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第81話 ソニアとユリアナ -焼けた城での再会-

 ソニアはサキ達と別れ、一人で廊下を進む。

 ――改めて見ると、幼少期に一時期だけ過ごした頃の城とは随分と様子が異なる。

 焦げた匂い、崩れた天井から落ちる砂埃、廊下に散乱した瓦礫。

 かつては城で吹くはずのなかった隙間風を肌で感じながら、ソニアは駆け抜けていく。

 

 ミラクに洗脳されたままの朦朧とした意識で地下牢を出て進んだ道は覚えている。何より、この城の構造は幼い頃から知っている。


 炎の能力を纏うと、廊下の暗がりがほんの少し押し退けられ、壁や床の割れ目が浮かび上がる。

 ……この能力が命を削るものであることを、ソニアの直感が、そしてこれまで多くの魔術と対峙した経験が告げている。

 だがそれさえ厭わずに進むことを、ソニアは自身の心に宿る熱に誓っていた。

 

 壁に走る刀傷が、ソニアの炎に照らされてぼんやりと浮かぶ。これはソニアがつけた傷ではない。別の誰かが、ここで剣を振るった痕だ。


 ――地下牢にいる間に随分と遅れをとっている。フィロンは生きているのか。サリィは今、どこにいるのか。

 最優先のはずのそれすら、確かなことは何ひとつ分からない。

 

 無数に浮かぶ把握すべき事態、解決すべき問題に焦燥感が積もる。

 それらを頭の中で仕分けしながら、ソニアは先ほどサキに言ったことを思い出す。

 ――すべてが終わったら、いくらでも罪滅ぼしをする。

 

 それは自分に向けた鎖だった。過ちを言い訳にして逃げはしない。

 すべてを終わらせる覚悟はした。その後のことを迎えるためにも、その覚悟を実行に移さねばならない。

 ――まずはテツ達を解放しなければ。

 

 旧謁見の間を抜け、石造りの階段を降りていく。

 湿った冷気が足元から這い上がってくる。身に纏う炎を少しだけ強めた。橙の光が石壁を這う。

 

 地下への道には、記憶の中の匂いがあった。

 ここに囚われていたときの記憶が、まだ身体に染みついている。濃く漂う血の匂いに、どこからか響く、滴る水の音。拘束具が金属と皮膚を擦る、鈍い音――。

 

 嫌な記憶に無意識に目を細めながらも、ソニアは立ち止まることなく進む。

 牢の扉が見える。錠は開いたままだった。

 扉を押し開ける。


「……いない?」


 そこには誰もいなかった。既に外された鎖枷がからんと転がっている。


「二人は……自力で脱出できた、と?」


 完全に想定外だったわけではないが、納得のいく状況ではない。ソニアは訝しげに眉を顰める。

 

 あの後さらに一悶着あったような形跡はなかった。

 何よりレーシュはともかく、テツは解放されたとしても自力で移動できるような状態ではなかった。

 可能性をいくつか並べ、そのどれもが薄いことに軽い苛立ちを覚えながらも、ソニアは引き返すことにした。


 石段を上がりかけた、そのとき。


 無機質な壁の隙間から、薄い光が漏れているのに気づいた。

 

 ――こんなところに、扉が?


 地下への通路の途中、半ば忘れかけていた部屋。拷問を受けた者が一時的に処置を受ける医務室。カティアが地下牢の主となってからは、ほぼ使われていなかったはずだ。

 

 しかし、扉の隙間から微かに光が漏れていた。

 先刻は、身に纏う炎の光が大きすぎて、気がつかなかった。


 ――誰かいるみたい。

 

 ソニアは警戒しながら扉を開ける。

 蠟燭の乏しい光の中に、人影があった。

 部屋の端のベッドに腰掛け、包帯を巻いている。雑に巻いたのか、ところどころ解けかけていた。

 その人物は扉が開いた気配に、小さく振り向く。

 

「――誰だ?」

 

 その声は痛々しいほどに掠れていた。だが、確かにテツの声だった。

 ソニアは駆け寄る。同時に彼女の全身から溢れる炎が、部屋の中を照らし出す。


「……テツ」

 

 テツの状態がはっきりと見えた瞬間、ソニアは僅かに息を止めた。


「……ソニアか」

 

 テツの全身に包帯が巻かれていた。

 顔は包帯の隙間から青い目だけが覗いているが、それでも酷く腫れていると分かる。まだ包帯を巻き終わっていない右の手足の付け根がただれているのは、磔の時に枷で擦れたのだろう。

