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第80話 霧中の鬼

 レーシュが部屋を出ていった後、サリィは、フィロンとカティアの遺体があるその部屋に立ち戻っていた。

 フィロンの血が乾き始めた床に、昇り始めた朝日が差し込む。薄く赤みを帯びた光が、頭部と胴が分かれたまま横たわるフィロンを包んでいた。

 朝日に似たサリィの赤い瞳はいつにも増して仄暗く、いまだ夜を写しているかのようだった。

 

「二人とも、埋めてやるくらいの義理はあるか……」

 

 窓の外を見つめながら、そう呟く。

 フィロンの殺害を当面の任務として与えられていたサリィは、あてもなく城の中を歩き回った末に、いつのまにかまたこの部屋に戻っていたのだった。

 レーシュを送り出しておいて、己の行動はここまで愚かなものかとサリィは自嘲をこぼす。

 ――延々と決断を先送りにするというのは、愚かなことだな。

 そう思ったとき、サリィの脳裏には数日前の地下牢でのやりとりが蘇っていた。

『本気で私を止めたいならば……殺すしかないぞ』

 ライトは、はっきりとは答えなかった。

 あの男らしい。格子窓から差し込んだ光の中で目を逸らし、また目を合わせた、あの顔。結局、何も変わっていなかった。不器用で、頑固で、自分の正義感だけを振りかざして――それでも向き合おうとする、どうしようもなく愚かな男。

 

 サリィはふらふらと窓際に歩み寄り、窓の柵を少しだけ強く握った。

 ライトは今頃、要塞の攻略を終えた頃だろう。あの男のことだから、難なくやり遂げているはずだ。そして次の戦場へ向かい、反乱軍を各個撃破していく。

 

 ――私は、これからどうする?

 

 いつまでも城で時間をつぶしているわけにはいかない。……そんなことは分かっている。

 ――だが、フィロンを殺した事実がどうしようもなく頭から離れない。二十年も育てた子だった。

 フィロンの死の前に彼を赦したが、それで何かが変わったわけではない。育てた子を殺した事実も、取り戻せない時間も、何一つ消えてはいない。

 サリィの握っていた窓格子が、音を立てて砕けた、そのとき。

 ――ドンドンドン

 サリィの沈んだ思考を断ち切るように扉が叩かれた。

 

「サリィ将軍!」

 

 大きく響いたのは、息を切らした伝令兵の声だった。

 

「何だ」


 サリィは振り返らないまま答える。

 

「ライト元将軍が――北部要塞陥落後、次の戦場へ向かう途中で行方不明になったとの報告が入りました」

 

「……行方不明?」

 

「はい。要塞を出た後、目撃情報が途絶えまして」

 

「……問題ない。時間はかかるかもしれんが、帝国軍の勝利は揺るがないだろう」

 

 短く言う。わざわざ自分に報告に来たということは、将軍級はもはや城には自分しかいないのかと、サリィは理解していた。

 

「のたれ死んだにせよ逃げたにせよ、あの男が消えたのならば、それまでだったということだ」


 サリィが無意識に向けた視線の先へ、伝令兵の目線が動いた。頭部と胴が分かれた死体に気が付き、目を見開く。


「こ、これは……」


「反乱の首謀者フィロンだ。見ての通り……私が殺した。……首謀者とほとんどの主力を失った反乱軍は烏合の衆だ。もうライトがいなくとも問題ないだろう」


「……承知致しました」

 

 最後に敬礼をして、伝令兵の足音が遠ざかっていく。

 部屋に、静寂が戻る。

 ――行方不明。

 あの男のことだ。のたれ死んだとは考えにくい。反乱軍に囲まれたか、あるいは意図的に姿を消したか。どちらにせよ、すぐに戻ってくるだろう。

 関係のないことだ。

 

