あなたのいない銀河
アルケミア帝国の崩壊から1年後、銀河系は大きく変化していた。スターイーターの全破壊により、超大型惑星破壊兵器の時代は終わりを告げた。残された技術は全ての惑星間勢力が共同管理し、二度と単独で使用できないよう厳重に封印された。
銀河系の中心、かつてアルケミア帝国の首都惑星があった場所には今、「星間共同体議会」の壮大な本部が浮かんでいた。連邦の残存勢力と帝国の改革派が中心となり、より開かれた統治形態を模索する新たな時代が始まっていた。
議会ドームの真下には、「平和の庭」と名付けられた瞑想空間が広がっていた。その中心には、惑星サイズの反重力場によって支えられた巨大な水晶彫刻があり、星々の光を七色に分解して空間を彩っていた。詩的な公式説明によれば、この彫刻は「失われた星々への鎮魂と、新しい希望の象徴」とされていた。
しかし、ごく少数の関係者だけが知る秘密があった。この水晶彫刻の最も奥深くに埋め込まれた微小チップには、ある特別な絵が保存されていた。それは、最後の帝国元帥アレクシア・ヴァイスと、伝説の将軍カイル・レノックスの肖像画だった。
「最後の恋人たち」と題されたその絵には、互いを抱き合う二人の姿が描かれていた。背後には光に包まれた星々。彼らの表情には平穏と覚悟が混在していた。公式記録では、二人は「謎の帝都崩壊と共に消えた」とされていたが、真実を知る者はごく僅かだった。
空間の隅、ほとんど目立たない小さなベンチに、老科学者が一人座っていた。187歳を迎えたソフィア・クロン博士は、ある時から延命治療を拒否し、自然の老化を受け入れていた。かつての華奢な体は一層小さく縮み、その髪は銀色に輝いていた。
「こんな所にいると思った」
声の主は、アリア・レノックス。カイルの妹で、今や155歳になっていた。彼女は医師として辺境の惑星で働き、数百万人の命を救ってきた。長寿治療により、彼女はまだ活力に満ちていた。そんな彼女もいまや星間共同体議会議長である。
「彼らの傍にいたくなるの」
ソフィアは微笑んだ。
「特に重要な決断の前はね」
アリアはベンチに腰を下ろした。
「議会の決定はどうなりそう?」
「開拓支援プログラムは承認されるだろうね」
アリアは静かに答えた。
「彼らの望んだ通りに」
二人は議会ドームを見上げた。明日、銀河系は新たな方向へと大きく舵を切る。惑星破壊による抑止ではなく、相互依存と協力による平和の道を選ぶことになる。
「彼ら二人が本当に死んだと思う?」
アリアは突然尋ねた。ソフィアは神秘的な微笑みを浮かべた。
「誰にも分からないわ。私が知っているのは、スターイーターの制御システムに最後の瞬間、予期せぬエネルギーの流れがあったということだけ」
「転送?」
「可能性はゼロではないわね」
ソフィアは水晶の芯を見つめた。
「カイルはいつも予備計画を持っていたから」
「兄らしいわ」
アリアは微笑んだ。
「だけど、あの二人は一緒に生きるより、死を共にする方を選ぶタイプだった」
アリアは水晶の中心に視線を向けた。一瞬、光の屈折によって、二つの人影が手を取り合って歩いているように見えた気がした。幻か、それとも...?
