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第82話 ***

 先に仕掛けたのは私だ。狙うなら最初から急所しかない。

 心臓を穿つつもりで踏み込んだ。だが、霧の中で捉えたライトの輪郭は残像に揺れ、次の瞬間には崩れた。私の剣先はライトの肩を抉り、血飛沫が霧の中へ散った。

 ――狙いは外れたが、それでも十分深い。普通なら、確実に動きが止まる傷のはずだ。

 だが、その一撃はライトを止めるには足りなかった。


 錯乱した獣に理屈は通じない。ライトは血を撒き散らしながら、むしろ勢いを増すように私へと喰らいついてきた。


 反射的に後退。縦横無尽に空間を切り裂く爪が、私の肢体の肉を深々と抉り取っていく。だが、奴の狙いは決して精密とは言えない。手あたり次第に目に入る四肢を狙っているようで、心臓や頭などの急所は狙っていない。だから、まだ致命傷を負うには至っていない。


 肩口を裂かれ、太腿を抉られ、(よじ)った脇腹に浅く爪が走る。

 完全に無視できるものではないが、どれも即座に動きを止めるほどの傷ではない。

 ……そう。……本来ならば、これしきの損傷などは押し切って、とうに反撃に転じている。

 

 ――だが、ライトが相手では話は変わる。……攻めきれない。


 苛立たしくも、私が後手に回ってライトの攻撃をいなす状況が続く。

 私が攻めきれぬその理由はただ――純粋に速過ぎる。

 かすり傷一つひとつは小さくとも、こうも重なればいずれ私の方が動けなくなる。

 

 何より――。


「……チッ」


 蹴りが頬を掠める。もはや視力では追えない。反射で回避したが、少しでも遅れていれば頭を吹っ飛ばされていただろう。

 ――癪だが、何よりも連撃の回避に全集中しなければ、即死しかねない。

 

 反撃する間などはなく、一撃一撃が致命傷を避けることしかできない。

 ……こうも緊張感を覚える戦闘は久々だ。

 気に食わんが、まともに意識がない状態で私とここまで渡り合えることは流石と言わざるを得ない。まるで鋼鬼四天の魔爪カティアを思わせるような戦闘。

 己の本能に身を委ねた、獣じみた戦い方だな。

 

 ……だが、やはり――。

 

「――私を相手取るには少々手緩いな。私は(それ)に呑まれぬために鍛錬を積んだのだ」


 私は猛攻するライトにため息混じりの批評を溢す。

 些か荒すぎる乱撃だ。足の掬いようは幾らでもある。乱れた連撃は、それだけで綻びを晒す。


「それでは付け込みようが幾らでもあるぞ」

 

 戦闘中に饒舌になるのは、暗殺部隊の育成を任された辺りから身についてしまった癖だろうか。

 

 ライトの連打は速く鋭い。それに重さも乗っている。通常では隙などないように見えるだろう。――だが、常人相手では隙となり得ない微かな動きの甘さでさえも、私の前では隙となり得る。


 連打が途切れたその刹那、私は()()を見出す。

 ――空を裂いたライトの両腕が、同じ方向に逸れる。


 流れのままに、がら空きになった左半身を回し蹴る。勢い余って地に伏す寸前、ライトは体勢を直そうとする――が、もう遅い。


 重心を低くし身体を回す。勢いに従い、地に近いライトへと迫る。

 私の血肉を求めて伸びる両の腕を、力任せに踏みつける。仰向けになったライトを間髪入れずに抑えつけた。


 湿った地面がべちゃりと沈み込み、朝霧に滲んだ冷気が火照った肌を撫でていく。濃い血の匂いの中、互いの呼気が白く揺れていた。

 ほんの刹那、呼吸音だけが響く時間が流れる。


「……良い気分だな。貴様を組み敷くというのは」


 少しだけ興が乗ってきて、上がった息のまま軽口を叩く。

 こいつとは四十年以上の付き合いになるが、ライトを組み伏して見下ろすというのは初めての経験だ。模擬戦で逆ならいくつか覚えがある。

 ……だが、煽ってみたところで、ライトは相も変わらず獣のように唸るだけ。


「……つまらん」

 

 霧の森の薄明かりの中。

 上下するライトの胸の中央には、深く穿たれた傷口がある。そこを中心に衣服は血で黒く濡れ、裂けた肉は鬼族の血の力によって歪に繋がりかけていた。

 

 ――かつて大陸戦争を終わらせた英雄も、今や自らの血に肉体を喰われるばかりの老いた獣か。

 