 そして最も重いのは、胸の傷だった。先ほど巻いたばかりであろう包帯が、もう血で固まり始めている。

 心臓に近い位置だ。

 

 ソニアはテツの前で膝をついた。


「……意識がありましたのね」


「……お前がミラクに連れ出されるあたりから、少しな」


 テツは息を吐くように短く笑った気配だけを見せた。

 地下牢で何日も拘束されていれば、希望は摩耗する。だが――ミラクの乱入で状況が動いた。

 皮肉にも、それが生きる理由を繋ぎ止めたのだろう。


「レーシュがあなたをここへ連れてきましたの?」

 

「……そうだ。俺はレーシュにここで簡単な緩和剤を飲まされた。……おかげで、だいぶ頭が回るようになってきたところだ」


 胸の傷は磔にされている時は目立っていなかったように思う。おそらく磔の体勢では圧迫されて出血が抑えられていたが、レーシュが運んだ際に動かされて傷が開いたのだろう。


「彼女はどこへ?」


「アレは俺をここに置いてすぐにフィロンを探しに行った。……まあ、周到なことだな」


「……そうですわね」

 

 ソニアは頷く。

 レーシュが単独で抜けられたのなら、彼女はいつでも抜けられるように何らかの手段で予め城中の拘束具に細工をしていた可能性が高い。

 カティアが生きている間は動けなかったが、ミラクがカティアを殺し、他の見張りも来る様子がなくなったため、動ける状態になったのだろう。

 

「ソニア、よくここに戻って来れたな。 ……その光る体はどうした?」


 テツはソニアをじろりと見ながら言う。

 

「色々ありましたのよ」

 

 答えを曖昧にしたまま、ソニアは手をテツの胸元へ置く。

 

 包帯越しでは分からない。直接見なければ。

 全身に巻いた包帯のうち、胸の包帯はすでに血で濡れ、換えなければ意味がない状態だった。

 

 ソニアが包帯に手をかけると、テツは痛みに少し息を詰めながら口を開く。


「……ミラクの奴はどうした。……その身体、恐らくミラクのせいだろ。大丈夫なのか」


「……一先ずは問題ありませんわ。私はただ……解放されましたの」


「……そうか」

 

 ソニアは詳しく話す気はないらしいと察し、テツは不満気ながらも詮索をやめた。

 

 ソニアは包帯を外し、傷の深さを確かめる。出血は続いている。ただ、今すぐ命を落とすほどではない――が、放置すれば致命的だ。

 引き出しから新しい包帯を取り出す。畳んで傷口に当て、強く圧迫した。

 

 ――こんな地下牢の行きかけにある医務室では、まともな止血剤などは置いていない。


 ここにある道具でできることは限られている。

 

 火で焼いて止血できるかもしれないが、テツは何日もカティアに拷問を受け続けた。

 男であるテツに対して、カティアは容赦がなかった。ソニアが思い出すのも悍ましいほどだった。

 火で焼く止血に耐える体力がテツに残っているのか、ソニアには分からなかった。

 焦燥が胸を焼く。


 ――時間はない。

 ソニアは覚悟を決めた。

 

 ソニアは傷口を押さえたまま、テツを見る。

 こんな状態でも、テツの表情はいつもと変わらない。無表情に近い、淡々とした顔。……でも、いつもソニアを気にかけ、冷静に立ち回ってくれる。ソニアにとってテツは頼りになる仲間だった。

 

「ソニア、外の状況を教えてくれ」


 ソニアが固まっているのを見て、テツは少しでも状況を把握しようと淡々と質問をした。

 

「これ以降のことでしたら、私が言う通りに動いてくだされば、とりあえず結構ですわ」

 

「……ああ。それはそうと、外の状況は?」


 テツは今度は引かない。

 ソニアは一瞬だけ唇を噛み、手元の圧迫を強めた。

 

「移動しながら説明して差し上げます。まずは、私に返事を」

 

 少しの間が落ちる。

 その間も、ソニアの手は止まらない。血は、まだ布に滲む。

 

「……まあ、分かった」

 

 城の外はまだ騒がしいはずだ。だが、人の減った城の地下にある医務室の中は静かだった。

 蠟燭と、ソニアが纏う炎だけが揺れている。


「――では、テツ。少し、痛みますわよ」


 一か八か。

 ソニアはテツの生命力に賭け、いざ傷を焼かんと右手の炎を強めた。


 テツの心臓に近い傷から、血が一際大きく脈打つ。ソニアの纏う炎が爛々と揺らめいた――そのとき。

 

