第75話 反撃と乱入者 1
「……ああ、そうだ」
ラキが短く答えたと同時に、ラキを縛る俺の影が内側から軋むのを感じた。
拘束を強めようと腕を伸ばした刹那、軋みは亀裂へと変わり、影は無理やり引き千切られた。
……いや、違う。……自分の肉ごと、か。
影を引き千切る際、ラキは自身の肉も一緒に削ぎ落としたらしい。腕から血が滴っている。
拘束から抜け出したラキはその勢いを殺すことなく身を翻した。流れるように距離を取り、迷いのない動作で双剣を構える。
「動けないふりをしているとは思ったが、ここまで損傷が少なかったとはな」
視線はラキの周りを動く。
何か、まだ手駒を隠しているのか――そう考えかけて、地面の血痕に気づいた。
血の跡は、ラキが落ちた地点を中心に薄く円形に広がっている。不自然だ。
意識的か無意識かは分からないが、落下の直前、ラキの下にサキが血の膜を張っていたのだろう。衝撃を和らげるための、即席の防御。……道理で、あれだけの落下でもラキは動けた訳だ。
「俺は、お前に動くこともできない状態だと思わせたんだ。そうしなければ、これほどの隙はできなかった」
言い終えると同時に、ラキは剣を構え直し、鋭く地を蹴った。
狙いは――影の沼に沈みかけるサキの片腕。
そう思った、次の瞬間。
ラキの身体は、地面に無造作に転がっていた一本の槍へと、一直線に跳んでいた。
――まさか。
その意図を理解した時には、すでに遅い。
ラキはライトの槍を掴み取ると、躊躇なく反転し、森の奥へと全速力で駆け出した。
「そういうことか。つくづく癪に障る……!」
影を伸ばし、即座に追う。
だがラキは木々の間を縫うように走り、地形と死角を巧みに使って、影の追撃を振り切っていく。
「……」
影を操るたび、体の奥から何かが削られていく感覚がする。秘薬の代償か。
――しかし、やむを得ない。ライトの槍だけは替えられない。
俺は一度、サキに目をやった。
気力を失い、影に包まれたままのサキ。影から片腕を伸ばしているが、自力で脱出する力はない。
そして、視線の先には森の奥へと消えていくラキの背。
一瞬の逡巡。だがすぐに迷いは切り捨てた。影をサキから完全に引き剥がし、俺はラキの跡を追う。
――サキは殆ど影の中に沈んでいる。何者かの介入でもない限り、自力で影から抜け出すことはできない。
何より、あの槍がなければ……サキの絶望は完成しない。
影の中、サキが朦朧とした意識のまま、何かを掴もうとするように手を伸ばした感触が伝わる。
だが、今はそれを振り返らない。
**
朝日が木々の間から差し込み、森の中に光と影の縞模様を作っている。
俺の息は荒く、足音が地面を叩く。背後から、ミラクの影が這い寄る気配がする。
ライトの槍を抱え、全速力でミラクから逃げながら、俺は考えていた。
こうなったのは――ミラクがラナを攫い、ライトを殺したのは、決してサキだけのせいではない。
俺のせいでもある。
暗殺部隊の砦から逃げた夜、俺はサキに伝えないことを決めてしまったのだ。
ミラクに斬られた時に流れ込んできた記憶。ミラクの過去を。
――だが、ミラクの記憶をサキに話すべきだったんだ。
サキが求めている答え――なぜミラクが裏切ったのか。それを、俺は知っている。
だが、言えなかった。
その理由はサキがさらに苦しむと思ったからか、と問われれば――違う。
俺が、怖かったんだ。
ミラクの記憶を語れば、サキが俺を見る目が変わるかもしれない。それが、怖かった。
拳を握りしめる。
――結局、俺は臆病者だ。
サキを守るためではなく、自分が傷つきたくないから黙っていた。
視線が、手にした槍へ落ちる。
乾ききらない血が、朝日を受けて鈍く光っていた。
でも――今は違う。
ミラクがライトを殺した。その証拠が、この手にある。
――もう、黙ってはいられない。サキに、すべてを話す。
ミラクの過去も。俺が臆病で黙っていたことも。
そして、固い決意を胸に前を見据える。
俺はミラクを、止める。
**
全速力で走るラキの背を、俺は影越しに追っていた。
肺が焼けつくような荒い呼吸。――ライトの槍を持ったまま、あれほどの速度をあの体で維持し続けているというのか。
影は地を這い、ラキの足を狙う。ラキは迷わず、朝日を遮る巨木の影を飛び越え、上空へと身を投げた。折れそうな細枝を足場にし、一本、また一本と枝から枝へと身を投げ、森の上層を駆け抜けていく。
影の修復が追いついていないのだろう。全身の至るところから血が滲んでいる。それでもラキは止まらない。振り返ることすらせず、ただ前だけを見て走り続けている。
――ラキは、なぜ槍だけを持って逃げた? 単なる妨害か? いや、それだけではないはずだろう。……ただ、どこまで見抜いた上での行動なのか。
追跡は、予想以上に長引いていた。
木々を抜け、岩壁を登り、冷たい川を渡る。ライトの槍を手にし、ラキは森を知り尽くしているように俺を誘い込んでいく。
苛立ちが募る。影を展開するたびに、体内の生命力が削られていく。