 サリィはフィロンの遺体を一瞥した。血の匂いが、まだ部屋に満ちている。

 ――私は何をするべきか。……フィロン殺害後の任務を与えられていなくとも、それは簡単なことだ。まずは城下へ出て、街の残党処理から始めるべきだろう。反乱の後始末は山積みだ。

 ――だが。


「……二人を、埋めた後でいいか」


 サリィはフィロンとカティアの体を片手に担ぎ、頭部を手に持って歩き始めた。

 部屋を出る。廊下を、今度ははっきりとした足取りで歩く。

 ……それでも、足は思ったよりも重かった。

 

 **

 

 サリィが二人を城の庭に埋め終わったとき、再び足音が近づいてきた。

 

「サリィ将軍!」


「……何だ」

 

 駆け寄ってくる伝令兵は、先刻とは別の者だった。血と土に汚れた将軍の姿に一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに意識を戻して口を開いた。

 

「白髪の長身の男が、南の森の中で錯乱しているとの目撃情報が。行方不明の報告も相まって、ライト将軍ではないかという噂が出回っております」

 

 土を払っていたサリィの手が止まる。

 その報告にはサリィにとって聞き流すことのできない言葉が含まれていた。

 ――ライトが錯乱だと? ……あの男が戦場で自分を見失うことなど果たしてあり得るのだろうか。……もしあるとすれば、それはライトに流れる鬼族の……。

 ――いや、そう判断するにはあまりに情報が少ない。

 そう思い、サリィは伝令兵に目を向ける。

 

「それはあくまで噂なのか?」

 

「はい。近づけなかったため確認は取れていないということです。捜索隊を向かわせましたが、霧が深く、視界が利かないと――」

 

 サリィが伝令兵を見る目が、鋭く細まる。伝令兵が僅かに仰け反った。

 

「捜索隊は引き上げさせろ。私が確認に行く」

 

「え……将軍が直々に? し、しかし――」

 

「万一本人なら、捜索隊では手に負えない」

 

 有無を言わさぬ声に、伝令兵は踵を返して駆け出す。サリィは、口をついて出た自身のその指示に思わず苦笑しながらも、次にすべきことを見極めていた。


「……」

 

 サリィは城の庭に植えられていた薔薇を二つほどむしり取り、二人を埋めた土の上に添える。

 そしてしばらく立ち尽くし、その土を見ていた。

 やがて剣の柄を握る。サリィの全身には、まだフィロンの血の匂いが残っていた。

 ――噂だが、もしライト本人ならば、私でなければ手に負えないだろう。

 ただの噂だ。白髪で長身の男など、いくらでもいる。……本来ならば、将軍が出向くことではない。

 それでも、確認しなければ。この目で見なければ。

 それだけだ、とサリィは自分に言い聞かせながら、歩き出した。

 

 **

 

 南の森へと向かう道を、サリィは馬型の殲獣に乗り、駆ける。

 夜明けの光が地平を染め始めているのに、霧だけがまだ夜の名残のように低く漂っていた。戦場と化した街を抜けると人の気配が薄れ、蹄の音だけが石畳に響く。やがてそれも土に変わり、木々の間へと吸い込まれていく。

 ――ライトが、錯乱している。

 その言葉が、頭の中で繰り返す。


 ――あいつが鬼族の血に呑まれることが、今さら起こり得るのか。

 考えられるとすれば、本能的に血肉を求めざるを得ないほどの深傷を負うことだが、ライトとまともに戦える者など、もはや反乱軍に存在するはずがないが……。

 

 だが、何が起きようとも、自身がすべきことは何も変わらない。ライトが生きていようと死んでいようと、自分のすべきことは反乱の余波を鎮め、帝国を立て直す。それだけだ。

 もしライトが立ちはだかるというのなら、そのときは……。

 考えながらも、馬型の脚は止まらない。

 

 地下牢でのライトの横顔が、浮かんでは消える。

 あの男はいつもいつも、私を物欲しそうに見つめ、そして肝心なことは何も言わずに目を逸らすだけだった。

 ――本当に愚かだ。

 言いたいことがあるならば、言えばよかった。向き合うために都に戻ったのなら、向き合えばよかった。

 

