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第79話 反撃と乱入者 5

 ラナはゆっくりと瞬きをして、焦点を合わせていく。


「……サキ、さ……?」


 やがてラナは掠れた声で私の名前を呼んだ。


「ラナ……!! うん、私よ」


「……ケホっ……あれ、私……」


 ラナは少し咳き込んだ。そして赤い瞳が私をまっすぐに見上げる。


「ラナ……」


 喉の奥が熱くなるのを感じた。

 私は自分の声が潤んでいくことに気がつく。

 ラナはまだ、どこかぼんやりとした様子だった。


「大丈夫、なの?」


「……はい。ただ、思い出せなくて。私、今まで、何をして……」


 ラナの単調だった声は、だんだん震えていく。

 次第に目を見開いて、ラナは自分の手がカタカタと揺れるのを見つめていた。


「――そうだ、私……ラキや、サキさんのことが、分からなくなって……それで――」


 言葉が続かない。ラナの唇が震える。

 私はラナを抱きしめた。

 抱きしめた瞬間、ラナの身体が小さく震え、堪えていたものが崩れるように、ぼろぼろと泣き出した。


「その後のこと……何も思い出せないのに……なぜか、胸が抉られているみたいな――」


 ラナの声が、私の肩で震える。

 自分が何をしたか覚えていないから、余計に何をしてしまったのかが怖いらしい。それは、分かる。だって私も、洗脳された後のことは――。

 ……目を逸らしてはいけないと思うけれど、思い出そうとは思えないから。


 ――でも、ラナが目覚めて本当によかった。


「大丈夫よ。……大丈夫だから」


 ミラクに何をさせられたかは、きっと今は思い出さないほうがいい。それよりも今は、ラナが戻ってきたことを噛み締めていたい。


 ラナの背中に回した手に、少しだけ力を込める。

 ラナも、同じように私の背中を掴んでいた。細い指が、布越しに震えているのが分かる。


「……サキさん」


 ラナがまた、私の名前を呼んだ。さっきより少しだけ、声が落ち着いていた。


「色々、言わなきゃいけないことが、あったはずなのに……ラナとこうして抱き合えることが何よりも嬉しくて、今はただ、こうしていたい」


 ラナと過ごした楽しかった思い出が、私の目の前を照らす。

 ……私、頑張ろう。

 ラナやラキと、心から楽しく毎日を生きられるように。また、ライトとも再会しよう。

 

 ――そのためにも、やっぱり、私の手ですべてに決着をつけないといけない。

 

 そんな思いに身を委ねつつも、ただラナと抱き合っていた。


 だけれど、束の間の安息は長くは続かない。


 ――ドタっ


「……!」


 背後で、()()が落ちてくる気配がした。

 土を叩く、鈍い音。

 何かは――地面に転がり込むようにして止まった。


 私はラナを抱いたまま、一瞬だけ固まる。

 そっと吹いた風が、私の髪をなびかせた。そしてその風に乗るように――血の匂いが流れてきた。

 背後にあるものが、一体何なのか。振り返らなくても分かった。

 ……だって、風に乗って流れてきたのは、私の心臓を不快に高鳴らせる、()()血の匂いだったから。


 目の前のラナの落ち着く匂いと、背後から漂う血の匂い。相反する二つに、私は思わず身震いした。

 

「――ミラクっ……!」


 レーシュがその名を微かに叫ぶのが聞こえた。


 ラナの温もりに、もう少しだけ浸っていたかった。

 だけれど、空気の中に混じる血の匂いが、私にそれを許さない。

 

 ――ミアは、本当に私の下にあいつを連れてきたんだ。


「……ラナ、少し、待ってて」


 私はラナの肩をそっと離して、立ち上がった。

 意を決して振り向くと、その姿が目に入る。

 思わず息を呑んだ。

 ――ミラク。

 ミラクは赤く染まった影にがんじがらめにされて、目も影で覆われていた。

 ――息は、微かにしているみたい。


 心臓の鼓動が速さを増していくのを感じる。

 今、私はこいつを殺そうと思えば、殺せる。

 ――でも、足が動かない。

 憎くて堪らない。殺したいと思っているし、殺すべきだとも分かっている。


 ――ライトは、まだ生きているはずだとはいえ、こいつは、もうすぐでライトを殺すところだったんだ……。

 ミラク本人が知るところではないけれど、ミラクがライトを殺し損ねていると、私はミアに教えられた。

 

