかったものだけど、野良猫というのはいつもこういうものを飲み食いして暮らしているのだろうか。大変だ。


 ……そう考えると、楽しくもなくて、最低だと思っていた私の人間の頃の人生も、そう悪くないものだったのかもしれない。よく『日本人の生活は恵まれている』なんて話を聞くけれど、身を以て実感したのはこれが初めてだ。


 私は毛づくろいを再開しながら、考えていた。あの民家で水分と食料をある程度補給できたとはいえ、まだ少し物足りない。しかし、こんなところに居ても腹が膨れるわけではないので、どこかに行くしか無いのだろう。

 ……私は割り切ることにした。ひとまずそれなりに綺麗な水たまりでも見つけて、水分補給でもしよう。正直、人間時代に飲んでいた水からすればどれも汚いのは間違いないが、水を飲まなければ人……いや猫は生きていけない。それに食べ物がなかったとしても数カ月は生きられるらしいが、水分がなければ一週間程度で死んでしまうらしい。あくまでも人の場合の話だが、とにかく優先順位としては水のほうが高いはずだ。だから、先に水を探そう。


 私は路地裏から出て、あまり人目につかないように周囲を確認しながら歩き出した。点々と存在する街灯が照らす道のあちらこちらに目を向けながら、水たまりを探す。探す。探す……


 うん、ない。


 そもそもが水たまりがない。まあ考えてみれば当たり前か。だって今日雨が降ったことなんて一度もなかったのだし。雨でできた水たまりなんて一日もしたら蒸発してしまう。


 私は見覚えのない町並みの見覚えのない歩道の真ん中で、途方に暮れていた。

 これからは私はどう生きていけばいいんだろう。いつになったら人間に戻れるんだろう。立ち止まっていると、段々と不安が増してくる。


 私がそうして途方に暮れていると、後ろの方からガラガラとなにかの戸が空く音がした。驚いてそちらの方を見てみると、そこには家の扉を空けてこちらを見つめている、年老いた一人のおばあさんが居た。

 どうやら、先ほどの音は古びた民家の引き戸を開ける音だったらしい。


 まずい、めちゃくちゃ目が合った。いや、そんな殴ってくるような人間はそう居ないだろうが、それでもやっぱり怖いのだ。何かの拍子に踏まれたらこの体がどうなるかなんてわからないし、追いかけ回されるかもしれない。


「やっぱり。さっきからそこに座って、どうしたの?」


 しかし、予想に反して彼女は優しい声でそう話しかけてきた。とはいえ、今の私は猫だ。日本語で回答することはできない。


「み、みゃー……」

「別に何もしないんだから、そんな警戒しなくてもいいのよ。あ、それともウチのクロの匂いがついてるせいかしら?」


 彼女はそう言うと穏やかに微笑んだ。

 どうやらこの人も猫を飼っているらしい。私の鼻には他の猫の匂いなんて判別がつかないが、まあ一般的な猫なら他の猫の匂いがついた人間のことは警戒するものなのかもしれない。


「にゃお」


 私は一声鳴くと、首を横に振った。一応、これくらいのコミュニケーションならできる。


「あら、もしかして私の言葉がわかるの? すごい猫ちゃんね〜」


 彼女はそうやって私のことを褒めた。別にその言葉に深い意味はないのだろうが、ちょっとだけ嬉しくなってしまった。


「みゃーん」


 私はそう言って満足気に鳴いた。


「そうだ。せっかく地域の猫ちゃんなら、ご飯くらいあげなくちゃね。ちょっと待ってて」


 おばあさんは私にそう声を掛けると、戸を閉めて民家の中へと戻っていった。

 もしかしなくても、今ご飯と言っただろうか。どうやらおばあさんは他にも猫を飼っているらしいし、キャットフードとかを持っていても全くおかしくはない。これは運が良い。もらえるというなら、ありがたく食べていこう。