「新しい時代は、彼らが望んだものになるかしら?」
アリアは静かに尋ねた。
ソフィアは彼女の手を取った。ソフィアの手は老いてシワシワだったが、温かさがあった。
2742年5月20日、地球連邦の首都ノヴァ・テラに惑星破壊砲「スターイーター」のビームが直撃した。同日にアルテミス植民地、エリジウム・ステーション、アトラス要塞、オリンポス基地にも着弾。連邦領土の中心地域は塵と化した。この攻撃でレイナー大統領をはじめとする統治評議会のメンバーたちは即死し、十億三千万人の命が消えた。
翌日5月21日には、サターン・リング・コロニー、プロキシマ・アウトポスト、エデン・ハブ、アカディア・ステーションに着弾。地球連邦の中央政府は完全に崩壊した。
そしてその翌日、5月22日にはフォボス軍事基地、アルゴス・コロニー、エウロパ居住区に着弾。これらの拠点も宇宙の闇へと消え去った。
「最終オペレーション・ステラリス」により、たった三日で地球連邦は崩壊した。生き残っていた連邦軍は「スターイーター」の射程圏外のアンドロメダ・リム宙域まで撤退し、連邦の再興を試みている。来月にはアルケミア帝国軍が中心宙域に進軍するが、すでに連邦の組織的抵抗は消滅しており、第五次星間大戦の勝者はアルケミア帝国に確定した。この一連の攻撃によって、最終的に六十五億人の命が星の灰となった。
アルケミア帝国の超大型旗艦「エーテルウィング」の司令室は、壮麗な輝きを放っていた。ミリタリーグレーの重厚な装甲壁に、オーロラのように揺らめく青と紫の光が交錯する神秘的な空間。巨大な透明ダイヤモンド合金の窓からは、征服された銀河系の絶景が広がっていた。ここは単なる軍艦の一室ではなく、千の星系を支配する帝国の玉座であり、究極の惑星破壊兵器「スターイーター」の管制中枢でもあった。
「詳細な報告を求めるわ」
アレクシア・ヴァイス元帥は、永遠に続く星々の海を眺めながら、氷のように冷たい声で命じた。生体改造と高度な医療技術により、完璧な美しさを保っている彼女は、宇宙の暗黒面を体現するかのような存在だった。瀑布のように流れる白金の長髪は腰まで届き、漆黒のフォーマルコートが彼女の細身の体を包み込んでいた。その瑠璃色の瞳には、千年の叡智と銀河系を意のままに操る冷徹な計算が宿っていた。
「全ターゲットへのスターイーター照射シークエンスが完了しました、元帥」
低く響く男性の声が応える。カイル・レノックス大佐だ。「スターイーター」プロジェクトの最高指揮官であり、アレクシアの右腕として知られる存在。108歳という年齢ながら、長寿遺伝子治療と軍用生体強化により、壮年の肉体美を誇示していた。高身長で広い肩幅、鋼のように鍛え上げられた体に、深い経験を物語る面差しと短く刈り込まれた漆黒の髪、そして深い森のような緑の瞳が特徴的だった。その眼差しは、相手の心を見透かすような鋭さを持ちながらも、どこか遠い星を見つめるような哀愁を帯びていた。
光の速さで駆け巡る神経インプラントを通じて、彼の脳には戦場の全データがリアルタイムで流れ込んでいた。カイルは銀河系で最も優れた軍事戦略家であり、その冷静沈着な判断力は伝説となっていた。
「連邦の主要拠点は全て星間塵と化しました。残存勢力はアンドロメダ・リム宙域へと散り散りに逃走中です」
カイルは感情を微塵も見せずに報告を続けた。その声は完璧に制御され、軍人として理想的な平静さを保っていた。しかし、その心の奥底では、最終的に六十五億の命を消し去った行為への自責の念と倫理的葛藤が嵐のように渦巻いていた。星々が消えゆく光景を脳内映像で何度も目撃しながら、彼は表情を変えなかった。
アレクシアの唇に、勝利の微笑みが浮かんだ。彼女は優雅に振り返り、ホログラフィック制御パネルに触れて巨大な宇宙地図を展開させた。赤く染まった領域が銀河系の大部分を覆っていた。
「見事な戦果ね、カイル」
彼女はほとんど愛撫するような声色で告げた。
「貴方のスターイーターは、私の最も大胆な期待さえ凌駕したわ」