「誰か来るな」

 

 テツが言う。ずっとソニアへと向いていたテツの視線がふと、医務室の入り口へと向く。

 

「分かっていますわ」


 ソニアは短く返す。テツの傷口を押さえたまま、彼女の視線も入口へ向いていた。


 ――何者かの気配がある。

 階段を降りる足音が聞こえる。この地下牢に向かう通路の途中にある医務室を知っているとは限らないが、警戒はするべきだ。


「私がやりますから、あなたは大人しくしていてください。……どのみち、動けないでしょう?」


 ソニアはテツの傷口から手を離し、立ち上がった。

 剣を抜き、構える。

 

 殺気は感じない。ただ、その気配が近づくたびに、胸の奥で何かが軋んだ。


 炎が揺れ、剣を握る手に力がこもる。

 

 石段を下りてくる足音は、ゆっくりとしていた。急いでいない。恐れてもいない。まるで夢見心地で花園を散歩するような、穏やかな足音。この荒れ果てた城においては不自然なものだった。


 その足音は、医務室の前で止まった。

 そして、扉が開かれる。

 

 得体の知れないその気配の正体を、ソニアは心の隅ではすでに見抜いていた。

 

 暗がりの中、金髪が揺れる。

 やがてソニアが纏う炎に照らされたのは、水晶のような碧い瞳。ソニアとよく似た、だがどこか違う顔。

 

「……ユリアナ、様」

 

 彼女の名が、自然にソニアの口から出た。昔の呼び方で。


 ――ユリアナ様が城にいると聞いてから、こうして顔を合わせることも想定はしていた。

 だけれど、実際に彼女を前にすると、心の奥底が揺れる。


 ソニアにとってユリアナは、かつての信念そのものだ。だが、既に互いに裏切り、裏切られた関係性へと成り果てている。

 

 ユリアナはソニアに微笑みを向けた。あの頃と同じ、花が綻ぶような笑みで。

 

「ソニア。……会いたかったですわ」

 

 その場違いなほど柔らかい声に、ソニアは恐ろしさを覚える。

 医務室の奥へ歩み寄るユリアナの足取りは優雅だ。だが、ユリアナの瞳の奥には、何か熱を帯びた感情が渦巻いている。

 

「……なぜ、このような場所におられるのですか?」

 

「会いに来ましたのよ。貴女に」

 

 ユリアナはそれだけ言って、一歩踏み出す。

 片手をドレスの裾に添えて、もう一方の手は――何かを提げていた。布に包まれた、丸いもの。

 だがソニアは、それに視線を向けなかった。


「……私は、まだ、貴方にはお会いしたくなかった」


 ソニアはユリアナを見据えて率直に言った。ユリアナの表情は揺れなかった。


「わたくしもそうでしたけれど……貴女のことを見たら、もうどうでも良くなってしまいましたのよ」


 意味を測りかねる。

 ソニアは剣を下げないまま、言葉を選ぶ。


「フィロンとサリィの衝突を、私は防がなくてはなりません。今は貴方に構っている暇は――」


「残念ながら、その役割はソニアには力不足ですわ。……それに恐らく、もう手遅れです」


 ユリアナは静かに遮った。

 ユリアナの声音に嘲りはない。ただ、事実を告げているようだったが、どこか悲しげな響きだけがあった。


「どういう意味でしょうか」


 ソニアが問い返すと、ユリアナは哀しげに目を伏せた。

 

「フィロンに渡した波耀の腕輪から伝わる、この気配……」


 ユリアナは何かを探るように自身の胸元に手を当てる。


「……もう間も無く、フィロンは――」

 

 ユリアナの声が、少しだけ揺れた。

 

「――逝きましたわね」

 

 断定だった。問いではない。

 静かに告げられた言葉に、ソニアとテツは息を呑む。テツの傷を押さえるソニアの力が一瞬だけ緩む。


「おい、ソニア――」

「平気です。……テツは少し黙っていてください」

 

 大人しくしていろと言われたテツだが、口を挟まずにはいられない。

 しかし、ソニアはテツを黙らせる。ユリアナから目を逸らさないままだった。


「フィロンが長くないと悟ってから」

 

 ユリアナはどこか非難するような眼差しをソニアに向けて静かに続ける。


「……もう、わたくしだけでやり遂げるしかないと思いました」

 

 ソニアには、ユリアナのその声が遠く聞こえていた。

 