……重い。身体が、石のように。
強まっていく、自分の体の異変。限界が近づいている。秘薬の力を使い続けた結果か。連戦の傷もまだ完全には癒えていない。
視界が時折歪む。
「……そろそろ決着をつけなければ」
俺が全力で距離を詰めようとした瞬間。
木々が途切れ、視界が一気に開けた。
――崖だ。
平らな岩盤が広がり、その先は何もない。
朝日が容赦なく岩盤を照らし、影を落とすものは何一つない。風が吹き抜け、断崖の向こうから冷たい空気が押し寄せる。
ラキの背後には、断崖絶壁と空だけが広がっている。
逃げ場はない――いや、ラキに逃げる気などないのだろう。
「ここなら、お前は影に溶けて逃げることもできないな」
ラキは槍を岩盤に突き立てる。石が欠け、乾いた音が響いた。
ラキは朝日を背負ったまま鋭い視線で俺を射抜く。
逆光で表情は影になっているが、その目は意思を宿して爛々と輝いている。
「……何だと?」
確かに自分を覆う影はまだ維持できている。だが周囲に影がなければ、移動に使うことも、攻撃に使うことも制限される。それに気づいて利用してくるとは。
「お前のその能力は、いくら何でも強力すぎる」
ラキは一歩も引かず、俺を見据えてくる。
その目に、怯えはない。恐怖を押し殺しているのではなく、本当に恐れていない。あくまでも冷静に、というわけか。なるほど、これは確かに俺に――いや、昔の俺に似ているかもしれない。
「かなり希少なようだが、殲獣を利用した魔術の一種なんだろ? だとすれば、何らかの制約があるはずだ」
合理的な推測だ。
俺も、かつてはそうやって標的を分析したものだ。
いつのまにか、見開いた目でラキを見ていた。
「使用回数に制限があるとか」
ラキは指を折るように、一つ一つ数え上げていく。
「特定の条件下でしか使えないとか、使用後に反動があるとか……大きく寿命を削るとか」
風が吹き、ラキの髪が揺れた。血に濡れた髪が頬に張り付いている。
ラキの声は淡々としている。推測を並べているだけで、俺の反応を窺っている様子もない。
いや、窺ってはいる。それを表に出していないだけだ。
「あるいは、時間制限があるとか」
その瞬間、俺を覆っていた影が激しく揺らいだ。
ラキ。こいつを西部出身のただのガキだと思っていた。
サキに見出され、連れ出されただけのただの半獣族のガキ。そう見ていた。
だが、違う。
俺の記憶を見た程度で、ここまで食らいついてくる。
感情を殺し、冷静に状況を分析し、最適解を導き出す。
その思考回路は、かつて俺が帝国で身につけたものと本質的に同じだ。
「図星か」
ラキの唇が確信に歪む。その表情を見て、俺は悟る。どうやらこのガキは本当にすべてを見抜いているらしい。
「俺が槍を取り返しに来ることを見越し、影の使えない場所まで俺を誘い出したというわけか」
ラキは槍を高く掲げる。
「お前にとってこの槍は、サキの絶望を完成させるための重要な道具だろう?」
俺は黙っている。その沈黙が肯定の意味を持つとラキは解釈したらしい。
「だから俺が槍を奪えば、お前は必ず追ってくる」
ラキは話を続けた。
「もっと言えば――いずれお前は、この槍でサキを殺すつもりだったんだろう?」
ラキの目は鋭く細められる。痛みに耐えながらも、思考を止めていない。戦略を練る目だ。
「……そこまで、俺の思考を汲み取れるのか」
驚きは、やがて冷ややかな感銘へと変わる。
ラキに記憶を流し込んだのは、元々意図したことではなかった。
砦でラキを斬りつけたあの瞬間。洗脳を解くために記憶へ触れたとき、俺とラキの波長が異様なほど共鳴し――制御できず、すべてが流れ込んでしまった。
当時は、さほど気にも留めなかった。サキを乱す楽しみが増え得るくらいに考えていた。
だが、ここまで利用されるとなれば話は別だ。
「逃げようとしてももう遅い。ここに影はない」
ラキは、確信を込めて言い切る。
「お前の影の魔術の効果が切れるまで、絶対に逃がさない」
短い沈黙。
「弱体化したところを切り刻んでやる」
ラキは剣を強く握りしめる。
その手には血が滲んでいる。それでも、決してそれを手放さない。
痛みも、傷も、すべて無視して、目的だけを見据える。
そのためなら、自分の身体がどうなろうと構わない。
……ああ、本当に。
――本当に、似ている。
そう思った瞬間、自然と口元が緩んでいた。
「何がおかしい?」
ラキが不機嫌そうに口を開く。
「いや? 何もおかしくはないさ」
俺は影で剣を型取り、構える。影が揺らめき、刃の輪郭が陽光の中で歪んだ。
剣先でラキを指しながら、俺は事実を告げていく。
「ただ興が乗ってきただけだ」
「……は?」
一歩、踏み出す。岩盤を踏みしめる音が、静寂の中に響いた。
「自分と似た人間を殺すことに、意味を見出したことはなかった。だが存外、これも当たりかと思ってな」
ラキの表情が、わずかに歪む。
それは怒りにか、困惑にか、はたまた――。
いや、何でも良いな。
殺せば分かることだ。