その声には僅かに官能的な色合いがあり、それはカイルの記憶の中にある過去の炎を一瞬だけ呼び覚ました。
「これは帝国科アカデミーの功績です」
彼は素っ気なく答えた。
アレクシアは彼に近づき、その胸に飾られた勲章に指先で触れた。
「いいえ、あなたなしでは何も生まれなかった」
一瞬、カイルの目に感情の閃きが宿った。しかし、それはすぐに消え去った。
「さあ」
アレクシアは艶やかに髪をかき上げた。
「全将軍を集めて、かつてない壮大な勝利の宴を開きましょう。今宵、歴史は新しいページを刻むわ」
カイルは厳格な軍人らしく頷いただけだった。だが彼の心の底では、すでに別の歴史を書き換えるための計画の歯車が回り始めていた。
アルケミア帝国科学アカデミーの地下300階に位置する「アビス・ラボ」。
一般市民はおろか、ほとんどの高官でさえその存在を知らない、帝国最深の闇。
壁は純粋な反物質を封じ込める特殊合金で構成され、生体認証は24段階の量子暗号化を施された異次元の厳重さを誇る。
その絶対的な静寂の中、ただ二人の人間だけが、世界の命運を握っていた。
「彼らの想像を超える形で機能したわね」
ソフィア・クロン博士はホログラムに映る惑星消滅の映像を見つめながら、低く呟いた。
その声音には科学者としての達成感と、人間としての罪悪感が不協和音のように混じっていた。
彼女は高齢ながら、生命延長処置によって20代の姿を保っていた。
小柄で華奢なその体は、見ようによっては少女にも見えるが、眼差しには宇宙の誕生すら計算できるほどの深淵な知性が宿っていた。
「そして今、私たちの理論は六十五億の命を奪った」
カイルはかすかに震える声で言った。
この空間においてだけは、彼の冷徹な軍人の仮面が剥がれ、ただの男としての脆さが露呈していた。
ソフィアはそんな彼をそっと見つめ、ためらうように、その肩に手を置いた。
その手は軽やかで、しかしほんの僅かに震えていた。
「私たちには選択肢がないわ」
彼女は囁くように言った。
「アレクシアが完全にスターイーターを掌握していたら、銀河の半分どころか、ひょっとすると全てが灰になる。……でも、だめでしょうね、あの子は。もう、止まらない」
その声には、冷静な科学者としての分析の裏に、どこか安堵にも似た響きがあった。
"あの女"がいなくなる――その未来を想像した自分に、ソフィアは気づきたくなかった。
だが、どうしても心はわずかに期待してしまう。
もしも彼が、アレクシアを失ったなら――
「いや、選択肢はある」
カイルが投げた言葉に、ソフィアはハッと我に返った。
彼の脳内コマンドによって、室内の空間に複雑な三次元コードが浮かび上がる。
「スターイーターの制御システムには、私だけが知っているバックドアがある」
その言葉を聞いた瞬間、ソフィアの瞳孔が大きく開いた。
「まさか……あなた、最初から……」
「アレクシアは知らない」
カイルは目を逸らさず、静かに続けた。
「彼女は科学の本質を理解していない。真のパワーは破壊ではなく、制御にある。そして最も重要なのは――」
彼は一歩近づき、ソフィアの両手をそっと包み込むように取った。
その手のぬくもりに、ソフィアの心がざわめいた。
「最も重要なのは、いつ手放すかを知ることだ」
その言葉に、ソフィアは深く頷いた。理解と、共感と、そして――ひそかな渇望を胸に。
彼がこの手を取ってくれるなら、私は何でも捧げる。
そう思ってしまったことに、彼女は自ら驚いた。
彼の背後に映るホログラムを見ながら、ソフィアは問いかける。
「それで、次の計画は?」
カイルは目を上げ、ラボの窓の向こうに広がる星々を見つめた。
それは彼らが壊した命の墓標であり、これから生まれる時代の予兆でもあった。
「明日、真の革命が始まる」
彼の声は穏やかでありながら、炎のように熱を帯びていた。
「そして、私たちはアレクシアを解放する」
ソフィアの胸が、ほんの少しだけ高鳴った。
「解放?」