 私がそうしてこれから来るであろう食べ物に心を踊らせていると、もう一度戸が開いた。


「まだ居てくれたのね。じゃあこれあげるわ」


 そう言って彼女は水入れと一緒にキャットフードの入った皿を私の前に置いてくれた。ことんと音を立てて皿がアスファルトの地面に置かれ、彼女の手が引かれたのを見ると、私はそれに口をつけた。


『おーい、れんこー!』


 それから、家の奥の方から誰かを呼ぶ声がした。


「あ、呼ばれたみたい。ちょっとまっててね」


 おばあさんはそれに対してそう反応すると、もう一度家の中へと戻っていった。どうやら『れんこ』というのがおばあさんの名前らしい。ちょっとまって、と言っていたし、そのうち戻ってくるのだろうか。

 私はそう思いながら食事を続けたが、私がもらったものの全てを平らげた後も、おばあさんはしばらく戻ってこなかった。


 しかし、このままどこかへ行くのもあまりよろしくないだろう。何より、この人がこれからも私に餌を与えてくれるようにするためには、なるべく恩を返して私のことを覚えてもらう必要がある。礼をするという猫らしからぬ行動をして、それで覚えてもらってこれからもおばあさんに餌をもらえば、私の人生も安泰だ。


 私がしばらくそこに座って待っていると、やはりおばあさんはもう一度戻ってきた。


「あら、まだ居てくれたのね。それに全部食べてくれたんだ」


 彼女はそう言ってニコニコと笑っていた。

 私は『もう大丈夫だ』という表現をするように手で皿を少し前に押し出した。


「もう下げて大丈夫ってこと?」


 私はこくりと頷く。


「本当にかしこい猫ちゃんねぇ……ありがとう。それじゃあこれはもう下げちゃうから、あなたも帰っていいわよ」


 おばあさんはそう言って微笑むと、私の頭に手を乗せて、優しく撫でてくれた。

 毛並みに触れたしわしわの手のひらから、人肌の温かさが伝わってきた。それから、彼女は皿を下げて一瞬こちらを見て微笑むと、そのまま家の中に戻っていった。


 私は彼女を精一杯利用しようとしているというのに、彼女が屈託のない笑みを浮かべるせいで、なんだか少し気分が悪くなってきた。それに、今の私に帰るところなんてないのに。


 それから、ガラガラと戸が引かれ、その少し後に玄関の明かりが消えた。私はそれを見届けると、行く宛もなく歩き出した。


 ◇


 おばあさんの家を去った後、どこかで寝ようかとも思ったが、妙に目が冴えていて眠る気になれなかった。そうして歩いていると、少し都市部の方に入ってきたようだ。少し高めのビルや建造物が点々と建っている。

 ここはかなり見覚えがある。私が住んでいるのはもう少し郊外の方だが、私の職場があるのもここからもう少し奥に行った方だ。


 それから、私がふと顔を上げると、目の前には補修工事中の電波塔があった。確かあれはこの市で一番高い建物で、電波塔の存在自体もこの市では結構有名だったはずだ。

 私は、いつもその上からの眺めが少し気になっていた。あの電波塔の頂上に登って、その上からの眺めを堪能してみたかったのだ。有名な東京タワーやスカイツリーと比べたら随分こぢんまりとした建造物なのは間違いないのだが、この街にあるからこそ登ってみたいといつも思っていた。


「にゃー」

『よし』


 私は一つ鳴き声を上げて、決意を表明した。せっかく猫になったんだし、あの工事現場の足場をつたって、上に登ってみよう、と。

 猫の姿ならそう難しいことはないはずだ。もし落ちて死んでしまったとしても、それはそれでいい。これから先も猫として生きていける保証なんて無いし、死んだら夢から覚めて人間の姿に戻ることだってできるかもしれない。人間の姿に戻れないかもしれない可能性だってあるけど、だとしても別に構わない。