 ――砦の夜明け前が、ソニアの脳裏に蘇る。

 冷たい霧。壁にもたれ、蒼白い空を見上げていた幼い頃のフィロン。

 待っていたよ、と貼り付けた笑顔。これから忙しくなるね、と弾んだ声。

 帝国軍に付くと一言言えばいいだけだと、怒鳴りつけた言葉は――届かなかった。

 

 フィロンへの感情は、ずっと複雑だった。だが、帝国を壊すというフィロンの執念は信じていた。あの夜明け前に一緒に霧の中へ踏み出したことも事実だった。

 

 サリィにフィロンを殺させたくないと、ソニアがサキに語った言葉は、本心からだった。

 ――それなのに。……止められなかった。

 

「私達が彼に協力する事を決めたのも、こんな夜明け前でしたわね……」

 

 声が、少しだけ掠れた。それだけだった。これ以上は、今は出てこなかった。

 ユリアナがここで嘘を吐くとは思えない。フィロンの死という言葉が、二人の心に重い事実として沈んでいく。

 テツの手が、ソニアの手に重なる。何も言わない。ただそこにある、その重みだけが伝わってきた。

 ソニアは一度だけ目を閉じた。

 そして、開く。

 

「……ユリアナ様。貴方は今、何をなさっているのですか」

 

 声は、もう揺れていなかった。


「城に来た理由はともかく……この医務室に来た理由は、本当に貴女に会うためですわよ、ソニア」


 ユリアナは少し心外そうに言う。

 もっともフィロンが死んだ今、城に来た本来の理由も、反乱軍の全ての計画も水の泡ですけれど――と、ユリアナは付け加えた。

 しばらく、言葉がなかった。炎の光だけが揺れる。

 

 やがてユリアナは、テツへと視線を落とした。


「……ひどい怪我ですわね。このままでは、長くはもちませんわよ」

 

「ユリアナ様には、関係のないことです」

 

「ソニア。わたくしが、テツを精霊術で治療して差し上げましょうか」

 

 その言葉に、ソニアの瞳が見開かれた。

 

「……なぜ、そんなことを」

「なぜって」


 ユリアナは首を傾ける。そしてかつてソニアに向けていたのと同じ、慈悲深い微笑みを浮かべた。


「わたくしは、貴女の大切な人が死ぬのを見たくない。……それだけですわよ」


 その笑顔が、ソニアの胸を締め付ける。かつては純粋に慕っていた笑顔。今はその笑顔が何を意味するのか、ソニアには分からなかった。


「……ヴェルデを見捨てた貴方が、なぜ今さら」


 ソニアの言葉は鋭かった。ユリアナの表情が、一瞬だけ曇る。

 

「最終的にヴェルデを助けることになったとはいえ、確かにわたくしは反乱を成功させるため、ヴェルデを犠牲にすることを選びました」


 ユリアナは、わずかな間を置いてそう認めた。


「……ですが、ソニア。テツは、ヴェルデとは違いますわ」


「どう違うというのですか」


「ヴェルデは、わたくしにとって大切な友人でした。ですが、テツは……貴女にとって大切な人ですわね」


 ユリアナの瞳が、ソニアを真っ直ぐに見つめる。


「わたくしは……貴女の大切なものを、失わせたくないのです」


 ソニアは黙って剣を構えたまま、ユリアナを見た。

 その言葉が胸に刺さる。かつてのユリアナそのものの慈愛が滲んでいた。だが、それゆえにその言葉を信じられない。

 ソニアにはユリアナが何かを演じているように見えた。


「……私は、ユリアナ様を裏切りました。貴方の手を、拒絶しました」


「ええ、知っています」


 ユリアナは微笑んだ。


「それでもわたくしは、ソニアを見限ることはできませんもの。……貴女がどれほどわたくしを拒もうとも」

 

「なぜ、それほどの言葉を私にかけるのですか……?」

 

 ソニアの声は、静かで冷たかった。

 ユリアナは寂しげに笑った。

 

「……貴女は、わたくしのことを信じていませんのね」

 

「残念ながら、今は……信じられません」

 

 ソニアは即答する。ユリアナは目を伏せた。

 

「……そうですか。では、また信じてもらうために行動するだけですわ」


 ユリアナはソニアの横を静かに通り過ぎ、テツのベッドへ歩み寄る。


 ソニアは剣を構えたまま、その様子を見ていた。


「……純真な皇女の真似事は、得意ですもの」


 そう呟いて、ユリアナはゆっくりと膝をつく。

 テツの傷口に手をかざすと、淡い光が手のひらから溢れ、傷口を包み込んでいった。

 