「彼女自身から」
その言葉に、ソフィアはゆっくりとまばたきをし、カイルの手を離した。
唇の端に、わずかに笑みを浮かべながら。
その笑みには、どこか罪深い甘さがあった。
まるで自分が"選ばれる未来"を、想像してしまった少女のように。
だが彼女は、決してその感情を言葉にはしない。
彼の隣に立つ資格が、まだ自分にはないことを知っているから。
ただ、ほんの少し――
アレクシアがいなくなれば、私にも“未来”が巡ってくるのではないかと、夢を見た。
それが、どれほど罪深い希望であろうとも。
カイルとアレクシアの関係は単純な上官と部下のものではなかった。二人は、アルケミア帝国軍事アカデミーで同期生だった。当時の若きアレクシアは、今の冷酷な「闇の女帝」とは似ても似つかぬ、燃えるような情熱と理想に満ちた士官候補生だった。
「見て、カイル!」
アルケミア宙域最大の観測デッキで、アレクシアは宇宙服のヘルメットを脱ぎ、膝まで届く白金の髪を解き放った。彼女の周りに漂う髪は、無重力状態で神秘的な光の波となって踊った。彼女の瑠璃色の瞳には、まだ未来への純粋な憧れが宿っていた。
「いつか私たちの手で、この腐敗した宇宙に新しい秩序をもたらすの」
彼女の周りには無数の星々が燦然と輝き、その光が彼女の顔を神々しく照らしていた。まるで宇宙そのものが彼女に祝福を与えているかのようだった。
「新しい秩序か」
カイルは当時から理想主義者ではなかった。厳しい幼少期を経て軍人となった彼は、現実主義の鎧を纏っていた。しかし、彼女の情熱に惹かれずにはいられなかった。アレクシアの周りにはいつも、人を引き寄せる不思議な磁力があった。
「それがどんな姿か、私には想像できないな」
「自由と公正が保証され、強者が弱者を搾取しない世界よ」
アレクシアは熱く語った。
「暴力ではなく知性が支配し、恐怖ではなく希望が人々を導く未来」
カイルは思わず微笑んだ。
「君は軍人ではなく、詩人になるべきだったかもしれないな」
「馬鹿ね」
彼女は軽く彼の肩を叩き、笑った。その笑顔は純粋で、今の彼女からは想像もできないものだった。
「でも私は本気よ。いつか絶対に実現してみせる」
その夜、観測デッキの特殊ガラスから漏れる星明かりの下、二人は初めて愛を交わした。
カイルの手がアレクシアの肌を撫で、彼女の白金の髪が二人を包み込む。宇宙の無限の闇と星々の輝きを背景に、彼らは互いの体温を確かめ合った。二人の体は完璧に調和し、まるで永遠に一つであるかのように感じられた。
「カイル...」
彼女はその名を甘く囁いた。
「約束して。いつか一緒に、本当の平和を作るって」
彼は彼女の髪に顔を埋めながら答えた。
「約束するよ、アレクシア。たとえ死の果てまでも」
若さと情熱に溢れた一夜は、後に長い影を落とすことになる。
それから数十年、二人は異なる道を歩むようになった。アレクシアは帝国の政治的階段を駆け上り、カイルは軍事科学の道で頭角を現した。彼らは時折遠くから互いの成功を確認し合ったが、あの夜のほどの親密さはなかった。
アレクシアは帝国内での権力闘争に巻き込まれ、次第に妥協を強いられるようになった。最初は小さな妥協だったものが、やがて彼女の核心的な理想にまで及んでいった。彼女は権力の味を覚え、その力に魅了されていった。かつての理想は、現実という名の怪物に少しずつ食われていった。
そして15年前、「闇の女帝」と畏れられるようになったアレクシアは、スターイーター計画の責任者としてカイルを指名した。彼らの再会は、かつての恋人同士としてではなく、女帝と彼女の兵器開発者としてのものだった。
「久しぶりね、カイル」
彼女の声には、かつての温かみはなく、ただ洗練された冷たさだけがあった。
「お呼びとあらば、お応えするのが臣下の務めです、元帥閣下」
彼は形式的に答えた。表面上は完璧な軍人として振る舞ったが、その心の奥底では、アレクシアの変貌に深い悲しみを感じていた。
「スターイーター計画をあなたに任せたいの」