 だって、別に今までの生に未練なんてないのだから。


 ◇


 私は補修工事のために置かれた工事用の足場と足場を乗り継ぎながら、上へ上へと進んでいく。この工事用の足場は、あまり階段が設置されておらず、電波塔に沿って円形状に設置された足場が何層にも積み重なっている形になっている。作業員はハーネスなんかで昇り降りしているのか知らないが、こちらとしてはあまり嬉しくない話だ。そのせいで、今居る層から上の層に飛び乗る瞬間は、毎回ひやひやする。

 しかし、電波塔の枠組み自体も結構幅が広く、足場を使わずとも枠組みの上をつたって上に登ることも、場所によっては可能だ。

 こんなことをしていると、まるでパルクールをしているかのような気分になる。特に、インターネット上に危険なパルクールの映像を上げているインフルエンサーのそれ。


 そうして電波塔の上に登っていくと、少しずつ風が強くなってくる。カン、カンと工事用の足場が金属音を鳴らして揺れる。風が吹いてくる度に肌寒さを感じる。ここは私の足音と風の音しかしない、静かな場所だった。この高度になると、道路を走る車の音や人の雑踏といった都市の喧騒は聞こえなかった。

 現在の時刻がどのくらいかは分からないが、まだ世界は暗いままだった。ただ、私のはるか上空を思いっきり塗りつぶすように広がる空は、どこかぼんやりとした明るさを帯びており、日の出が近いことだけはわかった。


 大丈夫、まだ登れる。


 私は無心で電波塔を登り続けた。どのくらいの間そうしていただろうか。ふと、私の瞳に眩しい光が入ってきて、目を細める。

 改めてその光がやってきた方向を見てみると、そちらには街の建物と建物の間から少しずつ顔を覗かせる、太陽の姿があった。


 ああ、もうそんな時間なのか。


 そう思うと同時に、どこか安堵している自分が居ることに気がつく。日の出の時間まで落ちずにここまで登ってこれたことへの安心だろうか。


 とにかく、この時確かだったことは――


「にゃー」

『そろそろいいかな』


 この電波塔のもっと上に行こうという気が、なくなってしまったことだった。上を見上げてみても、残りの足場の層はあまり多くなかった。電波塔自体はまだまだ続きがあるが、足場もだんだん狭くなってきたし、登れるのは正直この辺りが限界だと思っていいだろう。


 それから、改めてこの電波塔の上からの眺めを堪能する。

 朝日を浴びて輝くガラス張りのビルの側面、だんだんと暁色に染まる街並み。空を泳ぐ冷たい風も、つんと鼻を刺すような薄ら寒い空気の匂いさえも、今はどこか暖かく、心地よいものに感じることができた。

 月並みな言葉だけれど、美しく、綺麗だと思った。


 ――さて、満足だ。


 私はその冷たい工事用の足場の上に座り込んで、体を丸くした。電波塔の上での朝日の日向ぼっこは、すごく気持ちがよかった。

 しかし、そうして丸まっていると私は段々と眠くなってきてしまった。その睡魔に抵抗しようという気分でもなかった私は、その欲求に身を任せて意識を手放した。


 ◇


 私が目を覚ました後も、私が居るのは高い高い電波塔の上だった。現在太陽はだいたい私の真上に存在しており、時間はおそらく正午のあたりだろう。そういえば起きてから『ここに工事現場の作業員が来たらどうしよう』と少し慌てたのだが、今日は休みなのかなんなのか、誰もここに来ている気配はなかった。上空から地上に居る人々の動向を見て今日が休日なのか判断しようと思ったが、それをするにしてはこの場所は高すぎた。

 私は足場の上で大きく伸びをしてから、ひとまず地上に降りることにした。なにせ、ここに居ても景色を堪能する以外にすることなんてないのだから。


 降りるときは登るときよりも少しだけ緊張感が薄れていた。もう既に慣れたということに加え、重力に任せて降りることができたからあまり力まずに済んだのが理由だろう。あるいは、単に寝ぼけているだけなのかもしれないけれど。