 ラナは、無事に目覚めた。

 ……ミラクには、言いたいことも聞きたいことも、いくらでも溢れてくる。

 だけれど……。

 

 こいつへの怒りより先に、確かめなければならないことがある。ライトとの再会。そして、戦争を終わらせること。


 木の葉が風に揺れて、朝日にまだらに照らされる。

 

 地面に横たわったまま、ミラクは目だけで私を見る。

 その後ろに、ミアがタッと降り立った。

 煙を上げる身体に、焼けただれた肌。だけれど、目だけは今までよりも一層冷たい。

 ミアはミラクを縛る影を無造作に操って、引きずって――私の前に投げ出した。

 

「約束通り。……跪かせてあげたわよ」


 ミアはそれだけ言うと、赤黒い影をゆっくりとほどいた。腕の拘束が緩み、次いで脚が解放される。そして、目元を覆っていた影が散り、ミラクの顔が露わになる。完全な解放ではないけれど、ある程度は動けるほどだった。


 ミラクは地面に手をついたまま、ゆっくりと顔を上げた。

 黄色い瞳が、まっすぐに私を捉える。

 その目は、熱を帯びていた。私の心の奥底を覗きこむような目。熱に浮かされたような、思わずたじろぐような目をしている。

 ――まだ何も終わっていない。

 胸の奥が、じわりと冷えていく。

 それでも私は、ミラクを見下ろしたまま、言葉を絞り出す。


「……ミラク。私は――」


 目を合わせて名前を口に出しただけで、喉の奥から嗚咽が込み上げそうになる。

 思わず目を逸らした瞬間、ミラクは笑いを溢した。

 縛られているのに。跪かされているのに。まるで、これから始まるものを確信しているような笑い声が聞こえた。


「わた、しは――」


 ――ザッ


 何とか再び口を開いたそのとき、森の奥から足音が滑り込む。


 その足音に、ハッと顔を上げる。

 ――ラキだ。……ライトの槍を、持っている。

 ラキはそのまま走ってくると、私を見た。赤い瞳が揺れて、傷だらけの顔に安堵が浮かぶ。


「……ラキ!」

「――サキ」


 私は、気づけばラキに駆け寄っていた。

 ほぼ無意識に、身体が勝手に動いた。

 ラキに飛びついて、その肩に手を回す。


「無事で……無事で良かった……!」


 声が震える。

 ラキの身体は、血と土に汚れていた。でも、温かかった。生きていた。


「お前こそ……」


 ラキが抱えていたライトの槍が、地面に落ちる。

 ラキの手が、私の背中に回る。

 しばらくそうしていた。


 やがて、私は少しだけ身を離した。


「ラキ、身体、辛いわよね。……ラキは、休んでて」


 肩に手を置いたまま、ラキと目を合わせる。

 ラキの血の匂いに少し頭がくらくらするのを感じた。だけれど、さっき血を飲んだばかりだからか、いくらか自制が効く。


「そうだな。でも、サキは……?」


 ミラクを横目に気にしながらも、私は口を開く。


「私は、ライトを探しに行く」


 ラキの目が、わずかに揺れる。何か言いたそうな、だけど飲み込んだような、そういう顔だった。


 私は地面に落ちたライトの槍を手に取った。もう乾いてしまった血の匂いが、指に貼り付くように滲んでくる。それがひどく嫌で、それでも手放せなかった。


「ライトにすべてを伝えて、サリィと仲直りさせて……とにかく、帝国を変えるためにはライトと一緒にいた方がいいから」


 ライトの槍を強く握りしめて、私はラナを見る。

 ラナはあまり体を動かせないようで、レーシュの存在に戸惑いながらも、彼女に支えられて、こちらを見ていた。泣いた後の赤い目で、真っ直ぐに。


「ラキ、ラナをお願い」


 そこでようやくラキは、木陰にいるラナが起きているのに気がついたらしい。

 目を見開いて、大きく数回瞬きをした。そして何かを飲み込むように息を飲む。

 ラキは珍しく、涙を流して泣いていた。


「ラナ……!!」

 

 そしてラキがラナに駆け寄った。私はそれを見届け、ライトを探しに行こうとした、その時だった。


「待ちなさい」


 ミアの声が、冷たく響いた。

 私は振り返る。


 木陰に立つミアは、少しだけ疲れたような目で私を見ていた。


 ミアが口を開く。


「私は、お前に機会をあげたのよ。……セレスティアには、あげられなかったから」

 