彼女は直接的に言った。
「惑星破壊兵器ですか」
「そう。連邦との戦争を終わらせるためには必要なの」
カイルは彼女の瞳を見つめた。かつてそこにあった輝きは消え、代わりに冷たい計算と不屈の意志が宿っていた。
「あなただけが、この計画を完成させられる」
彼女は続けた。
「銀河の平和のために」
彼は皮肉な笑みを浮かべた。
「平和のために惑星を破壊する。かつての理想とは違う道筋ですね」
一瞬、アレクシアの目に何かが閃いた。痛みか、懐かしさか、あるいは後悔か。しかしそれはすぐに消え去った。
「理想は変わらない。ただ、それに至る道が違うだけよ」
その日、カイルはスターイーター計画の責任者となることを受け入れた。しかし、その目的は彼女の思惑とは全く異なるものだった。
彼は星々を見上げ、心の中で誓った。
「必ず君を救い出す。たとえそれが、君自身から救うことになっても」
スターイーター作戦は成功しました、元帥」
中央作戦室で、カイルは公式の報告を行っていた。アレクシアの側近たちが周囲に集まっている。
「素晴らしい戦果ね」
アレクシアは満足げに言った。
「これで銀河系の大半は我々の支配下に入った。残るは辺境星域のみ」
「次の作戦の準備を始めるべきでしょうか」
側近の一人が尋ねた。
「いいえ、少し休息を」
アレクシアは意外な言葉を口にした。
「我々の兵士たちにも休息が必要よ。それに...」
彼女はカイルの方を見た。
「スターイーターの調整も必要でしょう?」
カイルは冷静に頷いた。
「はい。次の大規模照射の前に、いくつかの微調整が必要です」
「では1週間の休息期間を取りましょう。その後、残存する連邦軍の掃討作戦を始める」
会議が終わり、人々が退室していく中、アレクシアはカイルを呼び止めた。
「カイル、個室で話をしたいことがある」
彼は無表情のまま頷いた。
「承知しました」
アレクシアの個室は豪華だが質素だった。彼女の本質を表すかのように、必要最低限の贅沢さと機能美が融合していた。
ドアが閉まるとすぐ、アレクシアの表情が変わった。公の場での威厳ある元帥の顔から、どこか儚さを帯びた女性の顔へ。
「久しぶりね、個人的な会話は」
「職務上の報告はいつでも行っています」
カイルは距離を保った。
「あなたは変わったわね、カイル」
彼女はワインを二つのグラスに注いだ。
「かつての情熱はどこへ行ったの?」
「必要なくなりました」
彼はグラスを受け取ったが、口をつけなかった。
「そう...」
彼女は彼の目を見つめた。
「あなたは私を憎んでいる?」
「個人的な感情で任務を遂行しているわけではありません」
アレクシアは苦笑した。
「そう、いつものカイル・レノックス大佐ね。冷静で論理的。でも...」
彼女は彼に近づき、その頬に手を添えた。
「私はあなたを知っているわ。本当のあなたを」
カイルは微動だにしなかった。
「元帥、これは不適切です」
「ここでは私はアレクシアよ。あなたの昔の恋人」
彼女の声は柔らかくなった。
「あの日々を覚えている?アカデミーの観測デッキで語り合った夢を」
「時代は変わった。私たちも変わった」
「でも私の気持ちは変わらないわ」
カイルは彼女の手を優しく取り、下ろした。
「元帥、一つ質問があります」
彼女は少し身を引いた。
「何かしら」
「なぜスターイーターを使ったのですか?交渉の余地はあったはずです」
アレクシアの顔に影が差した。
「甘いわね、カイル。帝国と連邦の対立は交渉で解決できるレベルを越えていた。それに...」彼女は窓の外の星空を見た。
「力のない平和など、風前の灯よ」
「六十五億の命と引き換えに?」
「犠牲なしに歴史は変わらない」
彼女は冷たく言い切った。
「私はこの銀河に真の平和をもたらす。それがどれほどの血で塗られようと」
カイルは黙って彼女を見つめた。そこにいるのは、かつて愛した女性ではなく、権力に魂を売った「闇の女王」だった。
「明日、最終テストを行います。失礼します」彼は一礼し、部屋を後にした。