 ともかく、ほどなくして私は地上に降り立った。この電波塔は公園の中央に土台が設置されており、私が降り立ったのも公園の芝生の上だ。とはいえ下の部分は工事現場でよく見るあのシートで覆われており、私が降りてくる姿はほぼ誰にも見られていないだろう。

 もし見られていようものなら、その人物から熱い視線が送られてくることは間違いないだろうけど。私だって電波塔の上から降りてくる猫が居たら絶対に驚いて見つめてしまう。


 ともかく、そうして地上に降り立った私を一つの問題が襲った。

 それは――


「にゃん」

『お花摘みにいきたい』


 とてつもない尿意だった。さっきから少しばかり我慢していたのだが、そろそろ無視できない。

 いや、普通に考えて猫の状態なら野でするのが当然なのだが、乙女心としてはひっじょーに、やりたくない。やりたくないのだが、やるしかないのだろう。


 しかし都市部という人の目があるところでするのはさすがに嫌なので、もう少しだけ我慢して郊外の方に言って、自然が豊かな場所で私はお花を摘みたい。

 私はそう考えて、工事現場のシートをくぐって外に出る。急いで郊外の方へ向かおう。


 ◇


 そうして、私は見覚えのある場所へ戻ってきた。猫になった時、私が最初に居たあの場所だ。

 私の家もこの辺りにあるし、やっぱりここは落ち着く。


 が今は余韻を感じている場合ではない。この辺りなら家と家の隙間にそれなりに目立たないかつそこまで汚くない茂みがいくつかあるはずだから、そこでお花を摘んでこよう。

 私がキョロキョロと周囲を探していると、すぐに条件に合致する茂みが見つかった。私はそこに駆け寄ると――


 ◇


「にゃう」

『すっきりした』


 私は満足げにそう鳴いた。

 いやしかし、自分で言うのもなんだが随分猫の生活が染み付いてきてしまったな。食事も水分補給もトイレも済ませてしまっては、まるで立派な野良猫みたいじゃないか。


 なんだか運命に弄ばれているような気分になってきて少し嫌な気持ちになりながら、私は次の行き先について考えていた。

 そこで最初に思い浮かんだのは、埠頭だった。今日が休日なら、釣りをしているおじいちゃん達が居るだろうし、彼らの傍に擦り寄れば魚を恵んでもらえるかも知れない。あるいは邪険に扱われたとしても、隙を見て魚を奪えばそれで今日の食料は事足りる。


 そんな私の薄汚れた欲望とはまた別に、純粋に私はこの町の埠頭が好きだという部分もあった。

 よく埠頭に座り込んで水平線の向こうを眺めては、私の汚い部分も全て洗い流してくれることを望んだものだ。ただの水分子の運動でしか無い海の波に求めることにしては、レベルが高いのかもしれないけれど。


 ◇


 塩の匂いの混じった風の吹く、コンクリート製の埠頭の上。私は座っていた。目の前には青々とした水平線が広がっており、横の方に目をやると漁船がいくつも並んでいた。

 埠頭をもう少し歩いたところには、釣りをしている男性が居たが、その傍にはまた別の猫が居た。先約が居ることに加えて、その釣り師はかなり猫を邪険に扱っているようだし、彼から魚をもらうのは難しいだろう。


 私は立ち上がり、別の場所で他の釣り師が居ないか探すことにした。そうして私は歩き出したのだが、埠頭の辺りを歩いていると何か奇妙な視線を感じた。

 視界の端に映ったその視線の主は、どこかの高校の指定ジャージらしき服を着た、一人の若い女の子だった。ラケットケースを持っているところを見るに、彼女はバトミントン部所属の高校生なのだろう。