 私は、その言葉の意味がよく分からなかった。

 ――でも、セレスティアはミアが言っていた、私の母の名前だ。

 私が何も答えられずにいると、ミアはミラクを指差した。

 

「今、ここで……あなたの手で、この男を殺しなさい」

 

 ――――。

 

 ミラクの目が終わっていなかった理由。

 そして、ミアがわざわざ、朝日の中で危険を冒してまでミラクを連れてきた理由。

 それが今、分かった気がした。


「こいつに、私たちが築く未来を生きる資格はないわ。……だけれど、私が殺しても、何も終わらないの。あなたが終わらせることに、意味があるのよ」


 ――ライトを探しに行く前に、ここで決着をつけろというんだ。


 私は少しの間、ミラクを見ていた。

 縛られたまま地面に膝をついている。

 それでも、その黄色い目はただ期待と狂気的な願望を湛えて揺れていた。


「……そう。そういうこと、なのね」


 ――ここで、ミラクを殺して、前に進めと。ミアは私にそれを望んでいる。


 確かに、散々ミラクとの決着をつけられなかった結果が、今だ。

 ――ならば、今ここで終わらせるべきなのかもしれない。


「確かに、そうするべきなのかもしれない。……だけれど、何もかもあんたの言う通りっていうのも、癪ね」


 このまま跪いているしかできないこいつを殺したって、私の中で何も終わらない。

 でも、ただ会話をするだけでは、足りない。

 ……ずっと、言葉では届かなかったから。

 

 ミラクと最初に出会った頃から、ずっとそうだった。刃を交えることでしか、向き合えなかった。

 ……だから、最後も()()したかった。


「……ミア」


 私は口を開く。


「お願い。ミラクの拘束を解いて」


 一拍の沈黙。

 ミアは私を見た。煙を上げる肌に、冷たい目。

 それから、短く言った。


「……良いわ」


 赤黒い影が、ゆっくりとほどけていく。

 ミラクの身体が完全に影から解放されて、自由になる。

 だけれど、ミラクは立ち上がらなかった。立てないのか、それとも立つ気がないのか。

 地面に片手をついたまま、私を見上げている。


「影蝕の反動で……この身体はもう、まともには動かない」

 

 掠れた声で、ミラクは言う。自嘲じみた笑いを含んでいた。


「……それでもいいから」


 私は答えた。


 血で剣を生成した。形だけの、簡単なものでいい。だけれど、記憶の中にある、ミラクがかつて持っていたものに似せた。

 それをミラクの前に落とす。


「持って」


 ミラクは少しの間、落とされた剣を見ていた。

 それから、ゆっくりと手を伸ばして、握った。


「律儀だな」


「うるさい」


 私は血槍を構える。

 ミラクも、震える腕でなんとか剣を持ち上げる。

 剣を地面に突き立てて、立ち上がった。

 朝日が木々の間から差し込み、私たちの足元に淡い影を落としていた。

 

 ――そう。……立ってしまうのね。

 

 まともな構えにはなっていない。それでも、私たちは武器を手に向き合った。


「ミラク……お前には……私の気持ちなんか、分からないのよね……?」


 言うつもりのない言葉が、私の口から勝手に零れた。


 ミラクの荒れた黒い髪の隙間から、黄色が覗く。何を考えているのか掴めない黄色い瞳。血を流し過ぎて声を出すのが辛いのか、微かに掠れた声を漏らし、何か言葉を紡ごうとしている。

 

「……サキが『辛い』ということは……理解できる。……そして、他とは違い、お前の感情は俺が誰よりも共感している」


 ミラクは、ゆっくり言葉を繋いだ。


「……が……俺の望みは、その先にあるものだ。お前が見せる色が増えるほど……俺の淀んだ世界は彩られる」


 生きている者の中で唯一、お前に対してのみ感情が湧いた――そんなふうに言う。


「ずっと……お前みたいな奴を、その悲憤に染め上げるほどの『絶望』が欲しくて堪らなかった」


 黄色い目が細まる。


「きっと、今お前を殺せば……それは得られるんだろうな。あるいは……」


「……違うわ。分からない? 私が、今から、お前を殺すのよ!!」


 叫んだ。喉が痛い。

 