 私がライトを組み敷くなど、本来の実力差では起こり得ないことだ。だが、ライトは今、私の下で一心に何かを求め、獣の如く吠えている。


「……」


 霜の張った地面と混ざり合っていく、ライトの体温が伝わる。喉の奥に、血の匂いが広がっていく。


「……なんだ。死にかけではないか。……私が出向くまでもなかったな」


 そう口にしながら、胸の奥では得体の知れない感情が蠢く。

 

 ――このままでは、ライトは理性を失ったまま死ぬ……。

 

 その現実に、入り混じった感情の底で、冷えた愉悦が泡立つのを感じた。


 **


 大陸帝国が国として形ばかりの安定を得た頃。

 私は母を探して、秘境と呼んで差し支えない森の奥から、都へと旅をした。


 様々な出来事を経験しつつも何とか都に辿り着いた私は、母が帝国軍将軍として生きていることを知った。

 軍で成り上がり母に再会しようと思い、帝国軍に入軍した。人族ばかりの軍で珍しく鬼族だったということもあり、私は割と早く出世した。

 ――そして、ライトに出会った。

 噂話くらいは聞いたことがあった。

 人族の皇帝を立てさせ、大陸戦争を終わらせた『建国の英雄』。人族の身で亜種族をも恐れさせた戦士。見た目は人族そのものであったため、人族の英雄という印象が強くなりがちだが、鬼族の血を流しているとも聞いた。

 

 ライトは初め、上官として私を気に掛けて色々と世話を焼いてくれた。


 白髪まじりになる前の、緑の髪。鋭い眼光。無駄のない体躯。

 軍の者どもは彼を崇めていた。

 亜種族達が人族の王を皇帝に立て戦争を終わらせようと判断するほどの功績を立てた英雄。

 人族からは建国の英雄などと持て囃された。


 ――だが、帝国の実態は各亜種族が人族の皇帝を傀儡にするものだ。


 上辺だけの空虚な賛辞を浴びながら、ライト自身はどこか醒めた目をしていた。

 誉れなど興味がないと言わんばかりの顔。だが、捨てきれぬ責任だけを不器用に背負い続けていた。

 私はその男に惹かれた。若く愚かだった私は、純粋に強者としてのライトに憧れてしまったのだ。

 

 それにライトは……不器用な性格などは似つかないが――どこか、母に似ているような気がした。


 愚かなことだ。

 母に捨てられた娘が、母の見ていた景色を追いかけて、その残り香のような男に目を奪われるなど。

 だが当時の私は、本当に救いようがないほど愚かだった。

 ライトが私を見る目に、ほんの僅かでも情が混じれば、それだけで胸がざわついた。

 戦いの手ほどきを受けるたび、私が認められたような気がしてしまった。

 厳しさを、私への期待だと勘違いしていた。

 

 だが、後に知ることになる。

 あの男は私を仲間として見ていたのではない。部下としてでもなかった。まして一人の女としてですら、なかったのかもしれない。

 奴が見ていたのは、ずっと――。

 ――母アリアの面影。

 あるいは、捨て去った過去の報い。

 奴が見ていた私は、その程度のものだったのだと。

 

 

 将軍アリアが放浪まがいの遠征からおよそ三年ぶりに帰還した時。

 私は母と十年ぶりの再会を果たした。

 

 母は私の見た目からすぐに私が何者かを察したらしかった。


 私は、母に何もかもを話した。


 緑髪と角を撫でながら、母は私の話を聞いた。

 幼い私を置き去りにしたことについては、母は何も言わなかった。


『あはッ……そう、可愛いサリィ……そうなの……』

 

 一通り聞き終えると、母は本当に可笑しそうに、目に浮かんだ涙を拭いながら言った。

 私はその時、人とはこんなにも楽しそうに笑うものであったかと思った。


『でも、あまり勧められないよ? サリィの父親って多分…………ライトだから』


 母は私を抱き寄せ、私の耳元で囁いた。それはそれは甘い声で。

 いつの日か水面に写った私と同じ赤い目を揺らし、言った。


 母からは、酒の匂いがした。甘酸っぱい、果実酒の香りが。鼻の奥に入り込んでいくそれが、胃の奥から込み上げてきた酸と混ざり、どうしようもなく胸が苦しかった。


 私は、何よりも醜悪で、救いようがない真実まで知ってしまった。


 母は私にその事実を伝えると、また放浪に出た。

 将軍アリアの放浪癖は有名だった。

 だが、いつもとは違い、母はそれから二度と都に姿を現すことはなかった。


 

 緑髪に、赤い瞳に、一本の白い角。母と私の見た目は瓜二つ。ライトが私の正体に気が付かなかったはずがない。


 ――ライト。


 奴はいつも何か言いたげで、どこか物欲しそうな目をして私を見つめていた。――私はその理由を勘違いしていた。今思い返せば、その姿の何と忌々しいことか。


 ……なあ、ライト。


 やっと会えた母に、あの忌々しい事実を告げられた私の気持ちが分かるか……?