 そんな彼女は、どうにも好奇心を抑えられなさそうな表情でこちらを見つめていた。大方、私を撫でてみたいとかそういう感じのところだろう。


 しょうがない、私は女の子には甘いのだ。背中を軽く撫でるくらいなら許してやろう。


 そう思って私は目を合わせないようにしながらも、わざと彼女の方に寄るようにして歩いていった。

 そうして近づいていくうちに、彼女は慌ててジャージの上着のポケットやズボンのポケットを探ると、何かを取り出した。遠いせいかぼやけていてよく見えないが、小さな何かの袋のようだ。

 私、こんなに視力悪かったっけな。普段は裸眼なんだけど。


 そんなことを奇妙に思いながらも近づいてみると、その袋は猫用のお菓子であることが分かった。あらゆる猫に大人気のチューブ状のお菓子だ。

 ほう、それを私にくれるというのか、なかなかいいやつだな。


 ……というかお菓子を持ち歩いているのはなぜなんだろうか。この町は野良猫が多い方だし、自分の手で野良猫にお菓子をあげてみたかったとかの理由なのかね。ともかく、私にとってはありがたい話だ。

 その女子高生とあと数メートルという距離になったところで、彼女の方からもそろりそろりと近づいてきた。私はそれに今気付いたフリをすると、袋をガン見しながらとてとてと彼女の方に走り寄った。彼女はどこかワクワクしたような表情を浮かべながら、しゃがみこんでその袋を地面に近づける。


 女子高生とはいえ、やはり人間は体が大きいもので、近づくにつれ恐怖感が少しずつ出てくる。だが、彼女の無邪気なその表情を見ていると、そんな気分はすぐに吹き飛んだ。

 改めて近くで彼女の顔を見てみると……可愛いなきみ。どうやら、なかなかの顔整いのようだ。

 しかし、この状況っていわば中身成人女性が女子高生に餌付けをされているものなわけで……いや、考えるのはよそう。


 私はそんな思考を振り切って、目の前に差し出されたチューブ状のお菓子を舐め取った。あんまり乱暴にやるのも良くないかと思って控えめにぺろぺろと舐めているのだが、当の女子高生は非常に満足げな表情を浮かべていた。さらに恐る恐る私の頭の上に手を伸ばすと、私のことを優しく撫で始めた。


「よーし、よしよし……んー! ほんとに可愛い……」


 正直私よりきみのほうが可愛い気がしてならないけどね。猫の身になってすら女子高生に可愛さで負けるのか、とどこか敗北感を覚えながらも私はチューブ状のお菓子を咀嚼し続けた。


 それにしても、これが撫でられるという感覚なのか。頭と背中は毛づくろいしにくいし、そういうところの毛並みが整えられる感覚は……ふむ、悪くない。

 そんな風にお菓子を咀嚼しながら撫でてもらっていると、意図せず自分の喉が鳴っていることに気がついた。あ、猫ってこんな感じでゴロゴロ鳴くんだなぁ。


 しばらくそうしていると、お菓子が底を尽きてしまった。ああ、残念。でもめちゃくちゃ美味しかったのでありがたい。人間の時で言うなら安めのショートケーキくらいの美味しさはあった。

 やっぱり、猫になると味覚も変わってしまうのだろうか。キャットフードだってそこそこ美味しく感じてしまったし。


 そんなことを思っていると、彼女はカバンから小さなビニール袋を取り出してそこにお菓子の袋のゴミを放った。


「初めて猫にお菓子あげられたー! 嬉しい〜! 猫ちゃんもありがとね」


 彼女はそうやって優しく微笑むと、また私の頭を撫でた。このこの、可愛いやつめ。

 『初めて』という発言からして、おそらく彼女は普段から猫に餌やりをしてみたくてお菓子を持ち歩いていたのだろう。ただ、この町の猫は都心の野良猫よりは人馴れしている気がするが、それでも自分から近づいたりずっと見つめていたりすると逃げてしまうことが多い。そんなところに、全く逃げない私が来たから、彼女はここまで喜んでくれているのだろう。