 ミラクは乾いた笑いを零す。

 

「殺してみろよ。……隙だらけに、しているつもりだぜ……?」


 その口からは、鮮やかな血がぼたりと溢れる。


「……お前に殺されるならば……悪くないかもしれないからな。死の直前に、手に……入る……」

 

 ミラクは、目を閉じた。声は小さくなっていき、最後は消え入るようだった。

 

「……っ」

 

 私は槍を持つ手に力を込めた。止めを刺せば、全部終わる。終わらせるべきだ。


 そう思った瞬間――ミラクは何を思ったのか、地面に突き立てていた剣を、私に向ける。


 腕は震えている。力はほとんど残っていないみたい。

 それでも刃先だけは、真っ直ぐに私を指している。


 ミラクの身体は本当に限界なのか、節々から血が吹き出した。血の匂いが、鼻腔を満たす。


 ――……あれ……また――また、血が欲しくなって……。


 ミラクが剣を向けたのは、血を流して私を誘うためだった……?

 だけれど、そう分かってももう遅い。

 

 ――血の匂いなんて、シャトラント村に居た頃は、生臭いとしか思わなかったのに。今は、どうしようもないくらい魅惑的に感じた。

 

 そして、喉の奥から込み上げてくる、あの……赤くて熱い衝動。

 

「……はッ……ハァ……ッ」


 視界が揺れる。

 鼓動が、耳の奥で暴れている。


 気づけば、私はミラクの懐へ踏み込んでいた。


 槍で血の剣を弾くと、それはやけに簡単に飛んで行った。そのままミラクの足を薙ぎ、首と腕を槍の柄で押し払う。

 ――気がつけば、私はミラクに跨って槍を向けていた。

 

 長い黒髪で閉ざされた中、黄色が光る。

 私の髪が取り囲む中、ミラクがこちらを見ていた。


 ミラクは鈍い目で私を見上げ、血に濡れた唇を歪める。その下卑た笑みのまま、ほんの僅かに上体を起こした。

 そして跨っている私の髪を少し乱雑に払うと、私の耳に手を添え、熱い息の溢れる口を寄せる。

 

「衝動に身を委ねる快楽は……堪らないよな……?」


「……ッ!!!」

 

 ミラクはそう囁き、自身の首元の服を除ける。赤く染まった首筋を曝け出した。


 ……なんで? 吸血欲求は、一旦落ち着いたと思ったのに。ミラクの血は、何で、こんなに――。


 どくどくと脈打つ拍動。……不快だ。

 ――だけれど、この不快な衝動がどうすれば収まるのか……私は経験的に、そして本能的に知ってしまっている。


「な……何のつもりなの?」

 

 思考は覚束ない。

 ――私が吸血衝動を受け止めてもらう代わりに、ミラクは、私から――何かを、得るの……?

 そんな関係って――でも、私は、もう……。

 ただ、目の前の赤い血に焦がれる。

 首筋を曝け出したミラクを前に、呼吸が浅くなっているのに気がついて、思わず大きく息を吸う。ミラクの血の匂いでいっぱいの空気を、胸いっぱいに吸い込んだ。

 ――その瞬間、視界が赤く染まった。

 思考が、赤い景色に溶けていく。落ち着こうとした行動が逆効果だったと気がついた時には、もう遅かった。


 ――頭の中で何かが弾ける。


 振り上げていたライトの槍は、宙へと放り出されていた。

 くるくると宙を飛ぶ槍が、地面にざくりと突き刺さる。

 その音だけが、かろうじて聞こえた。


 ――まるで心と体が分離してしまったみたい、……こんなこと、したくないのに……!


 そう思っているのに。


 牙が、沈んだ。

 

 夢見心地のまま、無我夢中で噛み付く。

 熱い。ミラクの血が、喉を灼きながら落ちていく。ただそれが心地よくて、満たされて。

 ミラクは、痛みに喘いだような面白くて堪らないような、よく分からない声を漏らした。


 互いに、呼吸はいっそう乱れていった。

 

 ――ミラク。お前の殺しも、こんなふうにどうしようもないものなの……?