 精霊術の光が、焼け焦げた地下室を柔らかく照らし出す。

 

 ソニアはその光景を、剣を構えたまま見ていた。


 テツの浅かった呼吸が、少しずつ落ち着いていく。顔色に血の気が戻っていく。ソニアは一度だけ、傷口を押さえていた手の力を緩めた。


「……ユリアナ様。貴方はたったお一人で、一体何をなさろうというのですか?」

 

 ソニアはその問いを、静かに口にした。


 精霊術の光の中で、ユリアナは顔を上げた。

 碧い瞳が、ソニアを見る。


「決めましたのよ。わたくし一人だけで、やり遂げなければならぬことを」 


 そう言うとユリアナはテツから手を離し、すっと立ち上がる。ソニアの方へ向き直った。


 テツの傷は塞がっているようだった。

 テツの無事に安堵しながらも、ソニアはユリアナの思い詰めたような口調に、どこか恐ろしい予感を抱かずにはいられなかった。


「これがその結果ですわ」


 重々しかった声が、かすかに弾む。

 ユリアナは()げていたものを片手で持ち、ソニアの前にずいっと突き出した。


「ねえ、ソニア……ご覧になって?」


 ユリアナはその言葉と共に、提げていたものを覆っていた布をずるりと落とす。


「……な!?」

 

 ソニアの目が、止まった。

 それは――首だった。

 白髪交じりの、老いた男の首。


「まさか、そんな――!」

 

 ソニアは息を呑む。その顔には見覚えがあった。ソニアは幼少期、ユリアナと共に城で育った。ほぼ日の下に出ないとはいえ、皇帝の顔を知らないはずがない。

 

「そうですわ。皇帝(おとうさま)を殺しました」

 

 ユリアナは穏やかな声で言った。

 

「傀儡とはいえ、皇帝は皇帝。帝国を変えるには、もうこれしか手はありませんでしたもの。フィロンがいなくなってしまったのなら、尚更……。……だから」

 

「……ユリアナ様、何と言う事を……!」

 

「あら、ソニア……それほどまでに驚くことがありますか?」

 

 ユリアナが首を傾ける。その碧い目が、炎の光を受けて揺れていた。

 

「貴女も望んでいたことでしょう? 腐った帝国を壊すこと。……わたくしはそれをやり遂げましたのよ」

 

 ソニアはユリアナを見ていた。

 笑みを崩さないその顔を。首を提げたまま自分を見つめる、その目を。


「……ああ。お父様なら、何十年も薬漬けで、すっかり恐れも忘れてしまっていたようで……大人しく首を刎ねられてくれましたわ。わたくしは無傷です」


 華やぐ笑みでそう告げるユリアナ。ソニアは胃の奥から何か込み上げるのを感じた。

 ――ユリアナ様は変わってしまった。

 ソニアの中で、そう思う声があった。――もう、あの頃のユリアナ様ではない、と。

 

 だが、もう一つの声が、静かに問いかける。

 

 ――本当に、ユリアナ様は変わったのでしょうか?

 もしかしたら、彼女はあの頃から、ずっと――……。

 

「……ソニア?」

 

 ユリアナがまた名を呼ぶ。その揺れ方が、昔と変わらなかった。

 子供の頃、ソニアが返事をしないと、同じ声で名を呼んでいた。

 

「ユリアナ様、皇帝だけは、手にかけてはいけませんでした……!」


 ソニアは起こってしまったことの重大さを噛み締めながら口を開く。

 

「傀儡の皇帝の下に成り立っていた各種族の均衡が崩れます! 大陸戦争の再来――いえ、それ以上の混沌をも招き得る! ……一体、なぜ、これほどの事を……!」

 

 ユリアナはソニアの剣幕に少し目を見開いた。だがそれから、また微笑む。

 

「決まっていますわ。……ソニア、貴女のためですわよ」

 

 真っ直ぐに、そう言った。

 ソニアは何も言えなかった。

 テツが背後で僅かに動く気配がした。ユリアナの波耀で動けるようにはなったようだ。傷の痛みをこらえながら、こちらを見ているのだろう。ソニアは前を向いたまま、答えを探した。

 

「……私のため?」

 

 やがて、静かに言う。

 

「皇帝を殺すことが、なぜ私のためになると?」

 

「ソニア。わたくし達は望んでいたはずです。皆が、手を取り合い、笑い合える世界を」

 