 まあ、こちらとしてもそう悪い気分ではない。


「あ! やばいそろそろ帰らなきゃ! じゃあね猫ちゃん!」


 彼女はスマホを取り出して時間を確認するような仕草をすると、私に軽く手を振ってそのままどこかへ走り去っていってしまった。

 可愛かったなぁ、あの子。


 ともかく、私としては今日の食料も確保できたし、撫でてもらえたしで大変満足だ。そんな風にしてしばらく走っていった彼女を眺めていると、どこか眠たくなってきてしまった。

 美味しいものを食べたせいだろうか。


 まあ今日これ以上どこかへ散策するのも面倒だし、埠頭の辺りで眠ってしまおう。

 今日は日差しも暖かいし、日向ぼっこしながら眠れば最高の気分になれるだろう。


 なんだかんだ、この町には猫に餌をくれる人間が多いらしい。だから、これからもそう食料に困ることはないのかもしれない。水に関しては、まあ水たまりを頑張って探せばいいし、そんなに苦労することもないだろう。

 私は、猫になってもそれなりにうまく生きていけるのかもしれない。


 そう思うと、今までの不安が少し和らいだような気がした。


 さて、今日はもう眠ろう。疲れた。

 私は潮の音が響くコンクリートの埠頭の上で、燦々と輝く太陽の光を浴びながら眠りについた。


 ◇


 ――

 ――――


 私が目を覚ましたとき、はじめに聞こえたのは潮の音だった。次に鼻をつんと刺すような潮の匂いを感じて、私は辺りを見渡した。どうやらここは最後に私が眠った埠頭のようだ。水平線の向こうを見てみると、すでに日が落ち始めており、今が夕方であることが分かる。

 私は大きく伸びをしようとして、自分の体の異変に気がついた。いや、あるいは異変というより、平常というべきなのかもしれない。


「え……」


 視界の前に手を持ってくると、それはふわふわの毛が無数に生えた小さな手ではなく、毛がなくつるつるで五本の細長い指が生えた肌色の手だった。それに、驚いた時に漏れた声も、にゃんとかみゃおとかではなくしっかりとした人間の声だった。

 私がしばらく状況を飲み込めていなくてぱちぱちと瞬きをしていると、横から誰かが私に声を掛けた。


「おーい、お嬢ちゃん。あんたいつからここに居るんだ?」


 声の主の方に目を向けると、そこには私が猫だった時にも埠頭で釣りをしていた男性だった。

 釣り竿を肩に掛けながら、眉間にしわを寄せて私のことを見ている。心配ももちろんあるが、それ以上にこんなところで寝ていた私のことが怪しくてしょうがないのだろう。

 ひとまず私は彼の質問に答えることにした。えっと、『いつからここに居るのか』だっけ。猫だったときの話も合わせると――


「え、えっと、いつからでしょう。たぶん昼から?」

「ふーん……昼に俺も居たが、そんな人影居なかったけどな」


 私がしどろもどろに答えると、彼の表情はより険しくなった。


「ま、別にいいけどよ。家には帰れるのか?」


 そう聞かれて、私は自分の家の場所や帰り道を思い浮かべてみる。うん、どれも全く問題なく思い浮かべることができる。これなら問題なく家に帰ることができそうだ。


「……はい。そこは大丈夫です。すみません、ちょっと意識が朦朧としていたみたいで」

「昼間っから酒でも飲んでたのか? 明日は日曜だし、若いからいいのかもしれんが……まあ、気をつけろよ」


 釣り師の男性は私にそう言うと、そのままどこかへ去っていってしまった。

 私は改めて自分の体に目を落とすと、そこにはいつも仕事で使っているスーツを着ている自分が居た。さらに、近くには私がいつも持ち歩いているハンドバッグも落ちていた。


 私は急いでそれを拾って、中身を確認する。特になくなっているものは無いように見える。それからハンドバッグの中に入っていた財布の中身と、携帯のパスワードなども確認してみるが、特におかしなところはない。