 熱い。本能が、まだ足りないと叫んでいる。だけれどその奥で、ぼんやりとした考えが流れている。

 

 ――抑えられない衝動や欲求を抱えて、一人ぼっちで生き続けるのは、とても寂しいのかもしれない。

 ……私には居てくれるラキやラナ、ライトのような存在がミラクにはいない。

 ミラクへの気持ちがいくつも重なり合っていて、まだはっきりとは分からないけれど、こいつを憎む気持ちだって、確かにある。

 

 傷なんてもう、とっくに塞がっている。

 それなのに、血が喉を通るたびに、身体の奥が熱を増していく。

 満たされているはずなのに、火照りは収まらない。

 

 ――ミラク。私達……一体どうして、出会ってしまったのかしらね?


 こんなに血を流して、ミラクはどうして生きていられるのだろうと思う。影の魔術が、体を蝕んでいるとも言っていたのに。


 私の腕の中のミラクの身体は、さっき抱いていたラナのものよりは、ずっと重たい。ラキよりも、多分少しだけ重たい。

 

 ――そっか。

 ふと、思い至る。

 ……私が吸血してしまったのが偶然ラキだったから助かったけれど、あんなに細くて軽いラナを吸血してしまっていたら……死んでしまっていたのかもしれない。


 自分の欲求を満たすためだけに人を殺すだなんて、許されるわけがない。今はぼーっとあまり動かない頭でも、そんなことは分かる。

 ……だけれど。

 そもそも、ラキとラナに助けられていなかったら、飢えるたびに、道ゆく人を吸血して……殺してしまっていたのかもしれない。……ミラクと同じようなものだ、私……。制御のできない欲求を抱えながら、ただ、それでも差す微かな光に縋りながら生きる……。

 

 シャトラント村から旅立った日、夢に見ていた希望と、未来。私を突き動かして止まなかった熱。

 ……もう、あの頃の純粋な気持ちを、完璧には思い出すことができない。

 こんなにも、裏切りと、復讐と……そして殺意に塗れた世界で生きるならば、いっそ……そんなもの……最初から持っていない方が、楽だったのかもしれない。

 

 ――それでも、今はこんなにも、熱い。たとえいっときの熱だったとしても、心を満たしてくれる。

 進むべき未来が、霞んでしまうくらいに……。

 

 顎に滴る血を肩で拭う。

 ミラクを殺して全部終わらせるつもりだった。

 ――それなのに、今になってもこいつを憐れむ気持ちを、捨てきれないなんて。


 ――……サキ!

 

 そのとき、誰かに名前を呼ばれた気がして、ミラクの頸を噛む力を少し弱めた。ふと、響いていたミラクの可笑しくて堪らないというような掠れた笑い声が、止む。

 少し強張っていたミラクの身体から、力が抜けていく。

 

「……はっ……? ……ミラ、ク……?」

 

 生き血を溺れるように飲んだ。

 ミラクの血は、レーシュのものよりも身体によく沁みた。そして私は、なぜか動かなくなったミラクから、ゆっくりと牙を抜く。

 

「ミラク」

 

 やけに重く感じるミラクを持ち上げ、横抱きにした。ミラクの目は閉じている。

 ……なんだか、さっきよりもミラクの身体が冷たい。その冷たい肌を、赤い血が彩っていた。



「――サキ!!」


 ラキが私の名前を呼ぶ声がはっきりと聞こえて、私はハッと振り向く。

 いつの間にか、ミアに無理やり抑えられているラキがいた。ラキは何度も何度も私を呼んでいたらしく、声が掠れていた。ミアは、まるで行末を見届けるつもりのように、ラキを抑えていた。

 その横では、ラナが口元を押さえながら私を見ていて、レーシュが珍しく背負った剣に手をかけていた。


 ……視界の端では、さっき放り投げてしまったライトの槍が、ぽつんと転がっている。


 ラキは私と目が合うと、ミアが同時にラキへの締めを緩めたのか、私の方へ駆け寄ってきた。

 そして、私が投げたライトの槍を拾い、ミラクに向けて振り上げた。


「――待って!」


 私は一瞬、その声が自分のものだとは気がつかなかった。


「……お願い、待って……」


 私はラキが振り上げた手に縋り付いていた。

 ただラキはミラクに向けていた殺意のこもった視線を私へと移すと、目を伏せ、しゃがみ込む。震える手から槍を土の上に落とした。

 槍が土の上を転がって、ミラクに当たる。

 だけれど、それに、ミラクは何の反応も示さなかった。





流石にサキさんそろそろラキに干されそう…

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