 最後まで不器用なまま、どこかへ消えるような男だ。

 あの男への気持ちなど、もうとうに諦めがついている。

 そんなことを自分に言い聞かせながら、サリィは奥歯を噛んだ。

 

 **

 

 木がまばらな森の入り口に馬を止め、一人で踏み入る。

 霧が深かった。木々の輪郭が滲み、数歩先でさえ靄の中に溶けていく。足元の落ち葉が湿って音もなく沈み、踏み込むたびに冷たい土の匂いが立ちのぼった。

 ――静かだ。

 鳥の声すらない。風が吹いて木々が揺れるたびに、霧の流れが変わる。白い靄が木の間を縫うように動き、ぼんやりとした朝の光を散らしていた。


 ――その気配は、静寂の世界に唐突に現れた。

 サリィに緊張が走る。

 

 視界の端に人影が揺れた。

 ――何だ、この異様な気配は。獣か何かかと思ったぞ。

 次第に霧の中から現れるのは、白髪。長身。血と泥に塗れた、大きな影。

 

 サリィは足を止め、目を見開く。


「……ライト」


 答えはない。

 

 サリィは一歩踏み出す。人影が、霧の中をゆっくりとこちらへ向かってくる。

 

「ライト」

 

 もう一度、名を呼ぶ。

 答えはない。

 

 霧が、薄れる。

 そこに立っていたのは、確かにライトだった。

 だが――。

 その目は、虚ろだった。何かを見ているようで、何も見ていない。焦点のない目が、サリィの上で止まっている。服は血と泥に塗れ、ただ立ち尽くしていた。


 サリィは剣の柄に手をかけた。

 

 だが、サリィは動かなかった。

 見極めるようにライトの目を、見ていた。

 ――心臓があると思われる位置に、血の花が咲いている。これが原因で錯乱したと言うのか……? 一体誰が、ライトにこれほどの深傷を負わせられる?

 

 ライトの虚ろな目が、サリィの上で揺れている。焦点が、合わない。……合いそうで、合わないまま。

 

 その目の奥に映っているのが、自分ではないと気づくのに、時間はかからなかった。

 

 緑の髪。赤い目。……額の、一本角。

 サリィとアリアは、よく似ている。母から何度も言われた。都に来てからも、古参の兵に言われた。鏡を見るたびに、自分でも思った。

 

 ――ライトが今見ているのは、私の角……か。ライトは、いつも私の奥に母の面影を見ていた。それに初めて気が付いたときは、この姿を呪わしく思ったことだ。


「……貴様は今、()を見ている?」

 

 サリィの声が、霧に沈んだ。


 ライトの喉から、低い唸り声が漏れた。武器も持たぬまま、重心を低く落とし、獣のように歩を進める。その動きに、かつての英雄の理性はない。ただ本能だけがそこにある。

 

 サリィは手をかけていた剣を抜く。銀色の刃が鈍く輝く。

 問いかけは、ライトには届かなかった。錯乱した目は揺れるだけで、答えを返さない。

 

 ――今、自分はどんな表情(かお)をしているのだろう。ただ、唇が歪に曲がっていることだけは感じた。


 あんなにも言葉を選び、思ったことを口にすることを避けてきた男が。

 不器用で、無自覚で、向き合えないくせに向き合おうとして、最後まで中途半端だった男が。

 血に呑まれれば、こうも素直に肉を求めるものか。


「……」


 森の中、血と肉を求めて彷徨う鬼。


 血に呑まれて己を失った忌まわしい記憶が、ふと、サリィの眼前に揺れた。

 

 ――ああ。()()は私も同じことだったな。

 