 それから、今自分の顔がどうなっているか気になったので、ハンドバッグの中身を漁ってファンデーションを探す。それからその蓋を開けて、中身に付いている鏡で自分の顔を確認する。


 うん、特におかしいところはない。 猫のヒゲが着いていたりもしないし、色のついた奇妙な産毛が増えていたりもしない。なんならすでにメイクが施されていて、いつもの外出時の私だ。


 私は改めて水平線の向こうを眺める。少し暗くなり始めた水面(みなも)は、青というよりも黒色に染まり始めていた。


 ――確かにここは私が猫の時に眠りについた場所だ。さっきの釣り師だって居るんだし、それは間違いない。猫の時の記憶だって未だに鮮明に思い出せる。餌と水を求めて探し回ったことも、あの電波塔に登ったことだって。

 全てを夢であったと片付けるにはあまりにも現実味がありすぎて怖い。怖いけど、別にだからといって何か不都合なことが起こったわけではないし、私は今こうしてここに居る。

 それならまあ、別にいいかと思うことができた。


 そうして、私は人間に戻った体の具合を確かめるようにあちこち動かしながら、


「……ちょっと残念だなぁ」


 と呟いた。最初こそ不安のほうが大きかったが、最後の方になると『これからは猫生を満喫するのも悪くないかも』なんて思っていたのに。


 しかし、猫になった後に改めてこの町を見てみると、やっぱり少し見え方が違う。私にはこの町が前よりもずっと綺麗に見えた。

 視点の高い、低い、それから猫と人間の目の性能の違いもあるのかもしれない。


 ――でも、私の心はそれを少し否定したがっていた。

 猫も人間も、色んな生物がこの町で暮らしている。私もその一員だし、この町の一部。それぞれがそれぞれの視点で生きていて、その全てにきっと良いも悪いも無いんだと思う。猫という視点で一度必死に生きてみたことで、そういうことが分かった気がする。

 あのボス猫だってまあケチだったけど、きっとああしないと生きていけないんだろう。餌をくれたおばちゃんだって、私にとってはいい人だったけど、野良猫に迷惑被ってる人からしたら悪役だろう。だから、全てはどこから見るかでしか無いんだと思う、たぶん。


 そういった、人生経験……いや、猫生経験みたいなものが、私の町に対する見方を変えてくれたのだ。

 私は、そう思いたかった。


「帰ろうかな」


 私は一つ呟くと、そのまま帰路についた。スマホで日付を確認すると、今日は土曜日。明日は休みだし、明日は十分余韻に浸ったあと、月曜から真面目に仕事をしよう。

 猫生を謳歌した後は、人生を謳歌しなければ。

 最後までお読みいただきありがとうございます!

 いかがでしたでしょうか? もし面白いと思っていただけた場合は、ページ下部から入れることのできる☆☆☆☆☆を埋めていただいたり、作品へのブックマークをしていただければ大変嬉しく思います! また、感想レビューなどもぜひぜひお待ちしております!


 さて、本作ですが、本編で言っていないこととして「野良猫の一部は、去勢手術をして地域猫として生活している」ということです。私も軽く調べただけですので正確ではありませんが、大抵はどこかの地域の猫のほぼ100%を全員去勢することで、数を増やさないようにしつつ猫ちゃんを苦しませない、という取り組みを行っているそうです。

 そんな彼ら地域猫の目印は、耳が小さく三角に切り取られていること、だそうですよ? いえ、特に深い意味はないんですけどね……


 ということで、改めて最後までお読みいただきありがとうございます! もし良ければ他の作品なんかもお読みいただけるとますます私が喜びます。それでは、またどこかでお会いできることを楽しみにしています。

 ありがとうございました〜

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