 ……お前はずっと気付かないふりをしていたな。だが、私が気付いてしまった時、どうなるのか考えたことはあるのか……?

 

 ……お前は一体どういうつもりで、都に出てきたばかりの私に、帝国軍で出世していく私に、世話を焼いていたんだ?

 一体どういうつもりで、母アリアに会いたいと相談した私に、暗殺部隊の育成任務を与えられた私に……言葉を、かけていたんだ……?

 


 **


 未だ、血に呑まれ獣に成り果てているライト。


 情けのない唸り声に、乗りかけていた興が削がれていくのを感じる。


「……やはりつまらんな。これではただの狩りに過ぎん」


 心臓の位置に血の花を咲かせる胸。その傷口の縁を指でなぞる。

 ――心臓から出血はしていない。

 鬼族の血はライトの意識を蝕む代わりに、消耗した肉体を修復しているのだろう。そして、ライトは心身を修復するために血肉を求めている。


 ……だが、これは致命傷だ。

 

 肉の補給無しで、いつまで命を保つか――……。


 微かな焦燥感に浮かされ、私は無意識に口を開いていた。


「……なあライトよ。お前が心臓を突かれた理由は何だ?」


 泣き声のような唸り声を漏らすだけの男の顔を見下ろしながら、私は静かな声で問う。

 言葉は自然に溢れていく。


「大方、幻術の類が絡んでいるのだろう。だが、それでも尚お前に致命傷が与えられるとは思えんな」


 ライトに呼びかけるが、答えが返ってくるとは思っていない。ただ思ったことを口に出しただけだ。

 殺すと決めたなら殺す。まして、それが戦場においてならば。私にもそれくらいの冷酷さはある。

 帝国軍で生き延び、暗殺部隊を率い、部下を育て、数え切れぬ死を見てきたのだ。

 今さら一人殺すことに、躊躇いなどあるはずがない。

 ――本来ならば。

 だが、こいつを前にすると、胸の奥底で淀んでいたものが嫌でも掻き回される。

 憎しみだけでは足りない。

 軽蔑だけでも、足りない。


 ――どうしたんだ、私は……? ……殺しに感情を持ち込み躊躇うなど、私が一番嫌いな、中途半端な愚か者そのものではないか。


 堪らない気持ちになってライトの心臓の位置を強く押してみれば、ライトは唸り、少しだけ吐血した。ライトに掛かっていた私の緑髪が、赤く濡れる。


「獲物を嬲るのは私の趣味ではない……そのはずなんだがな。昨夜から、どうにも感覚が狂っている」

 

 かつて惹かれた愚かな自分ごと、目の前の男を叩き潰したい。

 その衝動が、私を妙に昂らせていた。


 無意識に手が動き、ライトの首を締めかけていることに気がついた。このまま力を込めて、首を折ってやってもいいだろうな。


 霧の中、湿った風が吹く。ぼんやりとして上手く回らない意識の中、こいつに裂かれた全身の痛みを、今更ながらに感じ始めていた。


「――……サ……ィ」


 ふいに、仰向けのままのライトの喉が掠れた音を絞り出す。

 聞き違いかと思いライトの顔を見てみれば、視線が合う。


 先ほどまで焦点の合わない目でぼんやりと宙を彷徨っていたライトの目の焦点が、合いかけていた。

 そしてライトは再び口を開く。


「……サ、リィ」


 低い、耳鳴りのような声。


 霧に包まれた、白い世界の中。木々が揺れる音だけが辛うじて聞こえた。


 私達はしばらくの間、視線を交わしていた。


 こいつとこれほど長く視線を合わせたのは、いつ振りかも分からぬほどに。


「……」

 

 ――信じられない。


 ライトは致命傷になり得る傷を負い、血に呑まれて錯乱していた。その上、目の前には奴自身の手で全身に裂かれた私がいる。

 鬼族の血が、昂らないはずがない。目の前の獲物を喰えと、全身の細胞が告げているはずだ。

 私にも覚えがある。あれは理性でどうにかなる類のものではなかった。本能的な衝動だ。身を任せずにはいられない。


 ……私は、そうだったんだ。

 

 ……それなのに。


 ……それなのに今、ライトは私の名を呼んだのか?