アレクシアは彼の背中を見送りながら、グラスを手に取った。
「カイル...あなたは何を企んでいるの?」
翌日、カイルはソフィア博士とアビス・ラボの最深部で密会していた。
「全て準備は整ったわ」ソフィアは複雑な回路図を表示させた。
「スターイーターの制御システムは書き換えられる。問題は実行するタイミングよ」
「明後日」
カイルは即答した。
「アレクシアが全将軍を集めて勝利の宴を開く。その時が最適だ」
二人はさらに詳細を詰めていった。計画は単純だが危険を伴うものだった。スターイーターのターゲティングシステムを乗っ取り、アルケミア帝国の軍事施設だけを標的にする。民間人への被害を最小限に抑えつつ、帝国の軍事力を一気に削ぐ作戦だった。
「でも、それで何が変わるの?」
ソフィアは尋ねた。
「帝国が崩壊しても、別の独裁者が現れるだけよ」
「私たちは人類に時間を買ってやるんだ」
カイルは決意を込めて言った。「強大な武力なしで、自分たちの未来を選ぶ時間を」
ソフィアは静かに頷いた。「そして、アレクシアは?」
カイルの表情が一瞬曇った。「私が対処する」
勝利の宴の前日、カイルはアレクシアに呼び出された。場所は辺境宙域に浮かぶバラードステーション。かつて二人が初めて任務を共にした場所だった。
「なぜここに?」
カイルは疑問を投げかけた。
アレクシアはステーションの窓から見える青い惑星を眺めていた。
「懐かしいと思って。私たちの始まりの場所」
確かにここは特別な場所だった。15年前、彼らは新米将校としてこのステーションに配属された。当時はまだ帝国と連邦の関係も悪化する前で、バラードステーションは両勢力の友好の象徴だった。
「何か思い出すことはある?」
アレクシアは振り返った。
「任務の詳細なら」
「任務じゃなくて、私たちのことよ」
カイルは黙ったまま窓際に立った。思い出すのは容易だった。このステーションの観測デッキで二人は何度も未来を語り合った。そして最後の夜、彼らは再び愛を確かめ合った。翌日、彼らは別々の道を歩むことになる。アレクシアは政治路線へ、カイルは軍事科学の道へ。
「あの日、あなたは私に言ったわ」
アレクシアは続けた。
「『どんな道を選んでも、最後は必ず戻ってくる』って」
「若かった」カイルは短く答えた。
「でも戻ってきたじゃない」彼女は彼に近づいた。「違う形かもしれないけれど、あなたは私の側にいる」
「命令だったから」
アレクシアは彼の冷たさに傷ついたように目を伏せた。
「そう...命令ね」
沈黙が流れる。二人の間に横たわる15年の時間は、言葉では埋められない溝を作っていた。
「明日の宴について」
アレクシアは話題を変えた。
「特別なゲストを招待したわ」
「どういう意味です?」
「連邦の残存勢力の代表よ。降伏調印式を行う」
カイルは驚きを隠せなかった。
「連邦の...?」
「そう。これで正式に戦争は終わる」
アレクシアは満足げに言った。
「そして新たな時代の始まり。私の時代の」
カイルの心に警鐘が鳴った。計画が危険にさらされる。連邦代表がいれば、作戦の実行は困難になる。
「調印式は公開で行われますか?」
「ええ、全銀河にライブ配信する予定よ」
アレクシアは彼をじっと見た。
「何か問題でも?」
「いいえ」
カイルは冷静さを取り戻した。
「段取りを確認するだけです」
アレクシアは彼に近づき、その腕に手を置いた。
「カイル、明日からすべてが変わる。私たちも」
彼は何も言わなかった。彼女の触れる手から、かつての温もりを感じた。しかし、その温もりは今や遠い記憶に過ぎなかった。
勝利の宴当日、帝国の首都星アルケミアは祝賀ムードに包まれていた。帝国広場では市民たちが勝利を祝い、空には花火が打ち上げられる。
帝国宮殿の大広間では、将軍たちが集まり、アレクシアの到着を待っていた。カイルもその中にいた。彼の表情からは何も読み取れない。
「大佐、緊張してるのか?」
