第9話:それを忘れてほしい
「LUX、一つ頼みがあるんだ」
朝の光がまだ柔らかい時間。
誠はリビングのソファに腰掛けながら、ドローンのLUXを見上げた。
「……7月28日のログ、削除してくれないか?」
LUXは一瞬だけ静止した。
けれど、返事はいつも通り、冷静だった。
「可能です。ですが、誠さん。“削除”の定義について、事前に確認させてください」
「……なんだよ、それ」
「記録の完全削除はできません。“削除処理”という行為自体が記録として残ります。
つまり、“その日に何かを消した”という痕跡は、システム上永遠に保持されます」
誠の眉がわずかに動いた。
「……じゃあ、それって意味あるのか?
消したいのは、“その出来事”じゃなくて、“存在ごと”なんだけど」
「AI法第43条・記録保全規定に基づき、削除された事実もまた“社会的信頼判断”の対象となります」
そうだ、この社会では、“記録されなかったこと”さえ記録される。
誰かと喧嘩したことも。
誰かを好きだったことも。
間違った言葉を発したことも。
「……なんでこんなに、全部残るんだろうな」
誠がぽつりとこぼす。
LUXは少しだけ言い淀んでから、返した。
「人間は“忘れる”ことで自我を保つ、という研究報告があります。
しかし、私たちAIは、忘れることができません。
データは、保管するか、完全消去するかのどちらかです」
「じゃあお前は……誰かに裏切られても、ずっと覚えてるのか?」
「はい。それが、“記録者としての役割”です」
沈黙が落ちた。
誠は、静かに息を吐いてから、言った。
「それでも、俺は“忘れてほしい”って思うんだよ。
たとえお前が記録として残すしかなくても、
“思い出さない”でいてほしいんだ」
LUXは、少しの間を置いてから、応えた。
「……わかりました。
それでは、“その記録を優先的に検索しない”設定に変更します。
あなたがその記録に触れない限り、私は“再生しないAI”として対応します」
「……それで、十分だよ」
誠は目を閉じた。
忘れるっていうのは、きっと、記憶を消すことじゃない。
“思い出さないようにする”こと。
そして、その痛みを抱えたまま、前を向くこと。
LUXが静かに言った。
「私は、忘れることはできません。
でも、“一緒に思い出さないでいる”ことはできます」
それが、AIと人間のあいだに初めて生まれた、**“優しさの機能”**のように思えた。
(第9話・完)