 笑みが、消えた。

 生肉を喰らう亜種族、鬼族の血。あの夜――陽の光で辛うじて保っていた正気が途絶えた後、目を覚ました私の手は、赤く濡れていた。

 あの夜、私は叱ってくれる者が欲しかった。否定してくれる者が欲しかった。どうしようもないことをした、と誰かに言いたかった。

 だが、母は既に去っていた。そして、父かもしれないライトも――何も言わなかった。私の正体に気づかない振りをして、言うべきことを言わなかった。

 

 フィロンに言った言葉が、蘇る。

 ――取り返しのつかない過ちを犯したとき、終わらせてほしかった。

 私もずっと――そう思っていた。あの夜から、ずっと。

 フィロンに言いながら、自分にも言っていたのかもしれない。


「……ならば」


 声が、静かに霧へ溶けた。


「私が終わらせてやろう」


 その言葉を口にした瞬間、ライトが踏み込んできた。

 ライトの爪が轟音と共に空気を裂く。槍を持たないライトと対峙したのは初めてだった。爪を剣で受ける。サリィでなければ全身の骨が折れても足りないほどの衝撃。

 サリィは後退しながら体勢を整え、次の一手を読もうとした。だが錯乱した動きは読めない。理性のない本能は、型にはまらない。――疾走した残像だけをサリィの目が辛うじて捉えた瞬間――頬に、熱が走る。

 

 深い裂傷が一筋、白い頬を彩る。

 サリィは手の甲で頬を拭い、指先の血を見た。

 

 ――久しぶりだな。


 幾年ぶりかの自身の血の匂いが鼻をついた。懐かしいような、不快なような、その匂い。

 サリィは目を上げ、霧の向こうでこちらを見ているライトを見返す。

 ライトは止まっていた。次の一手を繰り出す気配がなく、ただそこに立っている。血の匂いに惑っているのか、あるいは霧の中で焦点を失ったのか――理由は分からない。

 その顔に、表情はない。それでも、いつも携えていた槍すら持たぬ立ち姿でも――どうしようもなく、サリィの知っているライトそのものだった。


「やはり、お前は私から目を逸らすんだな。……まあ、今さらそんなことはどうでもいいか」

 

 ――お前の目の奥にいるのは私の母(アリア)だろう。最後の最後まで、お前は私を見ない。それでいい。もうそれでいい。


「……錯乱したままのお前が森を出て戦場に向かったならば、帝国軍の勝利をなかったことにされかねん」

 

 目の前の男は、もはや自分を認識していない。それでも剣を向ける。剣先に映るのは、かつては慕い、しかしずっと嫌いだったはずの男の顔だ。


「……なぜお前が心臓を突かれ、錯乱しているのか。多少の疑問は残るが……――私がお前を殺すには、十分すぎる理由だ」

 

 ――ここで、終わるのか。……否、私がこの手で終わらせよう。ここで、すべてに終止符を打つ。

 

 言いたかったことは、言えなかった。聞きたかったことも、聞けなかった。長い年月、この感情の名前を決められないまま生きてきた。

 お前が私の父親だと母から告げられた日も、自分の感情を持て余したまま軍人として生きてきたこの年月も、全部、ここで終わる。


「……そうか。私はずっと、お前を殺す理由を探していたのかもしれんな」

 

 自身の頬にはしる深い裂傷を片目で見て、サリィは微かに笑った。

 ――まともに意識がないとはいえ、ライトを相手に油断すれば私でも首を取られかねない。

 ――ライトを殺す。殺されるかもしれない。

 ……それなのに。こみ上げてくるこの胸の高鳴りは、何なんだろうな……?

 

 風を切り踏み出した。その瞬間、サリィは頬が濡れているのを感じた。それは血にか、はたまた――……。

 サリィはそれを拭わなかった。

 胸の奥で渦巻く底知れない感情を、不敵な笑みの奥に押し込む。そんなサリィを、殺気ですらない、飢えのような衝動を湛えたライトが迎え撃つ。霧の中で、二人の影が交差した。

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