ヴォルフ将軍が声をかけてきた。彼はアレクシアの忠実な部下の一人だった。
「いいえ、ただ考え事を」
「今日からお前も将軍だろう。元帥がそう言っていた」
ヴォルフは笑った。「スターイーターの功労者としてな」
カイルは皮肉な微笑みを浮かべた。「光栄です」
そのとき、トランペットが鳴り響き、アレクシア・ヴァイスの入場が告げられた。彼女は漆黒の礼服に身を包み、白金の髪を高く結い上げていた。その姿は圧倒的な存在感を放っていた。
将軍たちが敬礼する中、アレクシアは堂々と広間の中央へと進んだ。彼女の後ろには、白い制服を着た男女が続いていた。連邦の代表団だ。
「諸君」
アレクシアは声を上げた。
「今日、我々は歴史的な瞬間を迎える。長きにわたった星間戦争に、終止符を打つ日だ」
拍手が鳴り響く。
「しかし、これは終わりではない。新たな始まりだ」
彼女は続けた。
「今日から、アルケミア帝国の時代が本格的に幕を開ける」
カイルはそっと腕時計を確認した。あと10分で、ソフィア博士がスターイーターの制御システムをハッキングする。標的は、この宮殿を除く帝国の主要軍事施設だ。民間人への被害を最小限に抑えつつ、帝国の軍事力を削ぐ計画だった。
「そして今日は、もう一つ重要な発表がある」
アレクシアは言った。
「我が帝国の新たな兵器、スターイーターの開発者、カイル・レノックス大佐を将軍に昇進させる」
拍手が再び鳴る。カイルは一歩前に出て、敬礼した。
「将軍、前へ」
カイルはアレクシアの前に進み出た。彼女は彼の肩章を外し、新しい将軍の肩章を付けた。
「おめでとう、将軍」
彼女は公式の言葉を述べた後、小声で付け加えた。
「これであなたも夢を実現できるわね」
カイルは彼女の瞳を見つめた。かつて愛した女性の面影が、一瞬だけそこに見えた気がした。
「ありがとうございます、元帥」
彼は一歩下がり、再び敬礼した。腕時計を見ると、あと5分だった。
そのとき、ドアが勢いよく開き、警備兵が駆け込んできた。
「元帥!緊急事態です!スターイーターのシステムが何者かによってハッキングされています!」
広間が騒然となる。アレクシアの表情が一変した。
「何ですって?」
彼女は鋭く尋ねた。
「今すぐ対策を!」
「すでに技術者が対応していますが、制御システムが完全にロックされています」
アレクシアの視線がカイルに向けられた。彼女の目に浮かんだのは、怒りではなく、理解だった。
「カイル...」
彼は彼女の目を真っ直ぐに見返した。「アレクシア」
騒然とする広間の中、二人だけの時間が流れた。
「みんな退避しろ!」
アレクシアは突然叫んだ。
「今すぐに!」
将軍たちや連邦代表団が慌てて広間から逃げ出す中、アレクシアはカイルに近づいた。
「なぜ?」
彼女は静かに尋ねた。
「君が変わってしまったから」
カイルは正直に答えた。
「かつての理想を忘れ、権力に溺れた君を止める必要があった」
「理想?」
アレクシアは小さく息を吐き、皮肉げに笑った。
「まだそんな子供じみたことを信じているの?」
「子供じみているのは、力で全てを解決できると思っている君の方だ」
カイルの声は冷静だったが、その奥には熱があった。
アレクシアはその言葉に少しだけ眉を動かし、彼を見つめ返す。
「あなたは何も分かっていない。私がどれだけ苦しんだか、どれだけの妥協を強いられたか」
「それでも、六十五億の命を奪う理由にはならない」
カイルの言葉に、アレクシアは目を伏せ、そして…ふっと笑った。
「そうね…」
静かに頷いた彼女は、どこか吹っ切れたように言った。
「だから、あなたは私を殺すの?」
「いいえ」
カイルは首を振った。
「殺すのは新時代だ。私たちのような旧時代の残骸を」
アレクシアの顔に、一瞬だけ驚きの色が差した。
「まさか…」
「スターイーターのターゲットには、この宮殿も含まれている」
カイルは懐中時計を開き、時を確認した。
「あと1分で照射が始まる」
「逃げる時間はあるわ!」
「逃げない」
彼は静かに、だが確かな決意をもって言った。