「……」

 

「この国が変わることを。人族が自由になることを。あの頃のソニアは、それを望んでいた。……わたくしはそれを、覚えていますわよ」

 

 ユリアナの声に、熱があった。確信がある声だった。

 ソニアは息を吸う。

 

「……ユリアナ様が覚えていてくださっているのは、子供の頃の私です」

 

「ええ。ですが、その子供の夢物語を実現するためにわたくし達は反乱軍に従事していましたわね」

 

「あの頃の私が、ユリアナ様に抱いていたものが何だったのか。……今の私には、まだ答えが出ていません」

 

 縋っていた。信じていた。だがそれは、本当にユリアナという人間への信頼だったのか。それとも、ユリアナが体現していた希望へのそれだったのか。

 ソニアには、まだ分からなかった。

 

「……ユリアナ様、これからどうするおつもりですか」


 ソニアは自分が取るべき行動が大幅に制限されたことに少し諦念を抱きながら言う。

 

「……大陸の均衡を保つための、実質的に空である皇帝の座の必要性は理解しています。ただお父様は、あまりにも従順な傀儡すぎたのですわ」


 ユリアナは語っていく。

 ユリアナ以外の皇子皇女は、辺境の有力な亜種族と人質同然に婚姻関係を結んでおり、都にはいないこと。

 空いた皇帝の座は、一刻も早く埋める必要があること。

 二十年近く純真な皇女を演じ続けたユリアナには、人族に対する求心力、亜種族から見た利用価値が十二分にあること。だが、ユリアナは亜種族の言いなりになるつもりはないこと。


「……ですから、わたくしが皇帝を継ぎます」


 一通り話し終えたユリアナは、ソニアをまっすぐな視線で射抜く。

 

「それに、貴女のその身体……うだうだと迷っている時間は残されていないのでしょう?」

 

 その声は重く響いた。

 

「人族の、慈悲深い皇帝として、新たな国をつくります。それがわたくしに、これからできることですわ。……ソニア、貴女も隣に……来てくれますわよね?」

 

 その言葉は、問いの形をしていた。だが、答えを疑っていない声だった。

 ソニアはユリアナを見た。父の首を提げて、花園を歩くような顔で自分を見つめる、かつての庇護者を。


 ユリアナは恍惚とした笑みを浮かべ、片手で皇帝の首を持ち、もう一方の手でソニアに手を差し伸べている。

 ソニアはその光景を、複雑な表情で見つめていた。


 ――ユリアナ様……貴方は、一体何を考えていますの……?


 かつて尊敬し、慕っていた皇女の姿が、今は遠く、得体の知れない存在に見えた。理想の慈悲深い皇女ではなく、仲間を切り捨てることを選んだ冷酷な革命家でもなく――。

 ただ、歪んだ執着を向けてくる、危うい何かに見えた。


 ――だがもう、サリィはフィロンを殺してしまったというのならば。皇帝を殺してしまったというのならば。

 

「……そうですね。一刻も早くユリアナ様を次の皇帝に立てなければ……帝国は、今以上の地獄になってしまうでしょう」

 

 ユリアナの目が、わずかに揺れた。それが喜びなのか、それとも別の何かなのか、ソニアには読めなかった。

 

「……テツ、立てますか。今すぐにでも、ユリアナ様を次の皇帝に立てるべく、動かねばなりません」

 

 ソニアは振り返らずに言った。

 皇帝の死はすぐに軍部や生き残った大臣達の知るところとなるだろう。


「テツ、異論はありまして?」

 

「……ないさ」

 

 掠れた声が返ってくる。ベッドが軋む音がした。

 ソニアは剣を鞘に収める。構えを解いた。距離は、まだ保ったまま。

 

「ユリアナ様……傀儡の皇帝という均衡を壊してしまったからには……もう、後戻りはできません」

 

 ユリアナは一瞬だけ目を伏せた。そして、また微笑む。あの頃と変わらない、花が綻ぶような笑みで。

 

「ええ、覚悟の上ですわ」


 テツは、ユリアナのその笑みが、ソニアのそれと似ていると思った。

 ソニアはユリアナが伸ばした手を取る。二人は歩き出した。


「ソニア。手が震えていますわね、寒いのですか?」


「……いえ」

 

 テツは遠ざかっていくユリアナの背を忌々しげに見つめ、ユリアナに手を引かれるソニアの背を追う。

 三人は、焼けた城の廊下へと踏み出した。

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