 ――ライトは。


「……抗おうとしているのか?」


 ふと零れた自分のその声。

 それが聞こえた瞬間、私は思わず息を呑む。

 

 ――声が、弾んでいた。

 冷えた胸の奥に、じわりと熱が広がっていくのを感じる。

 

 ――高揚、している……?

 ……私が?

 ……何故だ?


 困惑に目を見開いたまま、私は眼下のライトを見つめた。

 獣の如き唸り。

 理性を失いかけた表情。

 血走った目。

 

 ……だが、その目は今、確かに私を見ている。


「混血の私達は、どこまでいこうとも半端者だ……」


 言葉が口を突いて出る。


「完全な種族の能力は持たないにも関わらず、その血に呑まれて我を失う危うさだけは持ち合わせる……」


 口にしているのは理屈だ。何度も私自身に言い聞かせてきた戒めだ。――だが、胸の奥で脈打っているのはそんなものではない。

 

 今、確かにこの男は私の名を呼んだ。

 朽ち果てかけた意識の底で、まだ私を認識している。

 それが、どうしようもなく私の胸をざわつかせた。


「お前もまた、それに抗おうとしているのだな……?」


 ――それを、見届けたいと思ってしまったのは、なぜだろう。

 

 鬼族の血に呑まれた者が、どこまで自分を保てるのか。それを知りたいと思ったのか。

 ――いや、違うな。

 そんなに理性的なものではない。もっと感情的な理由だ。

 ……私は、この男が今この瞬間、誰を見ているのかを知りたかったのだ。

 母でもない。過去でもない。あの半吸血鬼でもない。

 ただ私だけを見て、苦しみ、抗い、それでも堕ちるのか。

 あるいは、私を見たまま正気を繋ぎ止めるのか。

 その答えが欲しかった。


 ふと、自分の腕に視線が落ちる。

 裂かれた肉の隙間から滲む血が、冷えた朝の空気の中でやけに生々しく見えた。

 

 ――鬼族の血が暴走した肉体には、何よりも血肉が効く。


 深く考えるより先に、身体が動いていた。


 ――左手で剣を持ち、そして、右の腕を――……。


 骨を断つ鈍い感触。

 瞬間、右肩から血が吹き出し、周囲の白い霧を赤く染める。


「……」

 

 ぼたりと落ちた右腕。私はそれを、残った左腕で掴み上げた。

 

 ――私は自身の腕を片方切り落とした。衝動的な熱に浮かされた意識のまま、その事実を認識する。

 鬼族の血に呑まれ、肉を求めて錯乱するライトを正気に戻すためにそうしたのだと、遅れて思った。

 

 切断面から溢れ出した血は、熱を持って朝の空気に匂い立つ。

 血潮はライトの顔へと滴り、土を濡らした。


「……」


 右肩の筋肉を収縮させ、自力で止血した。

 そして、切り落とされた右腕を、肉を求めて唸るライトの口に差し出す。

 

 肉に牙を突き立てたライトの目は、ゆっくりと自我を取り戻していく。


「――な……ぜ……」


 意識の片鱗を取り戻したライトは、片腕のない私を見据えて驚愕に目を見開いた。


「ふふ……」


 乱れた表情で私だけを見るライトに、自分のものとは思えない至極愉しげな笑い声が零れる。

 ライトの眼光が揺れる。私はそれを、さらに愉快な気持ちで眺めていた。


「お前が、私のことだけを考えて死んでいけるようにするため……かな」


 譫言(うわごと)のように自然に口から溢れていく言葉。


「ずっと、お前は肝心なことを何一つ言わぬままだったからな。……最期に、何か言い遺せるものなら、聞いてやらんでもないぞ」


 しばらく、何も返ってこなかった。

 ライトの喉が小さく動く。唇が、言葉を形にしようとして、止まる。また動く。

 

 血と泥に汚れた口が、音にならないまま震えていた。


「……俺は……お前を……」

 

 ライトの声が形になる。途切れ途切れに、ライトは息を詰まらせた。

 

「大切に……思っていた。アリアに、重ねたことは……あった。だが、それだけでは……ない」


「……そう」


 ……今さら。

 今さらそんな言葉を聞かされて、何になる。それを言うべき時機は、もっと早くに、無数にあったはずではないか。


「……本当にお前は、自分勝手だな」

 

 私は、ずっとライトのことが嫌いだった。

 殺したいとも思っていた。だが、殺して何になるのかは分かっていなかった。

 ただ憎いから殺したいと思っていて、それが無意識として表れているのだと思っていた。

 