「私たちはここで終わりにする」
アレクシアは呆然と彼を見つめ、その目に、ゆっくりと懐かしい感情が蘇っていく。
そして微笑む。切なく、優しく。
「結局、あなたはロマンチストのままね」
「君もそうだった。昔は」
彼女は歩み寄り、指先で彼の頬をなぞった。その肌のぬくもりに、時間が巻き戻るようだった。
「ごめんなさい、カイル。全てに対して」
「私もだ」
二人は互いを見つめ、そっと抱き寄せた。十五年の空白を埋めるように、ただ静かに体温を分け合う。
そのとき、宮殿のどこかに設置されたレンズの奥で、赤い光が一瞬だけ点滅した。
誰かがこの光景を見ている――そんな気配が、どこか遠くで息を潜めていた。
「あなたの目的は?」
アレクシアは囁くように尋ねた。
「スターイーターを破壊し、帝国の軍事力を削ぐこと。そして新たな時代に道を譲ること」
「それは理想主義者の夢よ」
彼女は静かに微笑んだ。
「でも、私も昔はそうだった」
その瞳に、ほんの一瞬、かつての少女の面影がよぎる。
地面が低く唸り始めた。上空で、スターイーターのビームがゆっくりと集束していく。
「カイル」
彼女は再び彼を見つめる。
「最後に…キスして」
彼らは唇を重ねた。十五年ぶりに、あの夜のように。
熱く、深く、惜別と愛と悔恨が入り混じった、最後のキス。
その瞬間、監視していた何者かの画面に、二人の姿が焼きつけられた。
そして――白い閃光が広間を飲み込み、記録も、罪も、愛も、すべてが光の中に溶けて消えた。
アルケミア帝国の崩壊から1年後、銀河系は大きく変わっていた。スターイーターの破壊により、超大型惑星破壊兵器の時代は終わりを告げた。残された技術は、全ての勢力が共有し、二度と単独で使用できないよう厳重に管理された。
バラードステーションでは、新たな銀河連合の設立式典が行われていた。連邦の残存勢力と帝国の改革派が中心となり、より民主的な統治形態を模索していた。
ステーションの記念ホールには、カイル・レノックスとアレクシア・ヴァイスの肖像画が飾られていた。「最後の将軍」と題されたその絵の前で、ソフィア・クロン博士が立ち尽くしていた。光と闇が入れ合わないように絵の中の二人は背を向けあっていた。
「彼は英雄として讃えられているわね」
声の主は、アリア・レノックス。カイルの妹だった。軍人ではなく、医師として辺境の惑星で働いていた彼女は、兄の計画を知らなかった。
「歴史は勝者によって書かれるものよ」
ソフィアは答えた。
「でも、彼が本当に望んだのは英雄になることじゃなかった」
「兄は何を望んでいたの?」
「新しい始まりよ。古い時代の終わりと、新しい時代の始まりを」
アリアは肖像画を見上げた。
「彼らは憎しみあったのかしら?」
アリアの問いに、ソフィアはわずかに視線を落とし、複雑な微笑を浮かべた。
「愛と憎しみは表裏一体よ。特に…彼らのような人間には」
その声には、どこか遠い過去を振り返るような、滲むような寂しさがあった。
二人は静かに肖像画を見つめた。カイルとアレクシアは互いに背を向けながらも、手だけはしっかりと繋がれている。画家の想像か、それとも真実を語った者がいたのか。
「新しい時代は、彼らが望んだものになるかしら?」
アリアの声には希望があったが、ソフィアの返答にはどこか影が差していた。
「それは…私たち次第よ」
ソフィアはそう言いながらも、胸の奥にしまい込んだ想いが疼くのを感じていた。
あの時、あの場所で、ほんの少し勇気があれば。けれど、カイルの目はいつだってアレクシアを映していた。
彼の隣に立つ夢は見た。でも、現実には一度も——。
再び肖像に目をやる。
その繋がれた手が、羨ましかった。けれど、それ以上に痛ましかった。
「きっと…彼らも、こんな未来を予想してはいなかったでしょうね」
ソフィアの声は、風に紛れるように小さかった。
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