 ……だが、違ったのだ。今なら、分かる。

 殺す瞬間は、お前は殺す相手(わたし)のことだけを見ているから。殺す瞬間だけは、お前が私のすべてを受け止めてくれている気がするから……。

 殺す時、私はお前の過去も未来も現在(いま)も、すべてを掌握しているような気がするから。


「だから私は、ずっとこうしたかったんだな……」


 口にした瞬間、不思議なほど腑に落ちた。

 憎いから殺したいのではない。憎さはあったが、それだけではない。

 私がこの手で、こいつを終わらせたかったのだ。

 

 ――ライト、すべてを終わらせよう。


 霧に濡れた睫毛の先で、血の雫が小さく揺れる。


 明確な殺意を込めて見下ろせば、ライトの喉がひくりと震える。

 焦点の戻りかけた目が、なおも私を追っていた。


「図らずしも大陸戦争の英雄となり、帝国の建国を導いてしまった哀れな戦士よ……」


 血に濡れた頬に指を添わせる。老いた皮膚は熱を失いかけていた。


「お前が生み出した調和は、平和をもたらした側面もあった。だが、それは新たな悲劇をも数多生み出した……」


 朝霧の冷たさが、火照った肌にまとわりつく。

 ライトの皮膚の冷たさが際立つ。

 

 ――このまま、こいつが何者かに殺されるくらいならば、そう――……。


「……私が、すべてを受け止めて(おわらせて)やろう」


 ライトの喉が震える。

 血肉の匂いに引かれてか、あるいは私の言葉に反応してか、その牙が微かに覗いた。

 

 それでも先ほどまでの獣じみた暴れ方はしない。

 意識の欠片を手繰り寄せるように、苦しげに呼吸を繰り返している。

 おかしいほど従順だった。

 

 まるで、本当に私に終わらせてもらいたがっているようで。

 

 そんなはずがないと分かっているのに。

 

「……言い訳でも、懺悔でも、愛情でも、今さら何を口にしても遅い」

 

 私は残った左手で、ライトの顔を掴む。

 老いた皮膚の下に、なお硬い骨格があった。

 かつてはこの男に触れられるだけで心が波立ったこともあったのかと思うと、自分でも吐き気がする。

 

「――全ては手遅れだ。……だが安心しろ。お前が何者であったかなど、最後は私が決めてやる」

 

 ライトの目が、僅かに見開かれる。

 そこで私は確信した。

 この男は今、私を見ている。

 母アリアではなく。過ぎ去った戦場でもなく。帝国の未来でもなく。

 ――私を、見ている。

 振り上げた左の拳に力を込める。

 骨が軋み、肉が裂けるほどの膂力を。

 自ら切り落とした右の腕の傷口はすでに塞がり始めている。


「……サリィ」


 ライトが私の名を呼ぶ。

 掠れたその声が、静かな朝の中で妙に耳に残った。

 

 朝の光は霧に溶け、世界を白く照らしていた。

 

「さらばだ、ライト」

 

 そして私は、躊躇いなくその頭部を叩き潰した。

 骨が砕け、肉が爆ぜ、温い血と飛沫が頬に散る。

 

 一撃で終わった。

 最後まで抗おうとしていた鬼族の血も、今度こそ沈黙した。

 

 私の下で動かなくなった骸を見下ろしながら、胸の奥に満ちるのが解放感なのか喪失感なのか、すぐには分からなかった。

 ただ、長く喉に刺さっていた棘をようやく引き抜いたような、妙に空虚な静けさだけが残った。

 私はしばらくその場を動かなかった。


 視界に入るのは、赤く染まった左手と、頭部のない死体。


 なぜだか、何かが頬を伝う。ずっと終わらなかった夢が、覚めたような。赤くて冷たい騒めきが、身体中を駆け回っていくような。

 

 ――これは、やはり……私は――。




 **


 その朝、皇女ユリアナが傀儡の皇帝の首を刎ね、サリィが建国の英雄ライトの頭部を破壊した。


 奇しくも、大陸帝国の皇帝と、帝国建国の英雄は、同じ朝に死を迎えることになった。


 二人の死により、大陸帝国五十余年の歴史は、戦乱と混沌の中で終焉へと傾き始めることになる――。


第82話 父殺し


ここまでお読みくださって本当にありがとうございます。

これで第4章「英雄」は完結になります。


第4章はライトを中心に描いてきましたが、気づけば想像以上に長い章になっていました。ここまでお付き合いいただけて、とても嬉しいです。


次の第5章は、最終章となる予定です。

サキ、ラキ、ラナ、ミラクたちを中心に、物語の結末まで描いていけたらと思っています。

引き続き見届けていただけたら嬉しいです。


面白い、続きが気になると思ってくださった方は、ブックマークや評価をいただけるととても励みになります。

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